風が通る道
夜明けのノワルに、柔らかな風が流れていた。
まだ細く頼りないが、確かに“息をしている風”だった。
屋根の布がわずかに揺れ、人々の袖を撫でていく。
ミナが空を見上げて言った。
「ほんまに吹いとる……。夢やないんやな」
ルナが頬に手を当てて微笑む。
「風は戻りたかったんだと思う。
ずっと、誰かに呼ばれるのを待ってた」
アリアが静かに頷いた。
「――なら、次は“通り道”を思い出させてあげないと」
ソラが首をかしげる。
「通り道? 風って、勝手に行くもんちゃうんか?」
アリアが遠くを指さした。
「いいえ。
ノワルの奥には、かつて“風を導く塔”があった。
あの塔こそが、この谷の心臓だったの」
⸻
古き塔へ
町の北端。
人の足が久しく絶えている石段を登ると、
苔に覆われた塔が姿を現した。
灰色の石に刻まれた古い紋様。
扉は閉ざされ、周囲の空気は冷たい。
だが塔の上部だけが、朝の光を受けてほのかに輝いていた。
ミナが息を呑む。
「なんやろ……呼ばれとるみたいや」
ルナが静かに手をかざした。
指先に、わずかな風の震えが触れる。
「この中に、まだ風が生きてる」
ソラが扉を押すと、
軋む音が響き、ゆっくりと開いた。
⸻
眠る記録
塔の内部はひんやりとしていた。
螺旋の階段が上へ伸び、
壁一面には古い石板と封じられた香壺が並んでいる。
アリアがひとつの石板を撫でながら言った。
「ここは“風守り”の塔。
この谷に吹く風を読み、香を合わせ、
人と風を調和させていた場所よ」
ルナが小さな香壺を覗き込む。
中には乾いた草と薄い羽根のようなものが入っていた。
アリアが静かに続ける。
「けれどある時、風は暴れた。
香を求め、家々を壊し、人々の命を奪った。
その時、風守りたちは決めたの――
“もう風を使わぬ”と」
ソラが低く呟く。
「それで、香を閉じて……町ごと静めたんか」
⸻
忘れられた願い
塔の最上部にたどり着くと、
そこだけ空が開けていた。
崩れた天井の隙間から光が差し込み、
石の床の中央には、大きな円の刻印があった。
ミナがその上に立つ。
「……風の“道印”やな」
アリアが頷く。
「ここに立つと、谷を抜けるすべての風が集まる。
かつて、この場所で香と歌を合わせ、
風を鎮めていたのよ」
ルナが静かに目を閉じた。
「でも、香を閉じた時……風も眠った」
その瞬間、
塔の奥から、わずかに“囁くような音”がした。
風が――微かに通ったのだ。
アリアがそっと微笑んだ。
「風は怒ってなどいなかった。
ただ、忘れられていたの。
“共に生きる歌”を」
⸻
結び
塔の上で、ミナが鍋を取り出し、
少しだけ草を煮出した。
香りが立ち上り、それが風に触れた瞬間――
塔の中を、やわらかな旋律のような風が通り抜けた。
ルナが息を呑む。
「風が……笑ってる」
アリアが頷く。
「古き風は、記憶を取り戻した。
もう一度、この町と共に流れようとしてる」
ソラが荷車を押しながら微笑む。
「なら、うちらもその“通り道”にならなあかんな」
――塔の上を、風が駆け抜けた。
閉ざされていた香壺がひとつ、音もなく開いた。
中から漂う香りは、どこまでも澄んでいて、
それは“赦し”のような甘さだった。
風は再び、町を覚えた。
塔の古い紋様が光り、
谷全体に新しい風の道が開かれていく。




