谷に響く声
風見の丘を越えると、空気が一段と澄んだ。
細い山道を抜けると、そこは大きな谷――
深い森に抱かれた、静かな世界だった。
鳥の声も虫の音もなく、風すら止んでいる。
ただ、谷全体が息をひそめるように沈黙していた。
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谷の底
足元の草は、朝露に濡れて青白く光っていた。
ソラが足を止め、低く呟く。
「……音がない」
ミナが辺りを見回す。
「なんか……時が止まったみたいやな」
ルナが風を感じ取ろうと手をかざす。
けれど、風はまったく動かない。
「……でも、“何か”はあるわ」
その声と同時に、どこからともなく低い響きが広がった。
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響く声
それは言葉ではなかった。
けれど、耳ではなく胸の奥に直接届く“声”だった。
――ここに来たのか。
ルナが目を見開く。
「聞こえた?」
ソラも頷く。
「ああ。……でも、誰の声でもない」
風が、ゆっくりと谷を渡っていく。
音のない空気が震え、草が揺れた。
――お前たちは、“直した”。
――だから、ここを“見せる”。
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現れる光
谷の中心で、霧が立ち上がった。
それはやがて形を帯び、人の輪郭のようになった。
髪のように風を揺らし、瞳のように光を放つ存在。
ミナが息を呑む。
「……精霊、なんか?」
ルナは首を横に振る。
「もっと古い。風でも、木でもない……“この土地”そのもの」
存在は笑うように光を揺らし、彼らの周囲を包み込む。
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交わされる言葉なきやり取り
光は四人の頭上を巡り、そして刺客の背後で止まった。
男の外套の裾が、まるで呼吸のように揺れた。
――かつて“奪った”手が、今は“守る”ためにある。
――それでよい。
男は目を伏せ、静かに言った。
「……ありがとう」
風が再び吹き、光が舞い上がる。
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残された余韻
光は空へ溶け、風が谷全体を満たした。
花の香りが漂い、鳥の声が戻ってくる。
ミナが深呼吸し、笑った。
「なんや……体が軽なった気がする」
ソラが頷く。
「風が、祝ってくれてるんやろな」
ルナは目を閉じ、そっと呟く。
「――ありがとう、谷の声」
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結び
陽が傾き、谷に金色の風が流れた。
まかない部は荷車を押しながら、静かにその場を後にする。
――その背に吹いた風は、どこかで笑っているようだった。




