陸・リョウ(1)
あの子のうしろにいるのは誰やろ。
崎森澪が転校してきたときから、リョウにはその子が見えていた。
リョウの目は、ときどき存在していないはずのものを見る。ほかの人にはそういうものは見えないらしいということには、ずいぶん前から気づいていた。
このことについて、たったひとりの身内である祖父には話したことがある。まだ幼いころだ。けれども祖父は「そなんこと、ひとには言うな」と言っただけだった。リョウの言葉を信じてそう言ったのか、嘘をつくなという意味で言ったのかは未だにわからない。
自分に見える「もの」たちがなんなのか、それはリョウにもよくわからない。幽霊というのでもないらしい。
小学校のときの通学路にあった壊れかけの古いほこらの上には、いつも小さい茶色の、毛むくじゃらのボールのようなものが座っていた。ほこらの上にはいたけれども、それは、神様というような畏れ多いものではないような気がした。あえて言うなら、休日に畑仕事をして、合間にちょっと一休みしている校長先生、といったような雰囲気だった。
家の近くの黒松の防風林では、暗緑色の肌をした男が、何か考え込んでいるようなむずかしい顔をして、腕組みをしてすべるように歩いていることがときどきある。あれは黒松にゆかりの何かなのかもしれない、とリョウは思う。
それらの「もの」たちの中には、向こうでもリョウを認めて、なんとなく笑ったような表情を浮かべるものもいたし、周囲のことはまったく眼中にない様子で超然としているものもいた。
中学二年になったとき転校してきた澪のうしろには、いつも少女がひとりいた。澪と同じセーラー服を着て、澪そっくりの顔をしていた。
人の後ろに背後霊とか守護霊とか言われるものがいる、というのは、リョウも聞いたことがある。けれども、そういうものを見たことはないと思う。そうでなくても、背後霊が本人と瓜二つだなんてことはないだろう。
澪のうしろの少女は、体育のときには体操着になり、雨降りのときはかさをさしていた。まるで、澪が動いたあとを遅れてついてくる残像のように。
その少女がいることで澪に何か悪いことがあるわけではないようだったから、リョウはほかの「もの」たちのときと同じように、そのことを自分の胸にだけしまっていた。
崎森は、自分のうしろの女の子に気づいとらんのかな? ふとしたときに、なんとなく後ろを見るような気がするが。もしかして、俺と同じように、「もの」が見えるんかな?
そう思うこともあったけれど、リョウはそれを確かめることまではできずにいた。
リョウの家は、昔からこの町の海辺の土地を持つ旧家だ。もっとも、いろいろな時代を経て、古くから住んでいるというだけで特に裕福でもない今は、手放した土地も多い。リョウは家の事情にくわしいわけではなかったが、いくつかの地所や家作の賃料と、切り売りした土地の代金などで暮らしてはいけるようだ、ということはなんとなく知っていた。
住んでいる家も、むやみと大きいだけの古い家で、そこに祖父とリョウ、そして、祖父のいとこだかはとこだか、遠縁の初老の女性と三人で住んでいる。はっきりした関係は知らないが、リョウはこの女性を「おばちゃん」と呼んでいた。家の掃除や洗濯、食事の支度などは、このおばちゃんがやっている。
リョウには、両親の記憶がなかった。祖父の娘である母親の写真は何枚か家にあったが、父のことはまるでわからない。
「藍子ちゃんが父なし児を生んだけん、あんときは近所の衆がこそこそ言いよんなった」
おばちゃんが、リョウにそう言ったことがある。藍子というのはリョウの母親の名前だ。藍染で有名なところは近くにあるが、母親の名前はその「藍」ではなく、海の色の「藍」からとったと言われていた。
「兄さんも、あんときはおおかたこらえんとこやった」
兄妹ではないけれど、おばちゃんはリョウの祖父のことを「兄さん」と言う。
当の「父なし児」にこんなことを言うなんて、とあきれる人もいるかもしれないが、おばちゃんはいたって淡々と事実を述べていただけで、リョウ自身も自分を気遣われるべき存在だとは思っていなかった。それに、ほかに母親のことを話してくれる人はいなかったのだ。
「ほんまにな、藍子ちゃん、つきあいよる男友達もおらんげにあったし、聞いても何も言わんけん……」
おばちゃんはため息をつく。
「ほんで、あんたのひとつのお誕生の前に死んでしもうて、あんたもほんまにかわいそうやった」
もともとは、母は丈夫で運動の好きな娘だったのだそうだ。それが、リョウを生んでからなかなか体調が戻らず、結局体が少しずつ弱っていったのだという。
祖父がなんとなく自分に距離を置いているのは、自分が生まれなければ娘は生きていたはずだと思っているからかもしれない、とリョウは思う。
父親のことは、ほとんど考えたことはなかった。それらしい話がこの家で出ることもなかった。ただ、自分にしか見えないらしい不思議なものに気づくとき、こういうのが見えるのは父さんの血筋なんやろか、とリョウは思うことがあった。
小さい町に暮らして、ずっと同じ子どもたちとクラスメイトをやってきて、リョウは、小・中学校の七年間で、しっかり「変なやつ」という評価を得ていた。それでも、やはりこの七年は、「変なやつ」なりの場所をリョウに与えていたし、リョウ自身、いろいろな「もの」が見える自分が「変なやつ」なのは事実だと思っていた。
家が広いから、祖父ともおばちゃんとも、顔を合わさずにいようと思えばそうできる。小さいころには、祖父はリョウから目を離さず、いろいろと厳しい躾をしてきた。八歳を過ぎたころから、これだけ躾ければもう十分だとでもいうように、祖父はリョウから目も手も放してしまったような気がする。
祖父がリョウに一番厳しく言いつけたのは、「海神のほこら」を掃除することだった。
海神のほこらは、岸にほど近い小さな島にある。そのあたりの海岸はリョウの家の庭続きで、海岸から島まで桟橋のように細い板道がつけてあった。この道は、満潮になると水の下になってしまう。
島は小さい。平らな場所は、家一軒建てればいっぱいになるくらいの広さしかない。それも、ごく小さな家がやっとだ。
リョウの家と向き合うように、ほこらへの入り口があり、そこから海まで石段が続いて板道につながっている。
島の奥には岩壁がどっしりとそびえていて、人ひとり入れるくらいの浅い洞穴と岩棚がきざまれ、酒と米が供えられるようになっていた。それが、「海神のほこら」だった。
ほかの神社で見かけるような、宮の形に木を組んで造った社とはまるで違う。島全体はほとんど岩の塊だが、洞穴の周囲には、どこに根を張っているのか不思議なほどよく伸びた松が何本も生えていた。
この、松に囲まれた空き地を掃除するのがリョウの仕事だった。自分の背丈よりもほうきの方が長かったころから、リョウはほぼ毎日島にわたって、ほこらの空き地を掃除した。「ほぼ」というのは、リョウが学校の宿泊学習へ行くことなどもあったからだ。家の目の前の島だから、干潮でさえあれば夜遅くても行けた。少しも怖いことはなかった。
「やらなくてはならないこと」として始まった島の掃除は、今では習慣になっていた。いつのまにか、リョウにとって、ここは「自分の島」になっていた。