少女の奸計
家紋武範さま主催「知略企画」参加作品です。
葬式の最後の弔問客が帰ったのを見送った。
喪主の叔母が疲れたようにため息をつく。
3日前に弟である独身の叔父が事故で死んだのだ。
5年前に両親は交通事故で死んだ。
叔父は私の保護者だった。
「叔母様。お疲れですね。大丈夫ですか」
「そうね。ありがとう。なんで、あの子はあんな事故なんか起こしたのかしら」
「ええ。本当に」
言葉少なく相槌を打つ。
叔父は養豚場を経営していて、数人の従業員と共に自らも働いていた。
養豚場での決まりごとがある。
それは、雄の豚の柵に入らない。だった。
通常、養豚場の豚は雌と去勢した雄ばかりだ。繁殖用の雄は建物の端に隔離されている。
叔父の養豚場も雄は一頭しかいなかった。
大きな雄で真っ黒な毛と口には大きな牙があった。そして、体の向きが変えられないほどの狭い柵に入れられていた。
叔父は、その柵に後ろ側から入り、豚に尻で押され柵の間に挟まれて内臓破裂で死んだ。
「あなたは、まだ14歳なのだから、これからウチに来なさいね。前は年頃の男の子が居るから断ってしまったけれど、息子が大学で東京に出てしまっているし、部屋は余っているから」
「ありがとうございます。そうさせていただけると安心です」
叔母の提案に素直に頷く。
うん。これで良いはず。
叔父はもともと私を家政婦として使おうと私を引き取ったようだが、去年くらいから性的な意味で恐怖を感じていた。
先月とうとう酒を飲んだ夜にねっとりとした視線を浴び、予感を感じて部屋の引き戸に突っ張り棒を差し込んだのが良かった。
叔父は開かない扉を蹴りながらも、それ以上はなかったが、自分がいつかこの男のものになるのだろうという予想はできた。
それ以来、家事は早朝に全て済ませ、叔父が養豚場に出かけてからシャワーを浴びて学校へ行く。
長い髪では乾くのが遅いので短くした。
走って学校から帰ると、洗濯物を取り込んでたたみ、叔父の夕飯の用意をして部屋に籠る。
なるべく叔父との接触は避けた。
ある朝に、洗面台で叔父の指輪を見つけた。
金の幅広でスクエアのオニキスの石がはめ込まれているものだ。
いつも中指にしていた。忘れていくのは珍しい。
ぼんやりと、手の中で指輪を転がしていた。
そして思った。可能性は0ではない。
指輪を机の引き出しの奥に隠し学校へ行った。
いつも通りに家事を済ませ、夕飯を用意して部屋に入り、入り口に突っ張り棒をかけた。
ガラガラ
玄関の開く音がする。帰ってきた。
足音はキッチンではなく、まっすぐにこちらに来る。
ドアの外で声をかけられた。
「おい。俺の指輪を見なかったか?」
「え?見ていないです」
「そうか。どこかで落としたようだ。家の中を探しておいてくれ」
「はい」
「どうした。今やらないのか?」
「明日、朝に掃除をするので、その時に探します」
「ふん。そうか。まあ、家の中にあったら、それで見つかるだろう」
叔父は少し機嫌を悪くしながらも去っていった。
翌日、指輪は見つからなかったと言った。
土日は従業員を休ませて私が養豚場を手伝うこととなっている。
トラックで向かう。
助手席の私の太ももを運転しながら触ってきた。
「ちゃんとメシ食っているか?」
「……はい」
体を固くして答えた。
叔父は「そうか」とか「女は肉が着いてないとな」とか言いながら、なで続けている。
不快だ。手を払いのけたい。
殺意は赤い。
明日だ。
到着すると急いで降りて、ツナギの作業着をひっつかんでトイレに走り込んで着替える。
指示をされる前に仕事に入る。
豚を端に追い込んで、開いた場所から掃除をしていく。
綺麗になったら、もみ殻を敷く。
そこが終わると豚を戻して、その場所の掃除。
豚の糞尿を含んだもみ殻は重い。臭い。それを率先してやる。
顔に汚れが跳ねる。かまうものか。
豚の便にも注意する。黒くなっているのは胃潰瘍になっていてエサが合っていない時だ。見つけたら報告をする。今回は異常ないようだ。
昼ごはん時。
「臭い」と言われるので離れた。
手と顔を洗ってから、家を出る前に作ってきたオニギリを食べる。
叔父も同じものだ。
平日は弁当を作っているが、私も仕事に入る日はオニギリにしてもらっていた。
午後も引き続き掃除。
終わったらエサやりを手伝う。
天井からホースが伸びていて、給仕箱でホースの口を開けるとエサが出てくる。まだ、体が小さかった頃にはホースの勢いに押されてエサをぶちまけてしまった事があった。
怒られたな。
夜の7時でやっと仕事が終わる。
トラックに乗って帰る。行きと違って今の私は手を洗っても臭いので叔父は触ってくることはない。
帰ると、玄関に弁当が二つドアノブに掛かっている。
私たちの夕飯だ。
総菜屋に土日祝日は弁当を二つ届けてもらっている。
先に叔父が風呂に入る。その間私は玄関で待っている。養豚場の臭いがするからだ。
叔父が風呂から上がると、私も風呂に入る。汚れた服もその時に洗濯機に入れて回す。
風呂から出ると叔父は、もう弁当を食べ終わりテレビ見ている。
良かった。酒は飲んではいない。
キッチンで弁当を食べる。
気づくとソファーに横になっている叔父の後頭部を睨んでいた。
気を付けないと。
弁当を食べ終わり朝食の洗い物をしていると、叔父がコップを持って流しに置いた。
後ろに回りに顔を近づけ首の辺りを吸い込んだ。
首筋から全身に鳥肌が立つ。
「なんで、同じシャンプー使っているのに、お前の匂いは良いのかなぁ」
身動きができない。怖い。気持ち悪い。絶対に触るな。
しばらく髪の匂いをかいでから去っていった。
寝室のドアを閉める音で身体の緊張が解けた。
怖かった。
安心して涙が出る。
蛇口のお湯が流しっぱなしになっていた。
ギュッと閉める。
明日だ。明日やってやる。
明日の朝食の用意をして部屋に戻った。
ドアには突っ張り棒をして。
翌日。
ポケットに指輪を入れる。太ももを触られるだろうから、左側のポケットに入れた。
トラックに乗る。
また、いつものように触ってきた。太ももの付け根のほうまで指が来るので足をきつく閉じて拒んだ。
到着した。何か言われる前に走って仕事に向かう。
同じ仕事を手早く済ませていく。
重労働だ。汚れたもみ殻をスコップでかき出す。新しいもみ殻の袋は20キロ。それが等間隔で通路に置いてある。それを柵の中に引き入れて床に敷き詰める。
豚を綺麗にした場所に戻してやると、新しいもみ殻に嬉しそうに転がる。
ここは、雄豚が毛の黒くイノシシに似ているデュロックで雌豚がピンクの大ヨークシャーだ。この掛け合わせは味がよく病気になりにくく、加えて多産だ。
産まれる子豚は母豚に似てピンク色で可愛い。
雄の柵は一番奥にある。その豚の世話や、母親となる雌の大人の豚の世話をしたことがないのは、一応事故がないように計らってくれたのだろう。
産まれてから200日で出荷されるが、私が世話をするのは100日までの若豚だ。
そうだ。最初の頃にここに連れてこられた時に、不用意に近づいてしまい、エサかと寄ってきた母豚に足を踏まれて痛い思いをした。
あの時、叔父は慌てて病院に連れて行ってくれたっけ。
足の甲を骨折していて、叔父は「こんな小さな足だったんだなぁ。ごめんなぁ」と謝って、おんぶをしてくれた。
あの頃は、両親を亡くした私に優しくしてくれた。
優しかったのだ。
仕事が終わった。
ポケットの指輪を確かめる。
どうしよう。これの確率は分からない。何も変わらないかもしれない。でも変わるかもしれない。変わったらどうする。そして、変えていいのか。
でも、いつか犯されるかもしれない。それは多分、確実なことだ。
ゆっくり建物の奥へと歩きだす。
雄豚の世話は平日の従業員がいるときにやっているので、床は汚れている。
雄豚のいる柵まで行き、尻側のもみ殻に指輪を放り投げた。
指輪はもみ殻の山に沈み、金色が少し見えるだけになった。
もう拾えない。もう後戻りはできない。
いや、後戻りはできる。叔父に「雄豚の後ろのもみ殻に光るものがありました」って。言えばいいだけだ。
迷いながら車に行く。
叔父はすでに運転席で待っていた。
「どうした。時間がかかったな」
「すみません。忘れ物をして」
「早く乗れ」
はい。と答えて助手席に乗る。
乗っている間、ずっと迷っていた。
今日に限って運転席から手を伸ばして太ももに手を置いた。
今までは帰り道は触られることはなかったのに。
叔父は無言で触っている。時折、親指に力を入れ肉の薄い太ももを揉むように触る。
「やめてください」
なんとか出せた声は小さくかすれていた。
「お前は、逃げられないんだよ」
叔父が答えた。
目の前が真っ暗になり、そして赤くなった。
死んでしまえ。
明確な殺意を感じた。
心が麻痺をしたまま助手席に座り続けた。手は、ずっと太ももにあった。
家に着き、ドアノブの弁当を持って玄関に入る。
「一緒に風呂に入ろうか」
何を言っているのだ。鼻の奥が痛い。ここまで酷くはなかったのに。
「いえ。お断りします」
うつむいたまま返事をした。
ふん。とか言って風呂へと向かって行った。
叔父が戻ったのと入れ替わりに風呂に入り、湯舟で泣いた。
涙にはどんな意味があったのだろう。怒りと絶望と優しくされた思い出の切なさだった。
風呂から上がると、リビングの後ろ姿の叔父はビールを飲んでいた。
一番見たくない光景だった。
500ミリリットル缶二本目のようだ。叔父は酒が弱い。これくらいですぐに酔ってしまう。
息をつめ後ろ姿を見ていると、ゆらりと立ち上がり私を見た。
こちらに歩き出す。弁当を持って部屋に逃げ込もうとした私をたった数歩で捕まえて後ろから抱き締められた。
酒臭い息が頬に当たる。
ぎゅうときつく抱き締められる。
やめて。やめて。
「ゆかり。俺を忘れるな」
「え?」
普段呼ばない名前を呼ばれた。そして言葉の意味が分からない。
がばっと振り向く。
そこには、不思議と穏やかな顔があった。
呆然とする私への腕を解いて寝室に向かいドアを閉めて姿を消した。
何も理解できずに立ち尽くした。
翌朝、すでに仕事に出て叔父の姿はなかった。
弁当も作る前だ。少し奇妙に思いながらも、家事を済ませて、ゆっくりと朝ごはんを食べることができた。
学校に行こうと着替えていた時に電話が鳴った。
出ると、取り乱した叔母だった。
震える声が叔父は死んだと告げた。
私はその時、何を感じただろうか。
どうも、その時の感情が分からない。自分の計画通りに進み、嬉しかったのか。
ぼんやりとしたまま、周りに色々と指示をされて忙しく動き、今に至る。
叔母からの同居を言われて安心している。でも、妙に心がざわついている。
ああ、当たり前か。私が殺したんだもの。
私は人殺しなのだ。
その確固たる事実が身体を凍えさせる。
参列者が全て帰り、家は静かになった。
陰鬱な気持ちで洗い物を全て終わらせて、叔母はリビングの掃除が終わり、二人でゆっくりとお茶をすることになった。
二人で思い思いの事を考えてリビングは静かだ。
テレビのあった場所には、叔父の微笑んだ遺影が置かれている。
ややあって、叔母が口を開いた。
「あの子ね。前はずっと精神病院に通っていたの」
「そうなんですか?初めて知りました」
「そうね。私も言わなかったし、あの子も自分から言うことはなかったでしょう。もう長い間通っていたのよ。
だからね。あなたが、この家に入ったときは少し安心したの。
自分以外の人に関心を持たなければならない状況は、自分の不幸ばかりを見詰めすぎるのを防いでくれるんじゃないかと思ってね」
「何が理由で、通い始めたんですか?」
「うーん。たくさんあったと思うけれど、外から見て分かったのは、長くお付き合いしていた女性が事故で亡くなってしまったこと。
東京で働いていたけれど顧客も会社も理不尽な要求ばかりで疲れ切ってしまったこと。
かしらね。彼女さんが亡くなって会社を辞めて、自殺未遂して初めて知った。当時生きていた母とこっちに戻したの。半年くらい入院してから、通院していたけれど、母が亡くなってからも、この家をまあまあ綺麗に使っていたから、家事はしているようで安心をしていたわ。家の養豚場の仕事を始めてもいたしね」
「そうだったんですか……」
意外だ。そんな大きな心の傷を抱えていたなんて。
「うちのバカ息子が、家に来たばかりのあなたを何度も泣かせているのを見てね。いつか大きな間違いをすんじゃないかっていう不安もあったの。
可愛い女の子が来て、両親が亡くなったばかりなのに、なぜか浮かれちゃっていた。ほんと、男の子ってバカよね。
でも、良くなったとはいえ、精神病患者と幼いあなたを一緒にするんじゃなかったわ。ごめんなさい。何度も身内の死を経験させてしまって」
そういえば。両親が他界したばかりの頃は、叔母さんの家に居たのだ。
可愛がってもらったが、従兄が意地悪をしてきて泣いた覚えがある。
「やっぱり、弟は心の病気が治ってなかったのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。先月ね。うちに来たの。
煮物を作ったから呼んだのは、私なんだけれど。
そこでね。もし、俺が死んだなら、どんな理由でも自殺だと思ってくれって。
病気が治っていないのか?って聞いたらね、治るものでもないんだよ。って言われてね。姪を預かっているのだから、通院を再開しなさいって言ったの。
それに返事はしなかったわ。
そしてね、こう言っていた。「誰かの一番になれずに死ぬのは嫌だなぁ。いつか忘れられてしまうのが怖い。寂しい」って。
だからね。今回の事故も、もしかしたら自殺なんじゃないかと思っているの」
「自殺……」
自殺。その言葉を心で繰り返す。
そして思い出す。死ぬ前日の私を抱き締めて言った言葉。「俺を忘れるな」
目の前が暗くなる。
「ゆかりちゃん?」
叔母さんの声が遠くに聞こえた。
ぽつんと暗闇の中に豆電球が灯っている。
私の部屋だ。
部屋のベッドに寝かされていた。
リビングでは叔母さんの家族の話し声が聞こえる。
小さく聞こえる話し声は、私の身を案じてくれている。
苦手だった従兄の声も落ち着いた声で私を心配してくれる。
お通夜の時に東京から戻ったと会ったが、「昔、いじめてごめんね。女の子とどう接すれば良いのか分からなかったんだ」と謝られた。
私は、あの家族の一員にこれからなる。
とても良い環境に思えた。
叔父さん。
叔父さん。
私に殺されるのが分かっていたの?
私に殺させたの?
私にずっと忘れさせないように?
残酷だよ。叔父さん。
なぜか思い出すのは死の前日までの性的な恐怖と嫌悪ではなく、この家に来たばかりの頃の優しかった姿だ。
私は、きっと一生叔父さんを忘れることはできないだろう。
叔父の死後、保険金が下りた。
半分を私にと遺言があった。
私にはもともと両親の保険金があって、それを叔父も叔母も大事に守っていてくれた。
お金なんかいらないんだよ。
叔父さん。
私は時折、「叔父さん」とつぶやいている。