古世・房前(1)
かつて父がわたった海を、房前もまた小さな船でわたった。そして彼も船端から身を乗り出して青い海を見つめていたが、今回は、波の底からひそかに房前を見て彼に恋する人魚はいなかった。
自分は兄や弟とちがっている。
幼いころから房前はそう思うことがあった。母や乳母たちの態度も、兄弟に対するときと自分とでは、微妙な区別をしているように感じることがある。
そういうことは、自分の母親に関係しているらしいということがわかってきたのは、やっとこのごろだ。房前は十三歳になる。
都で大きな力を持つ父のような人間が、何人かの妻を持つことは珍しくはなかった。それは、より大きな力を得るための手段であり、妻たちも、天皇に重んじられる重臣である夫の子を生むことで自分たちの立場をより堅固なものにしようと目論む。父の複数の妻たちは、皆貴族の娘だった。
房前にだけ、母がいない。どこのだれだったかという噂さえ聞かない。
父に母のことを尋ねてみることができたのは、つい最近のことだ。忙しくてめったにゆっくりできない父が、珍しくくつろいだすがたを見せていたときのことだった。
「うかがいたいことがあります」
池の鯉に乾飯を投げてやっていた父に思い切って声をかけると、父は少しの間房前を見つめた。
「何を聞きたいのだ。言ってみるがいい」
房前は、どう切り出したらいいかしばらく迷った。母のことを知りたいなどと言ったら、この曾我の屋敷の母上に対して恩知らずな態度と思われるだろうか。
「わたしの、母上のことです」
房前は、それでもやっとそう言った。
「わたしは、兄上や弟とともに、蘇我の屋敷におります。でも、蘇我の母上はわたしを生んだ方ではないということを、婢女たちが話しているのを聞きました。……それなら……」
房前は唇をかんだ。
「それなら、わたしには納得のいくことがたくさんあります。なぜまわりの者たちがわたしを軽んじるのか……」
「そなたを軽んじるというのか」
父の声が鋭くなったので、房前は少しあわてた。
「いえ、蘇我の母上や兄上たちは、とてもよくしてくださいます。それに……わたしの心根に良くないところがあって、それでそう感じるのかもしれません。でも、わたしの母が……」
房前は、父の顔を見上げた。
「わたしの母が貴族の出でないのなら、それにも納得がいくのです」
父は、長い間黙っていた。その沈黙に耐えられず、もういいのです、と房前が言いたくなったとき、父は片手をのばして房前の肩に触れた。
「来い。屋敷の中で話そう。長い話になる」
父は、もう一方の手のひらに残っていた乾飯をのこらず池に放って、房前の先に立って母屋の方に向かった。
庭に面した部屋で、父は房前と向かい合って座った。
「そなたの考えたとおり、そちの母親は貴族ではなかった」
父は言った。
「都の人間でもなかった。そちの母親……玉藻という名だった。玉藻は、難波の港から海をわたって二日、海辺の国の小さな里の海女だった」
海をわたった国。小さな里。海女。
房前の頭の中に、父の言葉がぐるぐるとめぐる。
「私の父の菩提が、厩坂寺にまつられているのは知っておろうな」
「はい」
房前は、なんとか返事をした。声がかすれた。
「父のたましいのために欠くことのできない宝の珠を、玉藻は深い海の底の竜宮の宮から取り返してきてくれたのだ……」
父は、若かったあのころ、竜神に奪われた宝珠を求めて海をわたったこと、その地で出会った美しい玉藻と暮らし、房前を授かったこと、そして、玉藻が自分の命と引き換えに宝珠を取り返してくれたことを話した。
「よいか、貴族に生まれることは手柄でもなんでもない。たまたま親が貴族だったというだけだ。だが、玉藻のしてくれたことは、玉藻自身が成し遂げた立派な手柄だ。それだから私は玉藻を誇りに思うのだ。辛い、手柄ではあったが」
そう言って、父はほんの一瞬目を閉じた。
「玉藻は、死ぬ前に、ぜひそなたを都へ連れて帰って、学問を授け、強く賢く育ててほしいと言った。私は、そなたを兄の武智麻呂や弟の宇合と区別して育てたことはないぞ。だが、そなたの感じるように、周囲の者が浅慮なふるまいをするなら……」
房前は首を振った。
「いえ、もういいのです。わたしの母は、父上が誇りに思われるほどの方なのですね。そのことを、父上ご自身からうかがうことができただけでいいのです。屋敷に使われている者たちに、わたしの母君がどのような人物であったか知るすべはないのですから」
房前は、ちょっと微笑んでみせた。
「わたしは、わたしを受け入れてくださった蘇我の母上の広いお心に感謝することはあっても、ここでの暮らしに不平を申す資格などありません。もういいのです」
父は、優しい目で房前を見た。
「そなたは、大人の分別を持っているな。そなたがそのように申すなら、私も今しばらく様子を見よう。玉藻はきっと、貴族の娘たちの間にあっても、とびぬけて美しく物腰たおやかであったろう。そして、必要とあらば臆せず堂々とふるまうことのできる娘だった」
父は庭に目を向けたが、その目の先には時を超えた海辺で笑っている玉藻が映っていたのかもしれない。
「私は、玉藻が取り返してきた珠と、乳飲み子のそなたを連れて、都に急ぎ戻るのが精一杯だった。かえすがえすも悔やまれてならないのが、玉藻の手柄にふさわしい弔いをしてやれなかったことだ。地位も固め、財産もできた今になると、そのために海をわたる時間がない。玉藻がいなければ、厩坂寺の釈迦如来像には宝をおさめることができなかったというのになあ」
房前は顔を上げた。
「父上」
父は、房前を見る。
「わたしに行かせてください」
「そなたに?」
父はまゆをひそめた。
「行かせるとは? 海をわたって、あの国へ……ということか」
父の目が、まじまじと房前を見た。
「しかし、そなたはまだ元服もすませてはおらぬ童で……」
「さきほど、父上は、わたしが大人の分別を持っていると言ってくださいました」
房前は、自分でもびっくりしたほど大胆に言った。
「父上も、ご自分の父の……私のお祖父様の菩提を弔いたい一心で海をわたられたのですね。わたしも、母のたましいをなぐさめたい。そして、母君の生まれ育ったところをひと目みたいのです」
父は、あっさりと許してくれたわけではなかった。だが、結局は房前の熱意に負けた。
あるいは、屋敷にいる間に父自身で何かを聞いて、房前の言った「軽んじられる」ということが多少わかったのかもしれない。生みの母の菩提を弔うためにひとりで海をわたったとなれば、今後この少年に一目置く者もあるだろう。それは、房前がもうすぐ一人前とみなされる歳であることを考えれば、大切なことになるはずだった。
そして、房前は、今船の上にいるのだった。父のときと違って、名前も身分もかくさない旅だった。そして、ひとりでいい、という房前に、父は無理に共連れをつけた。昔、父の養育係だった橘守兄と、その孫の明人だ。明人は房前より五歳年長の青年で、年が近いには近いのだが、話し相手にはならなかった。なにしろ非常に無口なのだ。
船が海に出ると、この二人はたちまち顔を青くしてのびてしまったが、房前は平気だった。海に出るのはもちろん、間近に見ることさえ初めてだったが、それでもひと目見たときから海に惹かれた。海の匂いを髪に感じ、波しぶきを舌に味わうと、これは自分の体を流れる血と同じ味だと思った。
わたしの中にも海がある。
房前は、そう思って嬉しくなった。
波よ、来い。もっと大きく砕けろ。わたしはおまえが好きだ。
房前は、短い船旅のほとんどを甲板で過ごした。まず明人、そしてやっと守兄が回復したのは、もう目的の国に着こうというときだった。