嬉しい時間
お気に入りの木の下に座っていると、突然吹いた風が蜂蜜色の髪を浮かす。思わず目を瞑りながら抑えると、開いた視線の先に見慣れたブルーグレーの髪が靡いたのが見えた。
「ディー!」
大好きな婚約者の姿に、大きく手を振る。ディーは走りながら私に手を振り返した。
「フィア、ただいま!」
言いながら、木の下に座っていた私の目の前まで来ると私と同じように座るディオン。
「ふふ、おかえり」
座ってくれたディオンに抱き着く。抱き着いた拍子にこの間贈った柑橘系の香水が香った。
「どうしたの?フィア」
優しく抱き締め返しながら聞いてくるディオンに嬉しくなる。私が贈ったものを大事にしてくれていることも、私を大事にしてくれていることも、ディオンからいつも伝わってくる。
「あのね、嬉しかったの」
ディオンの胸に顔をつけながら言う。14歳になったディオンは背が伸びて体格も良くなっていて私はもう少しでディオンの胸にすっぽりと収まってしまいそうだ。
そして13歳になった私は、ディオンが開発してくれた治験薬のお陰で以前よりも体調が回復していた。外に出ることも許されるようになった。自分の『当たり前にできること』が増えたのが、とても嬉しい。
ディオンにはどれほど感謝しても足りない。
「そっか。フィアが嬉しいと、俺も嬉しい」
優しい笑みで言ってくれるディオンに、私も笑みを返す。
笑い合うこの時間が、とても幸せだ。
「フィアは今日、何をしていたの?」
私の髪を撫でながら私の瞳を見つめて聞くディオン。ディオンの空色の瞳はいつも暖かい光を宿しながら私を見てくれている。
私は得意気に笑って説明しようとした。
「それはね……えっとディー、少し離してくれる?」
ディオンに説明するためにディオンから離れようとすると、私から抱き着いていたはずなのにいつの間にかしっかり抱き締められていて離れられなくなっていた。
ディオンは拗ねたような表情をする。
「……。……わかった」
少し悩むような間があった後、名残惜しそうに腕を解くディオン。
そのディオンの様子に思わず笑ってしまう。
「ふふ、今日はね、これを完成させていたの」
そう言って、術式を描き発動させる。半透明の硝子のような物体が何枚も出来上がる。そこでもう一度術式を指で叩いてそれぞれに様々な場所の風景を映し出す。
映し出したのは書物を見た時に覚えた海や山、色んな街並み。そして、驚いたディオンの顔。
「これは……映写魔法?」
信じられないように自分の顔の映った映写魔法を見ながら言うディオンに小さく笑う。
驚かせる事ができたようだ。
「ええ、そうよ。風景はね、色んな書物を呼んだ時に記憶に残っていたものよ」
得意気に笑いながら言う私。ディオンは目を見開いたまま映写魔法を見回している。
「こんなに、たくさん……。フィア!こんなに魔力を使って何ともないの?」
はっとしたように聞いてくるディオン。私があまりにも平気そうにしているから気づくのが遅れたのだろう。
実際、私は何ともないのだけれど。
だからディオンを安心させるように笑う。
「ふふ、それがね、この魔法は漏れ出た私の魔力を使ってるから、体内魔力は減ってないのよ」
種明かしをするとディオンは呆けたように口を開けた。
「え……何その離れ業……」
目を瞬かせながら私の顔を凝視してくるディオン。そして映写魔法をまた見て、感心したような息を吐いた。
私の顔色が悪くないか確かめたのだろう。その様子が可笑しくて、私は楽しくなる。
「私も魔法を思う存分使いたいもの」
得意気に胸を張りながら言うと、ディオンも楽しそうに笑った。
「はは、すごいよフィア」
そう言って頭を撫でてくるディオン。ディオンに頭を撫でられるのは心地よくて大好きだ。
目を細めながら私はディオンを見つめた。ディオンの空色の目が細められて、私を見つめ返してくれる。
「ありがとう、ディー」
私のその言葉に、ディオンは優しく笑う。
それから困ったように眉を寄せた。
「うーん、でも急にこの量見たら心配になるよ。俺にとって魔法はかなり力を使うから」
「そうなの?」
私は漏れ出た魔力を使っているからか、力を使う印象はない。むしろそれだけ漏れ出しているということなのだとは思うけれど。
「うん、そうなんだよ。それにこんなにたくさん映写して……しかも魔力は漏れ出た魔力を使ってるって……フィアって魔法の天才?」
真剣な顔で考えながらのディオンの言い様に驚いて、思わずディオンの胸を軽く叩く。
「褒めすぎよ、ディー」
恥ずかしくなり、困ったように笑う。それでもディオンは真剣な顔のままだ。
「冗談抜きなんだけどなぁ。フィア、魔法のことは無闇に話さないでね。フィアを魔術師団に、とか誘いが来たら嫌だから」
「ふふ、来ないわよ。ディーってば大袈裟なんだから」
ディオンの言葉は雲の上の言葉のようで、思わず笑ってしまった。
ディオンは真剣な顔のまま、私の肩に手を当てる。それでやっとディオンが言っているのは冗談ではないのだと理解する。
「フィアは少し自覚した方がいい。これはすごいことなんだ。だから俺の家族とトルメリア家だけの秘密ね。マリー、箝口令を敷いといて」
「はい、かしこまりました」
控えていたマリーにディオンがお願いしている。マリーはディオンに私の事をお願いしてから、この場を後にして屋敷へと向かった。箝口令までとはかなり本格的だ。
「……そんなに?」
首を傾げてしまった。私は魔法は理論しか習っていない。実践で使うのは体内魔力を更に減らす訳にはいかないという理由でやったことがなかった。
だから体内魔力を使わなくていいよう、私の体から勝手に漏れ出る魔力を使えないかと考えてやったことだ。
「うん、そう。こんなことできるなんて知られたら使い潰されないか心配なくらい」
ディオンが心配そうに顔を歪める。その言葉に私は目を瞬かせた。
「そう、なの……?でも役に立てるなら嬉しいわ」
自分でも役に立てるなら嬉しいと、そう思ってしまう。でもディオンはそれに拗ねた顔をする。
「駄目!魔術師団に入ったら魔物討伐とかで遠征があるんだよ?俺はフィアと少しの間でも離れるなんて嫌だ!……フィアがどうしてもって言うなら、俺も猛特訓して入るけど」
眉を寄せた難しい顔をしたまま言うディオンに嬉しい気持ちが溢れる。ディオンは私の意志をいつも尊重してくれる。ディオンは学校で魔法の実践をあまりしていないから苦手なはずなのに。それに私がこの先魔術師団として働けないとは全く考えていない当然だとでもいう言い方が、私の心を温めてくれる。
「ふふ、ディーってば。でも、うん。私もディーと離れたくないし、遠征も嫌だわ。だから黙っておくね」
私だってディオンとは離れたくないのだ。ディオンがもし一緒に魔術師団に入ったとしても、任務は別々になる可能性も高いし、ディオンには好きなことをやってほしかった。
「ありがとう、フィア」
嬉しそうに笑うディオンに、私も微笑み返した。
暖かい風が優しく吹いて、木漏れ日が楽しそうに揺れた。
そして年が明けた、寒さが厳しい日。
私は酷い発作を起こした。