古世(いにしよ)・不比等(1)
若者は、都から船でやってきた。彼は、船端から身を乗り出して海を見ていた。この海の中にこそ、自分の求めるものがある、というまなざしで。
龍神の娘、玉藻は、虹の鱗を持つ人魚だった。海で泳ぐ彼女の姿は、定命の人間には見えない。けれども、玉藻の方は若者を見ていた。
無造作に束ねた髪と簡素な衣服にもかかわらず、若者には、どこか隠しおおせない気品があった。海を見つめるその目は、まっすぐで澄んでいた。
このまなざしのせいだったのかもしれない。玉藻が彼に惹かれたのは。
海の民が住む宮で、玉藻はずっと満ち足りた暮らしをしていた。この美しい小さな海を司る海神を父とし、将来を約束した恋人の和仁、そして海の全てが玉藻のものだったのだ。
父、龍神には伴侶がいなかったから、金銀をまじえた細かな白砂で娘をつくった。砂でできた人魚の胸に海の精を凝らした玉を埋め込むと、それが人魚の命になった。人魚はしなやかに海の世界に生まれ出て、なんの疑問も不安もなく、海の全てを受け入れた。なぜというなら、人魚の玉藻のうちには、すでに海があったからだ。
それなのに、長いときを過ごすうち、玉藻はときどき体の真ん中に冷たい潮が吹き上がるような、さびしさに似た気持を感じるようになった。何か大切なものが自分には欠けているという思い。
船の若者の瞳の中にあったのは、自分が何を求めているかを知っている者の一途な思いだった。彼を見て、その瞳のひたむきな光に出会い、玉藻は自分には心から求めて手にしたものが何ひとつないことに気づいた。
住む場所も、父も、恋人も、永遠の命さえも与えられていたのだけれど。
都から来た若者は、ひとつの里に落ち着いた。陸が両腕で海を抱いているような、小さい丸い湾のある里だった。玉藻はそこをよく知っていた。その里には、父、龍神を祀ったほこらがあったからだ。ほこらは湾のはずれにある岬につくられていた。陸から飛び出した房飾りのような、小さい岬だった。
若者は毎日海を見ていた。漁師の真似事をしているらしかったが、腕前はたいしたことはなかった。玉藻は、あるとき人間の娘にすがたを変え、海女として彼の前にあらわれた。若者は美しい海女に恋をして、やがてふたりはともに暮らすようになった。
ふたりは幸せに毎日を過ごし、やがて男の子が生まれた。玉藻は、自分が望み、自分で決めた暮らしに満足していた。赤ん坊を抱いて乳をふくませるとき、自分が求めていたものはこれかもしれない、と玉藻は思った。砂からつくられた海の娘には、母に抱かれた記憶はなかった。
けれど、若者の中のひたむきさは消えることがなかった。彼が満たされないものを抱えていることがわかったから、玉藻もまた悲しくなった。
「そなたは海女だから、海に潜る技には長けているのだな」
あるとき、若者は玉藻に言った。玉藻は笑顔になった。
「私ほど、長いあいだ深いところまで潜れる海女はおりません」
「ならば、そなたは知っているか……」
言いかけて、彼はためらった。
「おっしゃってくださいまし」
玉藻は若者をうながした。若者はためらいがちに話しはじめた。
「海の底には、龍王の住む宮居があるという。私はそこへ行かねばならないのだ。そなたほどの海女ならば、龍神の宮まで潜れるか。私に、そなたのわざを教えてはもらえまいか」
玉藻は驚いた。自分が捨ててきたあの海の宮に、今では誰よりも大切な、この若者が行きたいという。
「龍神の宮は、たしかにこの海の底にございます。でも、人間の行けるところではありません。あなたはどうしてあんなところにおいでになりたいのですか」
若者は、しばらく黙っていた。
玉藻の隣で、ふたりの子ども、玉藻の息子が機嫌のいい声をあげて手足を動かした。