閉じられた空
朝の谷は静かだった。
風が吹いているのに、木の葉が揺れない。
まるで空そのものが、何かを押しとどめているようだった。
ソラは鍋の蓋を開けながら、眉をひそめた。
「火が昨日より鈍い……酸素が薄いんか?」
ミナが川の方を見て言う。
「水も、昨日より重たい感じする。
流れとるのに、動いてへんみたいや」
ルナが風の流れを読むように目を細める。
「風が、どこにも抜けていかない。
この谷……空気の出口がないのよ」
ダグが低く呟いた。
「風を乱さぬって言葉――“閉じたままにせよ”って意味かもしれんな」
⸻
不自然な穏やかさ
まかない部が広場を通ると、
人々は皆、同じ方向に顔を向けていた。
言葉を交わすこともなく、
風鈴の音を静かに聞いている。
ルナがそっと囁く。
「……おかしい。風鈴の鳴り方、規則的すぎる」
ソラが眉をひそめた。
「風まで“指示されとる”みたいやな」
近くにいた少女が、小さな声で言った。
「風を乱すと、空が割れるんです」
まかない部の四人が、思わず振り向いた。
ミナがしゃがんで目線を合わせる。
「空が……割れる?」
少女はうつむき、指で地面をなぞった。
「昔、この谷では“風嵐”があったの。
空が裂けて、風が人をさらっていったの……だから、今は風を眠らせてるの」
ルナが息を呑む。
「……だから“乱さぬ”のね。
恐怖が掟になったのよ」
⸻
封じられた風
その夜、まかない部はこっそり谷の外れへ向かった。
ルナが風石を地に置き、手をかざす。
風の流れを視る魔法の光が淡く広がった。
光は谷の上空で止まり、壁のような形を描いた。
透明な膜が、空を覆っていた。
ソラが息を呑む。
「……これ、風が出られへん“封”や」
ミナが囁く。
「ほんまに閉じ込めとるんやな……。
嵐が怖いからって、風まで縛ってもうたんか」
ダグが低く言う。
「だから火も弱い、水も濁る。
風が止まれば、命も止まる」
ルナは光の中に手を伸ばした。
指先がかすかに震え、風が一瞬だけ囁いた。
“――ここを開けて。”
⸻
掟の真意
翌朝、まかない部は村の長に呼び出された。
広場の中央、風鈴の列の前で、長老が待っていた。
「旅の者よ。谷の掟を破ってはならぬ」
ソラが一歩前へ出た。
「うちらは何も壊してへん。ただ、風の声を聞いたんや」
長老の表情は動かない。
「この谷を守るためだ。風は危険だ。
再び“空を裂く”ことがあってはならん」
ルナが静かに言う。
「それで、風も、人の心も閉じ込めたんですね」
長老の目が揺れた。
沈黙ののち、掠れた声で答える。
「……あの日、風が暴れたのは人のせいだった。
誰かが“風を操ろうとした”のだ」
ミナが拳を握る。
「操るんやなくて、話せばええのに」
長老は微かに目を伏せた。
「その“話し方”を、私たちはもう忘れたのだ」
⸻
結び
谷を覆う空の膜が、朝陽を受けて光った。
まかない部は広場の外で立ち止まり、風を感じようとした。
けれど、風はまだ眠っている。
ソラが呟く。
「風は怖がっとるんやなくて……悲しんどるんや」
ルナが頷いた。
「閉じた空は、閉じた心の写し。
どちらかが動かないと、風は戻らない」
ミナが静かに火を灯す。
「じゃあ、うちらの仕事は決まっとる。
――風をもう一度、食卓に呼ぶんや」
ダグが短く言う。
「命の音で、掟を越える。
それが、まかないのやり方だ」
――風はまだ眠っていた。
だが、ほんのわずかに空気が震えた。
まるで谷のどこかで、“息を整える音”がしたようだった。




