03-02
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「いやいや。どこの世界にもこういう話しってのはあるもんだな」
青年は椅子に深く腰をかけ、手に持った緑青色の背表紙が目立つ本を眺めながら呟く。顔つきは二十歳前後でありながら蓬髪めいた黒髪がうなじを覆う。
僅かにしり上がりで険の有る目つきと眉は青年、静間右流辺の性格をよく表している。
「なに読んでるんですか?」
右流辺の横からひょいっとロウが本を覗き込む。
目も覚めるような赫赫とした長髪と瞳。風呂上りの薄着から香る甘く柔らかい匂いが右流辺の鼻孔をくすぐる。
無邪気に肩がぶつかるほど距離を詰められれば目のやり場に困る右流辺は思わず天井を見た。
年の頃こそ右流辺と同程度に見えるが、どこか幼さを孕んだ頼りない顔つきの召喚士ロウ=フィンキスは、長髪をかきわけるようにぴんと伸びた純白の兎耳をへの字に折って水滴をふき取りながら頁の右から左へと大きな瞳を動かす。
中身の無能加減を知らない者からすれば、その見目麗しい容姿に騙される者も少なくない。若干体つきが平坦なところがあるがそれもまた愛嬌として見れないこともない。だが騙されないぞ。
異世界に召喚され被害真っ最中の右流辺は何かにこらえるように自分の太ももをつねる。
「うわ! 懐かしいもの読んでますね」
「なんだ。これ知ってるのか?」
「少年の旅ですね。娯楽文書として有名なお話しですからね。皆、子供の頃に一度は聞いたことがあるんじゃないですかね?」
「へえ。そんなに有名なのか」
右流辺が手に持っていた本は、無作為に買いあさった多数の本のうちの一冊だ。絶賛元の居た世界に戻る手段を模索している右流辺に出来ることと言えば、本を買い読むこと以外にない。そのために手に取った多くの本は役立たずであり目的を遂げるために力を貸す情報などありはしない。ただこの混沌めいた世界を知る大事な手段となりつつある今、用が無いとわかっていてもとりあえず目を通している。そして右流辺が今手に取っている本は言い表すならば子供向けの絵本であり、内容もどこかで聞いたことのあるものだ。
普段虐められ立場のない少年がひょんなことから魔法使いに助けられて、長旅を通して成長しハッピーエンドへと転がって行く。
ロウの話しでは、幾章にも綴られるほどの長編で、右流辺が今持っているのはその序章だとか。
「こういう話しって百歩譲って安直なハッピーエンドってのは良いよ。子供向けのお話しだからな。
けれど、謎の第三者が見返りも求めずに主人公に協力するってのはちと非現実的な話しじゃねえと思わないか」
「べつに物語だから非現実おおいに結構じゃないですか。だいたい右流辺さんのところの物語はそうじゃないって言うんですか?」
子供向けの幻想物語でありそれに文句をつける大人……と呼んでいいのかわからない青年の姿にロウは呆れを覚える。
「俺のところにも似たような物語があったな。シンデレラって言う話しよ」
「シン……デレラ?」
聞き慣れない名前にロウは首を傾げて見せる。
「まあ簡単に言っちまえば、両親とか姉妹とかに虐められてる小汚い妹が、魔法使いの協力のもとで貴族に出会うためのドレスと舞踏会への切符を手に入れ、そこで舞踏会で見初められ、意地悪姉妹を見返してハッピーエンドって話しよ」
細かいところの正確さに自信はないが右流辺は記憶を頼りに内容を思い出す。
口にしたことは知っているシンデレラの内容とは何か違う気もするが正しい気もする。
「素敵な話しじゃないですか。何をそんなにぶーたれてるんですか?」
右流辺が語るシンデレラの内容は類似の多いものであり、ロウかしてみれば何の変哲もないよくある娯楽文書だ。
しかし内容を口にした右流辺はどこか納得がいかなように腕を組んで頬を膨らませる。これが見事に可愛くない。
「まあ主人公がお姫様になったってのは良いけど、この魔法使いはなんで見返りも求めずに協力したのかって話よ。そんだけの力があってよ。しかも表にその正体を明かすことなく消えてるんだぞ。
世の中にそんな都合の良い奴はいねえし、そう言うのを幼い頃に読んでると他力本願な人間に育っちまうぞ」
「それくらいのことに文句つけるのは、ひねくれてる右流辺さんくらいですよ」
「…………確かに子供の読むものにケチつけるなんてひねくれてる以外の何でもないな」
自らの行動に納得するように右流辺は再び腕を組んで頷いてみせた。
対象年齢をとうに過ぎた男がこうもケチをつける姿は傍から見ればみっともないこと極まりない話しだ。そして右流辺はそれを見事に体現していた。その正論を指摘したきたのがロウと言うのが些か頷き難くもある。
「そんなことよりも大事なお話しがあります!」
「な、なんだよ。改まって……」
対面の椅子に腰をかけたロウが力強くばんと机を叩いた。普段は頼りなく、些細なことですら動揺を見せるロウの眉が珍しく尻上がりに持ち上がっている。
見慣れない表情に右流辺は声が上擦る。
「さて、お二方揃いましたね」
「なんで俺様を呼び出した」
「知らねえ。こいつが呼べって言うから」
納得いかない表情でベッドに横たわっているのは他色を一切含まない艶やかな黒髪を前で切り揃え、利発な面立ちはまるで人形のように美しい。額に生えた一角は、かろうじてガンドルノアが鬼であったときの原形の残滓だが、それ以外はまさに美少年そのものだ。しかしベットの上で図々しく胡坐をかいた姿はその美しい容姿にはまるで似つかわしくないものだ。
突然指輪から呼び出された皇灼鬼は呼び出した張本人の右流辺を見るが、右流辺はその視線を受け流すように、机に肘をつき大物ぶるロウへと向ける。
「これをご拝見してください」
ロウが神妙な面持ちですっと机上に差し出したもの。
「帳簿?」
明らかにそれは薄い冊子であり、右流辺の世界ではノートと呼ばれる形態の道具だ。右流辺はそれを受け取り開く。
びっしりと数字が書き込まれている。
「これって……」
「出納帳ですね」
ロウに言われるまでもなく一目見て右流辺はそれが出納帳だとわかる。
この小さな召喚屋を経営していく上でのランニングコストを計上したものだけでなく、日常生活における出費を仔細まで記録されている。
普段から緊張感の欠片もなく、いい加減なロウだが、伊達に五年と言う歳月、一人で店を切り盛りしてきた。
その一冊の帳簿には支出と出費に関してしっかりと記載されていた。
「……ちとばかし赤字だな」
右流辺の一言にロウの眉が僅かに角度をつけて持ち上がる。
「そう! 赤字なんですよっ!」
故郷を飛び出し、このラフールと言う街で店を開きはや五年。
決して大きな儲けも無ければ、大きな赤字もない。常に黒字と赤字の天秤が均衡していたロウの経営だが、ここ一か月程度の出費は僅かにだが赤への傾きが大きくなっている。
店長として、店を持つ者としてロウにはそれを看過することができなかった。
「なんで赤字になってるかわかりますか?」
「店のモノが売れてないからだろ。ひいては客が来てないから」
「むぐっ! いや、それはそうなんですけど、売上は凡そ今まで通りです。と言うか今月だけを見たら先月よりも微かに売り上げが多いくらいで」
そう言いながらロウは開かれた出納帳を指さす。確かに売り上げだけならば先月よりも雀の涙ほどだが増している。だが念を押すが『若干』である。
「根本的な原因は右流辺さんの食費や生活費にかかってるお金です」
「確かに世話になりっぱなしだしな」
右流辺は腕を組んで頷く。
確かにロウの言葉通りだ。食事から生活用品までロウが買い揃えている。はっきり言って『ヒモ』のような状態だ。
「んじゃ俺を追い出すのか?」
「ん~……それも考えましたけど、それは最終手段として」
──考えたのか
ロウのことだ。たぶん大した考えもない発言だ。
「とりあえず働いてみませんか?」
「働く?」
「はい」
「どうやって?」
「そんなこと知りませんよ。それは二人で考えてくださいよ。それに私が考えるより二人で考えた方が納得いく案が出るんじゃないんですか?」
「それもそうだな」
確かに金額面の解決としてはまっとうな言葉だが、この世界でやっとこ右と左の区別がついてきたくらいの右流辺からすれば、いかなる手段を以てして金銭を得るか想像がつかない。
「まさか俺様がそんなくだらないことを考えるために呼び出されたのか?」
「そうですよ。二人で一人じゃないですか。
とにかく二人なんかしらのお金を稼いできてください。もちろん人様の迷惑にならない方法でお願いします」
「働く……か……」
同列に扱われて酷く嫌そうなガンドルノアとぴんと来ない右流辺は顔を合わせる。