風の兆し
夜明けのフレース岬は、いつもより少しだけ冷たかった。
風の通り道に立つと、
普段なら潮の匂いが混じるはずの風が――妙に淡白だった。
ルナが髪を押さえ、耳を澄ませる。
「……音が違う」
ソラが鍋の支度をしながら笑う。
「そら、風も寝坊したんやろ。昨日あんなに吹いとったし」
けれど、ルナの表情は笑っていなかった。
「風が、何かを探してるように感じるの」
その言葉に、アリアが静かに顔を上げた。
彼女は塔の方角を見つめ、目を細めた。
「……南の層が沈んでる。こんな風は、あんまり良くない」
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変わる風
昼になると、町の空気に微妙な変化が出た。
洗濯物が普段より重く揺れ、
風鈴の音がいつもより少し低く響く。
人々は気づかぬふりをしていたが、
その違和感は町中を静かに包み始めていた。
ミナが市場で風除けの布をたたみながら呟いた。
「なんやろ、風が“息切れ”しとるみたいや」
パン屋の女主人も頷いた。
「朝から膨らまないのよ。
風が止まると、生地も寝てしまう」
アリアは丘の上から風向きを測り、
指先で空気の層を確かめていた。
「……上の風が行き場をなくしてる。
でも地の風はまだ元気。
つまり、“押し返されてる”のね」
ソラが腕を組んだ。
「風同士が喧嘩してるんか?」
アリアが小さく頷いた。
「そう。たぶん、遠くで何かが変わってる。
けど、まだ“届きかけ”の段階」
⸻
まかない部の不安
夕方、まかない部はいつもの広場で火を起こした。
けれど、火がうまく燃えない。
風が一定に流れず、炎が右へ左へと迷う。
ミナが眉をひそめた。
「風、落ち着かへんな……。
火が焦げるでもなく、冷めるでもなく、中途半端や」
ソラが火ばさみで風を読もうとするが、
煙が急に渦を巻いて、空へと吸い込まれた。
ルナが見上げて呟く。
「風が、“逃げてる”」
アリアはその言葉に反応し、すぐに塔の方を見た。
風鈴が微かに鳴り、音が一瞬で止まる。
「……これは、始まりの音」
その声は静かだったが、確信に満ちていた。
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夜の兆し
夜になると、海の色が深く沈んだ。
灯台の光が届く範囲でも、波の動きが違って見える。
遠くで雷のような光がちらりと走った。
アリアが静かに口を開いた。
「嵐じゃない。
でも、“風の道”がひとつ崩れた。
南の風が北に流れ込んでる。
……本来なら、ここには来ない風」
ソラが眉をひそめる。
「つまり、風が道に迷っとるんか?」
アリアが頷く。
「ええ。でも、迷ったまま進もうとしてる。
それが一番怖いのよ」
ルナがその言葉を聞きながら、
灯台の方角へ目を向けた。
風が頬を撫でる――
いつもの柔らかさが、ほんの少しだけ鋭くなっていた。
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結び
深夜。
町の家々は眠りにつき、風の音だけが残っていた。
けれど、その風の中には、確かに“ざらつき”があった。
まかない部の小屋の窓辺で、ルナが静かに書き記す。
――「風の音、変化あり。
息を潜めたような、囁きの奥に“逆流”の気配」
ミナが毛布を引き寄せて呟いた。
「……なんや、胸がざわつくな」
ソラが眠そうに返す。
「まあ、風が怒っとるわけちゃう。
ちょっと考えごとしとるんやろ」
ルナはその言葉に小さく笑った。
「そうね……。
でも、その“考えごと”が、
誰かの願いならいいんだけど」
――風が再び、静かに動いた。
それは何かを伝えようとするようで、
けれど、まだ誰も理解できなかった。
夜の海が、かすかに鳴った。




