風待ちの峠
昼を過ぎた峠道は、淡い霞に包まれていた。
山の影がやわらかく伸び、
風は、ひと息ごとに違う匂いを運んでくる。
ソラたちは、荷車を押して坂を上っていた。
谷から吹き上げる風はまだ冷たく、
けれどどこか、春を含んでいるようだった。
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茶屋の老人
峠の頂に、古びた茶屋があった。
屋根は苔むし、軒先には小さな風見がぶら下がっている。
その風見が、まるで呼吸をするようにゆっくり回っていた。
中から、低い声がした。
「おや、旅の方か。風がちょうど休んどる時刻じゃ」
出てきたのは、背の曲がった老人だった。
白い髭が胸元まで伸び、
目は細いが、笑うと山そのもののような穏やかさがあった。
ミナが頭を下げる。
「お邪魔します。風、休んでるってどういう意味や?」
老人は笑って、手を振った。
「風にも休み時がある。
急ぐ者を通して、疲れたら谷に戻る。
峠は、風の寝床みたいなもんさ」
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風を読む茶
老人が茶を淹れはじめた。
湯気が立ちのぼり、香ばしい香りが風に乗る。
その香りが、まかない部の鍋の匂いとよく似ていた。
ルナが思わず言う。
「……いい匂い。どんな茶葉ですか?」
老人がにこにこと笑う。
「風に晒した葉じゃ。
摘んでから一晩、風の音を聞かせておくと、渋みが抜ける」
ソラが興味深げに聞いた。
「音で味が変わるんか?」
「変わるとも。
風の音は、葉の中の眠りを覚ますんじゃ」
ミナが頷く。
「なるほど、風のまかないと似とるな。
風通すと、飯も味が起きる」
老人は目を細めた。
「そうじゃろう。風を味方にできる者は、道に迷わん」
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小さな知恵
茶を飲みながら、老人はぽつりと話した。
「風は、急いでいる者には顔を見せん。
立ち止まる者の頬を撫でて、道を教える。
それに気づくかどうかが、旅人の分かれ目じゃ」
ソラがしみじみ頷く。
「急いでも風は追いつかんのやな」
ルナが微笑む。
「けれど、待つ者には寄り添ってくれる」
ミナが茶碗を回しながら笑った。
「うちら、ええ旅してるんやな」
ダグが短く言う。
「風の寝床を見つけたってことか」
老人は穏やかに笑う。
「そうとも。お前たちは“風の流れ”におる。
この先も、風が導いてくれるさ」
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結び
茶を飲み終えるころ、峠の風が再び動き出した。
風見がくるりと回り、山桜の枝がかすかに揺れた。
ミナが息をついて言った。
「風、起きたな」
ソラが荷車の取っ手を握る。
「ほな、うちらも行こか」
ルナが老人に頭を下げた。
「お茶、ごちそうさまでした。……あたたかかったです」
老人は笑って答えた。
「また風が休みたがったら、寄っていきなさい。
風は、食と同じ。人の心で変わるものじゃ」
――峠を下るとき、風が背を撫でた。
その手のひらのような優しさに、
まかない部はまた一歩、次の風へ歩き出した。




