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人魚の墓  作者: Mariko
2/19

陸・澪(1)

 夏休みだ。


 みおは、かばんから出した通知表とプリント類を机の上に重ねる。

 母親は通知表なんか見ない。父親はどんな成績をとっても何も言わない。だから、両親には見せないで(見せられないほど悪い成績でもないけれど)あとで自分で印鑑を押しておけばいい。


 この海辺の小さな町、志帆町しほちょうの中学に転校してきて、やっと一学期がすぎた。まだなんとなくクラスになじめないのは、ここの方言がよくわからないということもあるけれど、澪以外の生徒たちは皆小学校から一緒だったというのもある。小さい学校なのだ。

 誰も意地悪する子はいないけれど、誰もがなんとなく澪には他人行儀だ。それは他人なんだから仕方ないけれども、親しくなっても人との間に一センチほどの距離が残る。


 夏休みの宿題は、英語と数学のワークブックが一冊ずつ。作文か読書感想文。ポスターか写生画を一枚。環境問題に関する標語がひとつ。一回食事を作ってその写真を撮る。そして、理科か社会の自由研究。

 自由研究は、仲のいい友達同士何人かでやってもいいことになっているけれど、もちろん澪はひとりでやる。


 理科か社会。


 澪はプリントを見ながら考える。


 梓だったら、きっと理科で自由研究をやるだろう。そしてあたしは社会をやることになる。


 澪は、四十日間使わないことになる通学カバンを、足で机の下に押し込んだ。

 今回父親の職場が用意しておいてくれた家は、これまで住んだどこよりも広い。澪も六畳の部屋をひとりで使える。前のところでは、四畳半に二段ベッドと机をふたつ置いて、あずさと一緒に使っていた……。


 梓と澪は双子の姉妹だ。

 双子の姉妹だった。


 中学に入る前の春休み、梓は自転車で坂を下っていて、広い道路に走り出たところでトラックにはねられて死んだ。


 三月の終わりの暖かい日だった。春の陽があふれる坂道は両側に植わった桜が夢のように美しく、やわらかな風に花びらが舞って、薄青い春の空に、坂道に、ふわふわと漂い、道の脇の水路に花筏を浮かべていた。


 あんなきれいな日にも、ひとは死ぬんだ。

 まだ大人じゃないのに、ひとは死ぬんだ。


 梓がいなくなったあとも、ベッドの上の段と使われなくなった机は、ずっと部屋の中にあった。誰も文句を言うものはいないのに、澪はそこに荷物や本を置いたりすることができなかった。今度の家には広い納戸があり、取り外したベッドの半分と机はそこに入っている。


 家が広いのは、都会と違って土地が安いからだ、と父親が言っていた。新しい家ではないけれど、部屋は台所と居間のほかに四つある。そして庭。

 庭のはずれには木戸があって、開けると崖につくられた階段に出られる。頼りなさそうな(でも、つかむと案外しっかりしている)鉄パイプの手すりがついた階段だ。その階段を降りると砂浜に出る。浜の向こうはもちろん海で、浅いところから岩がたくさん突き出ている。岩場の先には小さい島が見えた。


 引っ越すところは、いつも海の近くだった。父親の仕事が海と関係があるからだ。今度、父親は、この近くの赤潮研究所というところに赴任してきたのだった。


 庭から出られる海は、岩が多くて泳ぐのには向かない。危ないから泳いじゃだめだ、と父親は言った。 それはちっともかまわない。海の近くで暮らしてきても、澪は泳ぐのは下手だったし、それに浸かると体がべたべたする海よりもプールで泳ぐ方がいい。


 それでも、二階の窓から目の前に広がる海を見るのは気持がよかった。今までは、これほど海のそばに住んだことはなかった。


 母親は、潮風のせいで洗濯物がさっぱりと乾いてくれないと言っていやがっている。もっとも、あの春から母親の気に入ることは何もなくなってしまった。


 このごろ、母親は一日のほとんどの時間を自分の部屋の(この家ではひとりひとつずつ部屋が持てるのだ)パソコンの前で過ごしている。

 一度、調べ物をするのにそれを使わせてもらったとき、開いたままのタブをクリックしてしまったことがある。画面には、何かのフォームが出ていた。母親は、どこかのサイトに何か書き込みをしようと思っていたらしかった。画面の上の方には「みんな悩んで大きくなろう」というタイトルがあった。どうやら、誰かが悩みを書き込むと、そこにアドバイスや感想が書き込まれる、というサイトのようだった。


 書き込みフォームの名前の欄は「弓」と書いてあった。本文は何も書かれていなかった。


 あのとき、澪はしばらくその画面を見つめていた。母親は、学生時代弓道をやっていたから、書き込むときの名前を「弓」にしたのだろう、と思った。


「弓をつくる時の木に、梓っていうのがあるのよ。高く大きくなる木でね、それでつくった弓を『梓弓』というの」

 小学校のとき「自分の名前の由来を調べよう」という課題が出たとき、母親がそう言っていた。

「双子の女の子が生まれるってわかったとき、お父さんと私で、ひとりずつ名前をつけようってことになった。そのとき私が決めた名前が『梓』なのよ。私は弓道好きだったから」

 弓道はまたやりたいけど、お父さんの転勤でひとところに落ち着けないから……と母親はため息をついた。


 昔から海が好きで、海の勉強をして仕事についた父親は「澪」という名前をもうひとりにつけた。船が安全に通れるように導く航路のことなのだそうだ。


 自分の名前は嫌いではなかったけれど、そのとき澪は、小さいころからなんとなく感じていた「梓とお母さん」「澪とお父さん」という感覚の理由がわかったような気がした。

 

 梓はお母さんの子だった。着るものや食べ物、読む本の好みもよく似ていた。だから、お母さんは梓があんなふうに死んでしまって、誰よりも悲しいに違いない。だから、お母さんはいろんなものが嫌いになって、何にも関心が持てなくなってしまったんだ……。


 社会科の自由研究をやるとき、またパソコンを借りなきゃならなかったら、なんだか辛い。


 澪はちょっと考える。

 だいたい、なんの研究をしたらいいんだろう。まずそれを決めないと、何をどう調べたらいいのかも決まらない。


 澪はプリントをぱらぱらめくる。社会の自由研究の例として、SDGs(その横に、リサイクルやフードロスなど、いろいろ書いてある)、男女共同参画、郷土、などの項目が上がっている。


 郷土。


 郷土って、ここ、あたしの「郷土」じゃない。


 そう思ったあとで考えなおした。

 郷土って、つまり、この町のこと。それなら、転校してきたあたしは何ひとつ知らない。何を調べたって、それが結局あたしの郷土研究になる。なるはずだ。

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