香りを閉じる町
南の谷に下りると、風が止んだ。
まかない部の四人は、思わず足を止める。
背中まで吹いていた穏やかな風が、
まるで谷の入口で切り落とされたように消えた。
ミナが首をかしげる。
「……急に静かやな。
風が、どっか行ってもうたみたいや」
ルナが耳を澄ませた。
「音もない。木も鳴かないし、水も流れてない……」
ソラが口笛を吹こうとしたが、
その音も空気に吸われるようにして消えた。
「……なんやここ、空気が“重い”」
谷の底には町が見えた。
屋根は低く、煙突の煙も立っていない。
空気は澄んでいるのに、どこか息苦しかった。
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風のない町
ノワルの門をくぐると、
人々がまかない部に気づいて一瞬だけ手を止めた。
けれど、すぐに何事もなかったかのように静かに頭を下げ、
声を出さずに仕事へ戻る。
ミナが小声で言った。
「なんや、挨拶もせぇへんのか……?」
ダグが町の壁を見上げる。
「……見ろ。壁が高い。風を遮ってる」
確かに、町の周囲には木の柵と厚い土壁が続いていた。
まるで風そのものを拒むように。
ルナが低く呟いた。
「“香りを外に出さない”って、
こういうことなのね……」
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不思議な掟
町の中心にある広場。
そこでは小さな火が灯り、数人の老人が香炉を囲んでいた。
彼らは風除けの布を重ね、
香りが外に漏れぬよう慎重に蓋をしていた。
ミナが我慢できずに声をかける。
「おばあさん、それ……何してるん?」
老人はゆっくり顔を上げ、
唇だけを動かして答えた。
「……風は“奪う”」
ルナが目を見開く。
「奪う……?」
「香りを奪い、音を奪い、心を散らす。
この谷では、昔それで多くを失った。
だから我らは香を閉じ、風を閉じて生きる」
ソラが息をのむ。
「風を閉じる、て……。
そんなん、息苦しゅうてかなわんやろ」
老人は首を横に振った。
「それでも、生きていける。
風がなくても、人は立てる。
……そう信じてきた」
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沈黙の町
町の通りには香炉がいくつも置かれ、
どの家も窓を閉め切っていた。
鍋を炊く煙は天井から漏れず、
料理の匂いすらどこか遠い。
ミナが呟いた。
「ここじゃ、飯の匂いもしぃひん。
……なんか、味まで閉じ込められてる気ぃする」
ルナがうなずく。
「風がいないと、“届かない”のね。
香りも、言葉も、気持ちも」
ソラがぽつりと言った。
「なんか……人が風を怖がる気持ち、初めて分かった気ぃする」
ダグが低く言った。
「恐れが長く続けば、それが掟になる。
でも――それは、生きる術でもある」
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結び
夕暮れ、ノワルの空は奇妙に静かだった。
鳥の声も波の音もなく、
ただ人の足音だけが道に響く。
ルナが灯の揺れる屋根を見上げて言った。
「この静けさは、きっと昔の痛みの形。
……風を拒むことで、平穏を保ってるのね」
ミナが唇を噛んだ。
「せやけど、香りも風もない世界、
それは“生きとる”って言えるんやろか」
ソラが荷車に腰を下ろし、遠くを見つめる。
「風を閉じる町……。
次は、ここに風を思い出させるんがうちらの仕事かもな」
――夜の帳が降り、
静寂が町を覆った。
風は、まだ一度も吹かない。
けれどその静けさの奥で、
確かに“何か”が息をしていた。




