―決別―
昨日の夜に降っていた雨は上がり、青い空が見えている。
朝は露に濡れていた芝生も綺麗に乾いていた。
その芝生を踏みしめながら、俺は愛しい人のもとへと向かう。きっと……これが最後になるだろう、愛しい婚約者へのもとへと。
フィーリアが気に入っている小高い丘にある大きな木の下。あそこで、俺はフィーリアに婚約を申し込んだ。
希望しかなかった、喜びしかなかった、過去の自分。
そんな……大切な思い出の場所で、俺は……フィーリアに婚約破棄を告げる。
俺も気に入っていた大きな木の下、蜂蜜色を優しい風に靡かせて、優しい木漏れ日に照らされた若葉色の瞳が俺を捉えて嬉しそうに煌めいた。
そのフィーリアの反応に喉を詰めた。
フィーリアが傍に控えていた侍女のマリーに話しかけた。フィーリアは聡い。きっと話があることを察しているのだろう。
マリーは不安そうな顔をしながら少し離れた場所に移動していった。
――すまない、マリー。俺はこれから君の大事な主人を……傷つける。……すまない……。
いつもフィーリアをとても大切にしている侍女に心の中で謝罪をする。きっともう、直接謝罪する機会はないだろう。
「ディー、いい天気ね」
いつもと変わらない微笑みを浮かべたフィーリア。その笑みはいつも、俺を癒してくれた。
「フィア……」
名を呼んだ声は硬かった。フィーリアの名前を呼ぶ時は……幸せな気持ちでいようと、心掛けていたのに。
そんな俺を見たフィーリアは少し眉を下げた。それでも、浮かべた微笑みは絶やさない。
――ああ、フィア……君も、気づいているんだな。
これから俺が……何を言おうとしているか。
「ディー、これを……贈らせて欲しいの」
フィーリアは優しく微笑んだまま、若葉色のタイを差し出してきた。
俺は目を見開く。
嬉しい、なのにそれはもう受け取れない。俺にはもう……受け取る資格は、ない。
思わず拳を握り締めると、フィーリアが手を木に当てた。必死に体に力を入れているのを見て堪らなくなる。
「フィア!」
思わず叫びながら駆け寄ってフィーリアの前に目線を合わせるように座り込む。
無理はしていないか心配になっていると、フィーリアは安堵したように息を吐いた。
そして俺に若葉色の目を向けると顔を綻ばせる。
俺は、思わず顔を強張らせた。
――そんな顔をしないでくれ。俺は……俺はこれから……君を、深く傷つけるのに。
フィーリアは目を閉じてその手に持っているタイを優しく撫でた。
「ディー、このタイで……やっとディーが出来損ないの刺繍を奪っていったのを超えるのよ?」
フィーリアの言葉に驚いた俺に、彼女は優しく微笑んだ。
「……もう……そんなに……?」
フィーリアが刺した作品はどれも俺のものにしたくて、何度練習中だと言われたものを欲しいとねだったか。どれも綺麗に刺繍されていて、その作品を見るのが楽しかった。もちろん年々上手くなっていったけれど、その上手くなる過程を見ていくのが堪らなく幸せだった。
俺は無意識でタイへと手を伸ばし……フィーリアの手に触れる直前で手を止めた。
「……ええ。もうそんなにディオンに刺繍入りのものを渡したのよ」
若葉色の目を細めて俺を見つめたフィーリアは、止まっていた俺の手を優しくとった。フィーリアに触れられたことに、思わず手が跳ねる。
「はい。私の自信作」
フィーリアはいたずらっ子のように笑って俺の掌に若葉色のタイを乗せた。
そのタイには濃い緑や白の糸で白詰草の刺繍が刺されている。
「これ……白詰草……」
声が溢れた。
嬉しかった記憶。いつも幸せを見つけて楽しく笑った、思い出。フィーリアの優しさに包まれた、刺繍。
瞳に水の膜が張りそうになって、目を閉じる。
気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸って、ゆっくり目を開いた。
そしてこの刺繍を記憶に焼きつけるように見つめる。
もう、幸せの四つ葉は探せない。
「…………ありがとう、フィア。……でもこれは…………もう、もらえないんだ……」
フィーリアに、決別の言葉を送る。
どうして、こうなってしまったのだろう。
何度自問しても俺の答えはもう、決まってしまった。
「婚約を……破棄、してくれ」
震えた吐息が、漏れた。
フィーリアの顔を見ずに告げた卑怯な俺は、顔を上げることもできない。
深く傷ついているであろうことが、フィーリアの吐息から伝わってくる。
俺はそのまま話を続ける。
「……すまない、してくれと言ったが……もうダートン様とは話は終わっている。俺の有責での婚約破棄になる」
「ディーの……有責……」
疑問のように繰り返したフィーリアに息を吐く。
俺は……もう、フィーリアの婚約者では……なくなった。
「……………俺は王女殿下と婚約する事になった。これは俺の意思で決めたんだ。……すまない、フィア…………いや、フィーリア嬢」
呼んだことがない、他人行儀な呼び方。これが……これからのフィーリアとの距離だ。
視界を上げると、若葉色の目を潤ませるフィーリアが映った。
それに胸が詰まりながら俺は先程受け取ってしまったタイを……フィーリアの方へと差し出した。
「…………これを、返すよ」
返したくなんかない。けれど……本来は受け取ってはいけなかったものだ。もう婚約者では……ないのだから。
フィーリアは両手を胸の前で握り締めて首を必死に振った。
「……フィーリア嬢……」
そのフィーリアの行動に歯を食い縛る。どうしてこんなに傷つけているんだろう。一番大切な人なのに。
フィーリアは震えている唇をか細く開く。
「それは……ディーが、持っていて……。私の目標だったの。出来損ないの刺繡よりも……多く渡すこと。だから……受け取って、欲しい。私の夢を……叶えて欲しいの……」
弱々しい笑みで、俺の瞳を若葉色の瞳が覗き込んだ。
「おねがい」
切ない願いに俺は息を呑んで、目を瞑った。
「……わかった。これは最後に……もらっておくよ」
俺の言葉にフィーリアは安心したように息を吐いた。
――こんなことをした俺に……まだ、もらってほしいと……言ってくれるのか……。
喉の奥から溢れ出しそうな感情を必死に留めて、俺はタイを持ったまま立ち上がる。
フィーリアの手が俺に縋るように伸ばされた。けれど……その手を取ることはもうできない。
俺は心の底に穴を開けるような気持ちで、告げる。
「さようなら、フィーリア嬢」
そう言って、俺は踵を返した。
もう振り返ることはできない。
「……フィア、幸せになってくれ」
フィーリアには届かない距離で、俺のせめてもの願いを口にする。
優しいフィーリアのような風が、俺の頬を撫でていった。




