風の目覚め
夜が明けきらぬ谷に、
ほのかな光が差していた。
霧が薄く流れ、風鈴が小さく震える。
音はかすかだが、昨日よりも少し高く響いていた。
まかない部は、広場の片隅で鍋の支度をしていた。
誰もが口を閉ざしている。
昨日の長老の言葉が、まだ胸に残っていた。
“風を乱すな”。
その声は恐れよりも、祈りのように響いていた。
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朝の静けさの中で
ソラが薪を組みながら言った。
「この静けさ……なんか違うな。
昨日までの重たい空気やない」
ルナが鍋の水を見つめて頷く。
「水の面が揺れてる。
風が、少しだけ動いてるわ」
ミナが微笑む。
「谷の子らが、寝息で風起こしたんちゃう?」
ダグが短く答えた。
「……人の心が揺れたんだ。
掟を信じながらも、どこかで“変わりたい”と思ってる」
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ひとりの母
そのとき、背後から声がした。
「――旅の方。少し、話をしてもいいですか」
立っていたのは、昨日広場で出会った少女の母親だった。
両手に籠を抱え、目の奥に迷いが宿っている。
「うちの子……風のことを話したでしょう」
ルナが穏やかに頷いた。
「ええ。風を怖がってるようでした」
母親は小さく息をついた。
「私もそう教えられてきたんです。
風を乱せば、空が割れて人が消えるって。
けれど、昨日……あなたたちの火を見て思いました。
風が動くのは、悪いことじゃないんじゃないかって」
ミナが微笑んだ。
「風は、止まる方が苦しいんですわ」
母親は小さく笑って頷いた。
「……それでも、怖い。でも、少しだけ、懐かしい」
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子どもたちの囁き
広場の端で、子どもたちが風鈴を触っていた。
誰も止めに来ない。
指でそっと弾くたびに、ちりん、と音が鳴る。
音は小さいが、確かに“自由な響き”だった。
ソラがその様子を見ながら言った。
「人の手で鳴らす風鈴も、ええ音やな」
ルナが微笑む。
「風を呼ぶのは、祈りだけじゃないのね。
触れて、聞いて、感じることが、呼びかけなのよ」
ミナが火を見つめながら呟いた。
「この谷の人ら、風を呼ぶ音、まだちゃんと覚えとる」
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長老の葛藤
その夜、長老は自室でひとり、
風鈴の紐を握りしめていた。
音は鳴らない。けれど、耳の奥で幻の風が吹いた。
――かつて、まだ掟がなかったころ。
風が自由に流れ、谷に笑い声が満ちていた日々。
長老は目を閉じた。
「……恐れから始まった掟は、いつしか鎖になったか」
外から子どもたちの笑い声が聞こえた。
小さな音。けれど、それは確かに風を揺らしていた。
長老の手が、静かに紐を離す。
風鈴が――ほんの一音だけ、鳴った。
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結び
その音に呼応するように、谷の空気がかすかに震えた。
眠っていた風が、ゆっくりと目を開けたのだ。
ソラが顔を上げる。
「……今、風が笑うた」
ルナが目を細める。
「人が思い出したのね。風と生きることを」
ミナが息を吐く。
「ほんま、ええ音やな。人の心が鳴らす音や」
ダグが静かに言った。
「風は、誰のものでもない。
けど、誰かの想いで、いつでも目を覚ます」
――夜明けの風が、谷を撫でた。
まだ小さな息吹。
けれど、それは確かに“目覚め”だった。




