風の祈り
夜の谷を、灯がゆらめいていた。
それは松明でも、祭りの火でもない。
人々の家々からこぼれる、手のひらほどの明かり。
窓辺に灯を置き、風鈴の紐を結び、
誰もが小さな声で風に語りかけていた。
――「どうか、怖くない風でいてください」
――「明日も、子どもたちの頬を撫でてください」
その声は、谷中の空気に溶けてゆく。
風はまだ弱い。けれど確かに“応えて”いた。
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灯の集まる広場
まかない部の四人は、広場に鍋を置いていた。
周囲には人々が静かに集まり、
ひとつ、またひとつと灯を地に並べていく。
ミナが薪に火をつけた。
「火、よう燃えるようになったな。
空気、昨日より軽い気ぃする」
ルナが微笑む。
「風が呼吸を覚えたのね。
人の祈りが、風をほどいてる」
ソラが鍋をかき混ぜる。
「祈り言うても、言葉ちゃうんやな。
こうして生きること全部が、祈りなんやろな」
ダグが静かに頷いた。
「食うことも、笑うことも、風を信じる行為だ」
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響きあう声
長老が広場に姿を現した。
手に小さな風鈴を持ち、
それを高く掲げた。
「――今宵、風に祈ろう。
恐れを語るためでなく、
共に息づくことを願うために」
その言葉に、人々が息を呑んだ。
ルナが目を細めて呟く。
「掟が、祈りに変わる瞬間ね」
長老が風鈴を鳴らす。
その音が、空へ吸い込まれる。
ひとり、またひとりと人々が鈴を鳴らした。
高い音、低い音、震える音――
どれも不揃いで、けれど美しかった。
それはまるで、
“閉じられた空”の鍵が少しずつ回る音のようだった。
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風の帰還
鍋の火がふっと揺れた。
ミナが顔を上げる。
「風、戻ってきた」
ソラが笑う。
「うちの飯の匂い、ちゃんと流れとる!」
空を見上げると、
薄い光の幕がひび割れ、夜空の星が覗いた。
風鈴が一斉に鳴る。
谷の空気が動き出し、
木々が、屋根が、草が、音を奏ではじめた。
ルナが目を閉じ、両手を広げた。
「――風が帰ってきた」
長老の頬に涙が伝った。
「恐れていたものが……
実は、わしらを生かしていたのかもしれん」
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結び
夜が更けるころ、
谷には新しい音が満ちていた。
風と人と、灯と火――それらが静かに調和していた。
ソラが鍋を見つめて言った。
「風が戻ると、味まで違うな。
優しいけど、芯が通っとる」
ミナが笑う。
「それはきっと、人の味や」
ルナが囁く。
「風は“人の声”を覚えてた。
忘れたのは、私たちのほうだったのね」
ダグが静かに鍋をかき混ぜる。
「風を呼ぶ料理、掟を越える音。
まかないの旅は、まだ続く」
――谷の上空、風が星を撫でて流れた。
音が重なり、夜が祈りに変わっていく。
その祈りは、誰のものでもなく、
ただ“生きること”の証として、空に溶けていった。




