風の向こう岸
午後の陽射しがやわらかく落ちるころ、
まかない部は大きな川の前に立っていた。
対岸には、霞のように森が広がっている。
だが、その森へ渡る風がない。
どれほど強い追い風も、川を越えるときにふっと途切れてしまう。
ソラが眉をひそめた。
「……風が止まる。まるで“渡るな”言うてるみたいや」
ミナが足元の草を見た。
草の先端が、風に揺れずにじっとしている。
「ここだけ、息してへん感じやな。空気、止まっとる」
ルナが髪を押さえながら、目を細めた。
「風の音がしない……水も、音を立ててないわ」
ダグが低く呟く。
「自然が黙ってる場所、か」
⸻
川辺の静寂
川の流れは緩やかだった。
けれど、見ていると時間の感覚が消える。
光が反射しているのに、揺れがない。
ルナがそっと指を伸ばし、水面に触れた。
冷たい――だが、その冷たさにも何かが欠けている。
「……動いていない水って、こんな感触なのね」
ミナが顔をしかめる。
「水って、流れてへんと生きもんやないんやな。
風も水も止まると、こんなに“音”がなくなるんか」
ソラが小石を投げた。
波紋は立ったが、広がらず、そのまま消えた。
「……こら、不気味やな」
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川を知る老人
背後から声がした。
「その川は、“風を映す鏡”だよ」
振り返ると、いつの間にか老人が立っていた。
ぼろの外套をまとい、長い杖を持っている。
顔は陽に焼けているが、瞳だけがやけに澄んでいた。
ソラが警戒しながら尋ねる。
「じいさん、この川、どういうことなんや?」
老人はゆっくりと川を見た。
「昔、ここでは風が強すぎた。
森を裂き、人を流し、火を消した。
それで、風そのものが“渡るのをやめた”」
ルナが目を見開く。
「……自ら止まった?」
老人は頷いた。
「風は、生きものだ。
この川に、自分の姿を映して眠っておる。
起こすことはできる。だが――静かに、話しかけねばならん」
ミナが囁く。
「うちらが、また“まかない”せなあかんのやな」
⸻
眠る風への語りかけ
夜になり、川辺に火を焚いた。
風は吹かず、炎はほとんど揺れない。
その静けさの中、ミナが鍋を火にかけた。
ルナが水を注ぎながら言う。
「風のいない火って、こんなにも息が浅いのね」
ソラが微笑む。
「けど、風が帰りたくなる匂い出せばええ」
やがて鍋から香草と穀の香りが立ちのぼる。
火の上で、湯気がまっすぐ昇っていく。
老人がその様子を見ながら、目を細めた。
「……風が、目を覚まし始めておる」
ダグが耳を澄ませた。
川の向こうで、ほんのわずかに草が鳴った気がした。
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結び
夜明け前、川霧が静かに漂う。
その霧の中に、淡い風の音が混ざった。
かすかに、水面が波打つ。
ルナが息を呑む。
「……風が、渡ろうとしてる」
ソラが呟く。
「まだやめへんかったんやな」
ミナが笑う。
「どんなに黙ってても、風は戻りたがるんや」
老人が微笑んだ。
「風は人の声を聞いて眠り、
火の匂いで目を覚ます。――お前たちのようにな」
――朝日が昇る。
霧が溶け、風が川を越えて流れた。
その一陣の風は、まかない部の頬を撫で、
やがて向こう岸の森へと吸い込まれていった。
静寂の奥で、何かが目を覚ます。
風が渡ったその先に、まだ知らぬ“何か”が待っていた。




