山椿の便り
プラットフォームに電車が入ってきた。
いつも通りの満員電車だ。あの中に入るのかと思うと、一気に気分が滅入る。
社会人になってまだ一か月しか経っていないが、すでに心が折れそうだった。
相葉澪はスマホをカバンに放り込むと、意を決してあふれ出る人の流れをかき分けて進んだ。
ドアのロックが外れた音が響く。澪は自分の席を探した。
開いている席ならどこでも利用してよいのだが、どうにもなじまない。小学生の頃から席は決められていたのだから、自由席というものに慣れないのだ。
「慣れたら楽だよ」とは言われるが、根源的に受け入れるのは難しい。そういうところが古風なのだと自覚している。
ノートパソコンの電源を入れて認証すると、画面が立ちあがった。
今日のタスクを確認する。打ち合わせと書類整理、そして退勤後は……。
「飲み会か……」
新入社員の歓迎会があるだけましなのかもしれない。最近はそういうのも開かれないと聞くからだ。
隣の部署どころか、今この時に隣にいる人のことすら分からない。人間である以上、顔を合わせた付き合いは必要だと感じてる。
「相葉さん、参加するよね」
直属の上司である酒井さんから真っ先に確認が飛んできた。四十歳手前の既婚者だが、仕草が少し女性的で苦手だ。
「はい、特に用事もありませんので」
余計なことを言ったかと思ったが、相手は全く気にしていないようだ。他の新入社員に確認して回っている。飲み会が好きなのだろう。
「はあ……」
大きなため息が出た。
会社で働くというのは、想像していたのと大きく違った。もっとこう、ビシビシ鍛えられるのだと覚悟していたのだ。
幸か不幸か、採用された会社はいわゆる「ホワイト企業」で、全く張り合いがなかった。
友人たちに悩みを訴えても、「超いいじゃん。何が不満なの?」と理解されない。私が求めていたのはこういうのじゃないのだ。
若いうちにキャリアを積んで、業績を引っ提げて転職し、あわよくば外資系で活躍するという夢を抱いていた。
確かに学歴や卒業大学は誇れるものではなかったが、実績があれば未来が切り開けると信じていた。しかし、その夢は入社三日で儚くも打ち砕かれた。
「君の卒業大学では、外資系は無理だね」
人事のベテラン社員に相談すると、あっさりと否定された。彼は定年後にこの会社へ来たが、それまでは泣く子も黙る一流外資系企業で働いていたというのだから、その言葉には重みがあった。
そうして私の夢は泡と消え、もんもんと不満を募らせる日々を送っていた。
「乾杯!」
酒井さんの音頭で歓迎会は始まった。
なかなかおしゃれな店だった。参加者が六人と少なかったこともあり、会員制のおしゃれなイタリアンが会場だ。
今年の新入社員は五人。指導役の酒井さんが場を取り仕切る。
「じゃあ、みんな、そろそろ自己紹介をしてもらうかな。相葉君からどうぞ」
いきなり指名されてむせる。普通は自分に近い方からだろうに。なぜ端にいる私を指名するのか。
「はあ……じゃあ、やります」
のっそりと立ち上がる。身長169センチの私が立ち上がると、みんなが見上げる形になる。
「相葉澪です。神奈川県平塚市出身。高校まで中国拳法をやっていました。以上です」
座ろうとすると、正面にいた如月春香が声を上げた。
「だめだよ。華道の師範代でもあるでしょ。それも言わなきゃ」
余計なことを。言いたくなかったんだよ。
「一応、華道も免許皆伝です。あまり役には立ちませんが」
それだけ言うと座る。周囲からは称賛の声が上がった。
「じゃあ、次に行こうかな」
酒井が促す。順番に名前と得意なことを公表する場になっていった。
歓迎会はそれなりに盛り上がった。
同期のメンバーはみんな同い年で、実家も近かったので話題も広がるのがありがたい。
居心地は悪くなかった。
明日からの仕事もそれなりにやれるかもしれない、と思う。
「相葉さん、二次会に行く?」
この男は確か、佐々木とか言っただろうか。同い年には見えない老け顔だ。
「えっと、実家通いで門限が厳しいので……」
酒は好きだが、できれば一人で飲みたい。飲む相手は、何も話さない猫か父が一番だ。
「そうなんだ。次は参加してほしいな」
適当にあしらってバス停に向かう。この時間だと電車よりもバスの方が楽だ。
繁華街を離れてとぼとぼと歩く。街灯も少ない<u>小道</u>だ。ここを抜ければ大通りに出る。
電柱の下に一人の女性がうずくまっていた。明らかに酔っ払いだ。
心の中で舌打ちする。放っておけない性分なのだ。
「もしもし、大丈夫ですか?」
見ると自分よりも年下のようだ。かなり飲んだらしく顔色が悪い。
「救急車、呼んだ方が良いかな……」
その時、後ろから声をかけられた。
「そこの子、やばいんじゃないか? 俺たちが送ってやろうか?」
振り向くと、見るからに柄の悪い男たちが立っていた。下心しかないのが見え見えだ。
「結構です。救急車を呼んだので」
いきなり腕を掴まれた。相手は四人だ。取り囲んでくる。
「送ってやるって言ってんだから、言うこと聞いてりゃ良いんだよ!」
ぐいっと腕を引っ張られる。思わず反射的に反応してしまった。
重心を落とし、相手のみぞおちに肘打ちを入れる。八極拳の打撃だ。相手は大きく吹き飛んだ。
それを見て男たちの顔色が変わる。
「このアマッ!」
蹴りを入れてきた男の足を下からすくい上げ、急所に寸打を入れる。続けて掌で下顎を打ち上げた。
自分でもまずいとは思うが、一度外れたストッパーは止められない。昔からこうなるとどうしようもなくなるのだ。
一人はナイフを出そうとしていた。その手を上から踏みつけると、そのまま蹴りを顔面へ入れた。
もう一人が後ろから組み付いてきた。だけど掴み方が甘い。腕を大きく上にあげると、しゃがみ込む。左足を大きく後ろに回し、相手の足を刈り取るように動かした。
倒れた男に一撃を入れようと振り向いたところを、いきなり殴られた。視界がゆがむ。
最初に吹っ飛んだ男が鬼の形相で立っていた。ボクシングの構えだ。
だめだ。足に力が入らない。アルコールで体の制御がうまくできなくなっていた。
他の男たちも起き上がり、全員に抑え込まれる。
「クソ女が。ただで帰れると思うなよ。死ぬまで嬲ってやる」
「この女、やべえ体してる。早く連れていこうぜ」
服の上から胸を揉まれる。パンツスーツだったのが幸いしたが、下も脱がされそうになっていた。
「おい。いい加減にしろ」
低い声がした。街灯の届かない暗がりから一人の男性が現れた。
「なんだ、てめえは?」
殺気だった男の一人が向かっていく。だが、急に力を失って崩れ落ちた。
全員が驚愕の表情を浮かべたが、すぐにその男を取り囲み、一斉に攻撃した。
澪はその男の動きに見覚えがあった。男は全員の攻撃をかわし、次々と反撃していく。
気が付けば、立っているのはその男と澪だけになっていた。
「大丈夫か?」
男は澪に声をかけた。この声、間違いない。
「先生……」
ずっと恋い焦がれてきた相手が、そこにいた。澪に拳法を教えた高遠一樹の姿がそこにあったのだ。
澪は小さい頃、近所の道場で拳法を習っていた。体が弱く、それを心配した両親が通わせたのだ。
そのときの師範<u>代</u>が一樹だった。
一樹は道場の跡取りで、中国拳法のみならず、空手、古武道、剣道、居合道にも精通し、その実力は父親である師範を超えているとまで言われていた。
当時はまだ二十歳の大学生だったが、幼い澪にとって一樹は白馬の王子様そのものだった。
何しろ強いだけでなく、顔は美形、身長は185センチと、完璧な造形と言っても過言ではない。
同じ大学だけでなく、近隣の大学でも有名で、某大企業の令嬢、有名女優、グラビアアイドルなど、名だたる女性たちから交際を申し込まれていたという話を、澪は後になって知った。
自分はまだ小学生で、一樹とは釣り合わないことなど百も承知だ。それでも、夢の中ではいつも一樹と手をつないでいた。
その一樹が目の前にいる。澪は酒の力と状況と、なけなしの勇気を振り絞って叫んだ。
「好きです! 私と結婚してくださいっ!」
数日後、包帯と湿布を張った澪は会社にいた。
あのときの状況を思い出すだけで死にたくなる。あの後、一樹は何も言わずに自宅まで送ってくれた。
多分、酔った上の戯言だと思われたのだろう。羞恥で汗が噴き出す。
「相葉さん、この資料だけどさあ」
佐々木がひょいと顔を出した。澪がぎろりとにらむ。
「あ、後で良いや」
全身がずきずきと痛む。傷はそれほどでもなかったが、殴られた顔には青あざができていた。
「先生にお礼を言わなければ」
でも、こんな顔は見せたくない。せめて回復してから道場へ伺おう。
「なぜ来てしまったのだろう」
その日の午後、土産を持って澪は道場の前にいた。
だめだ。先生のことを考えると我慢できない。それは分かっていた。
稽古中も先生に相手をしてもらっていると嬉しくて必死になっていたし、先生が別の子を指導していると、嫉妬で機根が悪くなった。昔から感情が素直に出てしまうのだ。
まあでも、久しぶりの道場だ。懐かしさもあって門をくぐった。
練習する子供たちの声が聞こえる。私もああやって練習していたな、と思い出す。
玄関から庭先を回って道場の方へ歩いた。子供たちが練習しているのが見える。
心臓が大きく跳ねた。先生がいた。
その姿は自分が練習していた頃と変わらない。道着を着て、全員を見渡している。
澪はずっと庭に立ち尽くしていた。その姿に一樹が気付く。
「こっちに来たらどうだ?」
声をかけられた。澪は慌てて挨拶をする。
「先生! この前はありがとうございました!」
一樹は照れ臭そうに手を振る。
「気にするな。それより久しぶりだろう。参加したらどうだ?」
「え、私がですか?」
「澪が手伝ってくれたら助かるんだが」
一樹は少しにやけて言う。以前より少し歳を重ねた印象だが、それもまた魅力的だった。
「はい! お手伝いさせていただきます!」
久しぶりに道着に袖を通す。気が引き締まる感じがした。
道場に入ると、一樹が澪をみんなに紹介する。
「こちらは君たちの先輩の相葉先生だ。今日はみんなの指導をしてくれる。しっかり学ぶように」
「はい、よろしくお願いします!」
子供たちが大きな返事をする。澪も応じた。
「相葉澪です。一日だけですが、みんなの相手を務めさせてもらいます。よろしくお願いします」
「では、組み手をやろうか」
一樹が澪に声をかけた。
「組み手ですか? 私は構いませんけど」
「その前に、顔の傷は大丈夫か?」
さっと顔が赤くなる。
「だ、大丈夫です。気にしないでください」
生徒たちが何か囁き合っている。顔に大きな湿布を貼っていたら、誰だって変に思うだろう。
澪は一樹と対峙した。
すっと自然体で立つその姿は、昔と変わらない。むしろ以前よりも洗練された感じがする。
大きく息を吐き、目を少し伏せると、左足から踏み込んだ。
右の抜き手、そして右足での薙ぎ払い。全く当たらない。
体は自然と動いた。連続で攻撃を仕掛ける。突き、蹴り、肘打ちから掴みまで、全てが流される。
澪は道場に通っている間に昇級試験を受けて有段者(三段)になっていた。
一樹とは何度も立ち合いをしてきた。澪が攻めて一樹が受ける。これは昔から変わらない。
澪の手が一樹に触れる。足が、肩が、背が、一樹の体に触れる。
この瞬間だけは、一樹が自分のものになる。その感覚は、澪にとって何物にも代えがたい愉悦の時間だった。
(まずい、久しぶりだが、この感覚は……)
ぞくぞくとした喜悦が背筋を駆け上る。思わず声が出そうになった。
「せやあっ!」
大声を出してごまかしたが、変な攻撃になってしまった。足をすくわれて大きくこける。
「ここまでだな」
息も切らさずに一樹が宣言した。
「あ、ありがとうございました」
畳に頭をつけて礼を言う。今の顔は見られたくない。
「今日の練習はここまで。次は来週に」
着替えているときに子供たちに聞かれた。
「先生のこと、好きなの?」
なんてストレートなんだろう。ごまかしようがないじゃないか。
「そうね。ずっと前から好きだよ」
子供相手なら素直に言える。
子供たちがきゃあきゃあ騒ぐ。まあ、気持ちは分かる。
「ほら、いつまでもはしゃがないで。着替えたら帰りなさい」
「はーい、さようなら、先生」
小さい子供はかわいいものだ。静かになった更衣室でふと体を見る。この前の騒ぎで胸にあざができていた。
先生の目に触れれば、きっと心配させてしまうだろう。
見られることはないと分かっているけど、それでも気になるのだ。
着替えを終えて外に出ると、一樹が待っていた。
「元気そうでよかった」
「ご心配をおかけしてすみませんでした」
なぜか一樹が迷ったような顔をしている。
「あの、どうかしましたか?」
「いや、相談があってな。話を聞いてくれたらありがたいのだが」
「こ、こちらこそありがたいです!」
「ん?」
「いえ、なんでもないです。どこかに移動しますか?」
「そうだな。今日はもう遅いし、後日連絡する」
「分かりました。お待ちしています」
来た時とは打って変わって、澪は上機嫌で帰宅した。
「あら、気色悪いわね」
あまりにもにやけていたのだろう、母親から言われてしまった。だけど、いいのだ。
翌日、一樹からLINEが来た。
「よく行っていた店、覚えているか?」
「もちろんです。『キャロット』ですよね」
「明後日、7時に予約したから」
「了解です!」
何年ぶりだろうか、先生と二人きりで会うのは。
思えば道場に通うのをやめたのは、大学受験を控えた高校三年生の夏だった。
それまではどんなに体調が悪くても通っていた。
だけど私が大学受験をすると知って、先生は「学業に専念しなさい」と言った。それは分かる。
しかし、大学生になっても道場に戻ることを許してはくれなかった。「君には道場に通うよりも大事なことがあるはずだ」と言って。
(あのときの私の気持ちなんて、先生には分からないだろうな)
だが、もうそんなことはどうでもいい。二人きりで会えるのなら、すべてを許せてしまう。
当時はカジュアルに利用していたが、意外とフォーマルな使い方もできるんだな、と久しぶりに『キャロット』に来てみて驚いた。普通のイタリアンのはずが、隠れ家的な雰囲気もあることを再発見した。
先生はまだ来ていない。予約された席で周囲を見渡す。
カップルが半分くらい。家族連れや一人の人もちらほら。
シックなデザインと定評のある味で昔から愛されている店だ。私も小さいときは家族で良く訪れた。
「遅れてすまない」
いつもと違って先生はスーツ姿だった。生地は分からないが高級そうな色合いをしている。髪も整えていて、大人の色気がすごい。これ以上好きにさせないでほしい。
のぼせた澪の顔を、一樹が心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?」
はっと意識を取り戻す。
「先生、いつもと雰囲気が違いますね。びっくりしました」
「うん、まあな」
どこか歯切れが悪い。
「どうかしました?」
一樹の変化には異常なくらい敏感だ。平熱が一度上がっただけでも分かる。
「まあ、先に食事にしよう。話はそのあとだ。」
そうですよね、お楽しみは後にしなくちゃ。
それから二人は食事と会話を楽しんだ。
一樹は相変わらず道場で生徒に指導をする毎日を送っている。澪は大学を卒業して会社に就職した事を話した。
「この前は新社員歓迎会だったんですよ。先生が来てくれなかったら危なかったです。」
「そうだったのか。あの時はたまたま用事があって通りかかったんだ。まさか澪だったとは思わなかったよ。」
食事は相変わらず素朴でおいしい。定番の味って素敵よね。
「危険な時でも反射的に動いてしまいますよね。三つ子の魂百までって言いますもん。」
「澪は昔から猪突猛進だったからな。もう少し間を見る心があると良くなるんだけどね。」
先生の笑顔がまぶしすぎる。顔のあざさえなければ。あの男、今度会ったら殺す。
食事を終えてコーヒーを頼んだ。このゆったりとした時間、永遠に時が止まって欲しい。
一樹がカップを置いた。いよいよ来るか?
「で、相談なんだけど。」
「は、はい。」
「道場の跡を継ぐ条件として、結婚をしろと言われている。まあ、それは分かるんだが、相手がね。」
ん?なんか思っていたのと違うぞ。
「見合いをさせられたんだ。澪と会ったのは見合いの帰りだったんだ。」
「俺には釣り合うような肩書もないし、ましてや貧乏道場の跡取りなんて誰も望まないだろう。だから断ろうと思ったんだが、なぜか相手は乗り気で困ってるんだ。そこでどうやったらうまく断れるか相談したかったんだよ。こんなことを言えるのは澪しかいなかったからね。」
「お相手は元華族の末裔で、その子もインフルエンサーとか言う仕事をしているらしい。私には分からないが、お金には困っていないと言う。何が良くて私と結婚したいのかがさっぱりなんだ。」
澪は黙って一樹の話を聞いていた。
「おやじには悪いが、つり合いが取れない。受けるだけみじめになるだけだ。だから断ろうと悩んでいたんだが・・・、おい聞いてるか?」
澪は一樹を真正面から見つめた。
「なんでその話を私にするんですか?」
一樹は戸惑った顔をした。
「なんでって、女性のことを相談できる知り合いが澪しかいなかったから・・・。」
「先生は、私のことをどう思っているんですか?私は単なる弟子のひとりなんですか?!」
そう言って澪は席を立つ。店外に走った。
「おい、澪!」
一樹が叫んでいた。涙があふれるのを止められない。
自宅に戻って部屋にこもる。スマホには一樹からのメッセージが何通も来ていた。
「ばっかみたい。」
一人で舞い上がって、一人で落ち込んでいる。もう疲れた。
次の日、会社に出勤して仕事をしていると、如月春香が声をかけてきた。
「相葉さんを呼んで欲しいって人が受付に来てるって。すっごいイケメンらしくて受付がすごい騒いでたわよ。」
ひどい顔でじろりとにらむ。ため息をついて席を立った。
一階に降りると一樹が受付嬢に囲まれていた。自覚のないイケメンは害悪だ。
「先生」
受付嬢の嫉妬をはらんだ視線が突き刺さる。それをかいくぐって一樹の手を握った。引っ張って歩き出す。
「急に来ないでください。」
やばいくらい心臓が高鳴ってる。こんな状況、想像もしていなかった。
高身長でスーツ姿がやばいくらいに似合ってるし、少し白髪の混じったヘアスタイル、何より完璧に整った顔立ち。この国宝級の悪党が私の知り合いというのが罪なのだ。
「すまない。この前の謝罪をしたくて。」
「そんなこと良いんです。私には関係のないことだから。」
少し離れたカフェに移動した。二人ともコーヒーはブラックだ。
気持ちが落ち着いた。カップを置いて一樹を見る。
「先生、もう私に会わない方が良いと思います。」
「それは、なぜだ?」
「これから道場を継ぐために見合いをするわけですよね。私がいたら邪魔になると思うんですよ。」
一樹は少し首をかしげた。そのしぐさは止めろ。
「だって私は、先生とは指導を受けた弟子という間柄でしか無いんです。先生と付き合っているわけでもないし、まして恋人でもありません。そんな女が先生の近くにいるだけで余計な噂が立ってしまいます。」
自分で言っていて泣けてくる。なんでここまで自分を卑下しなくちゃいけないんだ。
その時、一樹が手を伸ばしてきた。頬に触れる。
「そんなことはない。澪は私にとって大切な存在だよ。」
大きく目を見開く。おい、それは反則だろう。
「先生、言ってる意味を分かってます?」
「分かってるさ。なぜ私が澪に相談したと思ってるんだ。」
おいおい、ここで逆転満塁ホームランかよ。
思わず涙がこぼれる。
「先生、私、嫉妬深いですよ。」
「知ってる。」
「疑い深いですよ。自分でも抑えられないくらいやばいです。」
「分かってる。」
涙で視界が曇る。どうしよう、止まらない。
「こんな女でも良いんですか?今なら撤回できますよ?」
「撤回して欲しいのか?」
いじわるそうな顔で聞いてくる。ちくしょう、絶対仕返ししてやる。
「嫌です。撤回なんか許しません。」
周囲からは女を泣かせた悪い男と思われてるだろうな。でもいいや、たまには先生を困らせたい。
そう思って号泣した。
「どこが貧乏なんだか。」
数年後、高遠の苗字をつけた澪は、道場で弟子の指導にあたっていた。
夫となった一樹は、ふらりと大陸へ旅立った。武術の達人を探しての旅だ。
本当はついていきたかったけど、おなかの中には二人目の子供がいた。
結婚してから知ったことだけど、高遠の家は戦国時代から続く名家で、中部地方では名の知れた地主だったらしい。いまだにかなりの土地を所有していた。それらは小作農家に貸し出されていたので、毎年一定の収入があったのだ。
そうでなかったら働かずに道場なんてやってないだろう。
一樹に聞いたら、私が道場に通い始めたころから気になっていたそうだ。ロリコンめ(笑)
見た目と違って情熱的に愛してくれた。それは私もうれしかったんだけど、今までどうやって発散していたんだろう?
一人にしたのはやばかったかなあ。ま、子どももできたし結婚もしたから良いか。
完