風を忘れた町
夜の儀式が明け、朝の光がノワルの屋根を照らしていた。
だが、町の空気は相変わらず重い。
風のない朝は、音が遠くまで届かず、
鳥の羽ばたきさえも小さな影のように沈んで見えた。
ミナが鍋を磨きながら言った。
「……やっぱり、風は戻ってこんな」
ソラが空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。
「空が綺麗すぎるのも、なんか寂しいな」
ルナが町の外れの道を見つめながら呟いた。
「けれど、何かが変わり始めてる。
空気が……ほんの少し軽い」
アリアが目を細める。
「風の記憶が、この町の底でまだ息をしているのよ」
⸻
小さな揺らぎ
町の広場では、老人が香炉を拭いていた。
その動作は慎重だったが、
昨日の儀式のときよりも、どこか柔らかい。
ふと、若い娘が近づいてきて、香炉の蓋を少しだけ開けた。
老人が驚き、止めようとしたが、
娘は小さく微笑みながら言った。
「……風を、感じてみたいんです」
その瞬間、
香炉の隙間から、わずかな香りが空気に溶け出した。
それは花のような、懐かしいような匂い。
ほんの一瞬だけ、
町の空気が“動いた”。
ルナがそれを感じ取り、そっと目を閉じた。
「今、風が――息をした」
⸻
まかない部の昼
ミナが町の通りで鍋を出していた。
最初は誰も寄らなかったが、
子どもが一人、恐る恐る近づいてきた。
「それ……匂い、してもいいの?」
ミナが笑って答える。
「ええよ。風が怒らんように、ちょっとだけやけどな」
スープの湯気が立ち上り、
その香りがほんの少しだけ町の空気に広がった。
誰も声を上げなかった。
けれど、その沈黙の中に、確かに“温かさ”が生まれた。
ソラが火を見ながら言った。
「風はな、戻るもんやのうて、呼ばれるもんや」
アリアが頷いた。
「そう。風は、求める心に触れたときだけ吹く」
⸻
再び吹く気配
午後、町の端にある小さな丘に上ると、
ルナの髪が微かに揺れた。
ほんのわずか――けれど確かに、風が吹いた。
ミナが驚いて振り向く。
「いま……動いたで!」
ソラが笑って言う。
「やっと思い出したんやな、風も。
“ここにも道があった”って」
アリアが静かに呟く。
「これは風の“芽吹き”。
きっとこの町の心が、閉じるのをやめ始めた」
ルナが目を閉じ、頬を撫でる風を受けた。
「忘れても、風は消えない。
ただ、待ってるだけ――人が思い出すのを」
⸻
結び
夕暮れ、香炉のそばにいた娘が、
そっと蓋を開けたまま、目を閉じて祈っていた。
風が静かに通り抜け、
香が町中に淡く漂う。
ミナが小さく呟く。
「……ええ匂いや。
ようやくこの町にも、息が通ったな」
ソラが笑う。
「香りが風に乗ったら、もう止められへんで」
アリアが微笑む。
「それでいいの。
風は、赦しと再生の証だから」
ルナが灯りを掲げ、空を見上げる。
「――おかえり、風」
その瞬間、ノワルの屋根をなでるようにして、
穏やかな風が吹いた。
長い眠りから覚めたような、やさしい風だった。
町の香が、空へと舞い上がる。
閉じられていた心の蓋が、
ゆっくりと開いていく音がした。




