獅子女の憂鬱
テーバイのラーイオス王の娘は、生まれながらにして美しかった。
けれどその腹から下は獅子のようであり、背には鷲のような暗い色の翼を持っていた。
神の罰か、はたまた祝福か。
王は殺すべきかどうか迷った挙句、その娘を流放した。
それから数年が経ち、彼女の美貌は膨らみ始めた乳房も相まって今や一層際立ち、まるで女神のようだったという。
けれど過酷な人生を生きてきたからか、その性格は残忍傲慢を極め、美しい顔立ちにはプライドの高さが見て取れた。
獅子のように動物、それに人間すらも獲って喰ってしまう彼女に、人々は畏怖を覚えた。
初めのうち、その美貌を一目見ようと彼女に会いに行く者もあったそうだが、今は昔。
今では誰もが関わり合いにならないように、彼女の棲むピキオン山を迂回するようになっていた。
生まれながらにして、私は人であり獣であった。
どれだけ勇敢な男にも負けはしない。
どれだけの美貌も、私には敵わぬであろう。
人の子であるのか、獣の子であるのか、
はたまた神の気まぐれで作られたのかはわからぬ。
だがしかし、私はこの姿を気に入っていた。
――誰よりも強く美しい、この姿を。
私はピキオン山に拠点を構え、通る者全てに問いかける。
「私は美しいか?」
私の質問に首を横に振った者はいない。
なぜかって? 少しでも返答に躊躇う素振りを見せたら私が喰ってやったからさ。
やがて老若男女貴賤を問わず、この道を通る全ての者が私の美しさを礼賛するようになった。
けれど賛辞の言葉もいづれ飽きが来る。毎日同じものばかり食べていたら辟易してしまうだろ?
物足りなさを感じた私は、面白いことを思いついた。
そうだ。旅人には謎を吹っかけてやろう。
私が美しさと強さだけではない、賢さもあるのだと世界中に知らしめてやろう。
気まぐれに思いついたことだったが、これがなかなかに楽しい。
知恵者も、賢しい者も、老賢人も、この謎を解けるものは誰一人としていやしなかった!
あぁ、そうさ。解けなかった者は全員喰らってやったさ。
あいつらがその頭を必死に回転させて、見苦しい言い訳を紡ぎ出す様は非常に愉快だったさ。
だが、やりすぎてしまったのだろう。
やがてこの山を通り抜けようとする者はいなくなってしまった。
それから幾つかの季節を暇を持て余しながら過ごし、幾つか目の冬の季節に、杖をつく一人の若者がピキオン山を越えようとやってきた。
私はその若者の前に降り立つ。
私を見ても物怖じしないその人間は、きっと私の噂を聞いているのだろう。
であれば今までと同じような知恵自慢の類なのだろうか。
改めて彼を眺めると、整った顔立ちは憮然とした表情を浮かべていて、プライドの高さが見て取れる。
なるほど、やはり知恵者の類いか。
私は彼がどんな断末の悲鳴を上げるのか楽しみに思いながら、彼に謎をかけた。
「朝は4本足。昼は2本足。夜は3本足。これは何か」
若者の顔に初めて表情が宿る。
恐怖でも焦りでもない、それは自嘲の笑みだった。
「美しい女よ。俺はお前の謎かけに答えることができる」
優しい目をして、若者が私を見る。
その美しさに、私は思わず息を飲む。
「それは人間だ」
その言葉が胸に刺さる。
まるで時が止まったかのように呼吸ができなくなり、心臓がひとつ跳ね上がる。
やがてドッドッドと心臓の鼓動が早くなり、ゾワゾワとした感覚を伴って汗が浮かび上がる。
「赤ん坊の頃は4つ足で這い回り、成長するとやがて2足で歩き、老いれば杖をつくから3つ足になる」
彼が杖をくるくると振り回しながら答えを述べる。
「正解だ」
私は彼に近づいて、その身体を抱擁する。
春の草原のような、優しくも爽やかな香りがした。
「だが、どうして答えがわかった?」
彼の耳元で囁く。
「生まれながらに、私は足が不自由だった。ずっと杖つきの3本足だからさ。
人間は自分のことには無頓着だ。だから、その謎はきっと人間には解けない」
「まるで自分は人間じゃないみたいに言うのね」
「お前と一緒だ。美しい女」
至極間近で、彼の青い瞳に映る私を見る。
傲慢な女は消え、恥じらいに目を伏せる乙女がそこにはいた。
「そうよ。私は獣。どれだけ己を飾り立てても、獰猛な本性からは逃げられない。
ずっと……4本足」
彼の手が私の背中に回される。
ごつごつした手に包まれて、幸福を感じる。
「ほら、あなたは人間よ」
「私は違うのだ。アポロンの神託で両親を殺すと予言されている人でなしなのだ」
再び心臓が跳ねる。
親を殺す予言。もしかしてそれは……
「あなた、名前は……」
「私の名はオイディプスだ」
気づいてしまう。この子は呪われた子だ。
私も大概だが、彼ほどではない。
翼で彼を包み込む。
あぁ、私に人間のように手があれば、彼を慰めてあげられたのに。
ひしと、彼に一層身体の体重を傾ける。
「私たちはお互い、人間が羨ましかったのね」
ぽつりとつぶやいて、遅れて実感がやってくる。
人間でありたかった。かつて私に向けられたどれだけの讃美も、虚しいだけだった。
ここにきて、私たちは理解者を得ることができたのだ。
けれど私は彼と共に歩むことはできない。
「愛しているわ、オイディプス」
涙ながらにオイディプスの唇に、自らの唇を押し付ける。
初めてのキス、心からの愛情と慈しみを込めて。
私の初恋。そして失恋。
彼は気づいていないだろうけど、私たちは父を同じくする姉弟だったのだ。
私は彼を愛してしまったから、血の繋がっている私が彼にしてあげられることは何もない。
せめて、これ以上の呪いが彼に降り注がないようにしてあげるだけ……。
「愛しているわ、オイディプス。忘れないで。
私はあなたを愛しているわ」
最後にもう一度唇を交わすと、私は鷹の翼で空高く舞い上がる。
それから、彼からは見えないであろう崖下に向けて、身を投げる。
どうか、神さま。
私をこんな姿で生まれる運命をもたらした残酷な神さま。
憐れな乙女の最後の願いでございます。
どうぞ私の愛する人が、これ以上の災厄に巻き込まれませぬように。
どうぞその全ての災いが、これから死ぬ私の冥府への駄賃となりますように。