01-10
「ははは、話とちがちが、違うじゃねえかっ!!」
買い上げた本の数は一〇〇ではきかない。
読み上げた本の数は立ち読みも含めて一〇〇〇ではきかない。
どれも千元導竜の仔細を調べるべくして読んだものばかりだ。
そのなかの一冊として千元導竜が触れる以外で目を覚ますことなど一字一句として記されてなどいなかった。
「なんの用だ?」
緑青色の瞳には腰を抜かした右流辺がしっかりと映り、アパロアはそのうえで喋りかけてくる。
巨大な体から伸びた尻尾が大きく揺れる。
「しゃしゃ、喋れるのか?」
──チビっちった。
股間の内側から伝わってくるしっとりとした感触すら右流辺には構っている余裕はない。目の前に横たわった巨大な神竜がいつ、その牙を突き立てて来るか。右流辺には気が気ではない。
「私と会話が出来る者など幾千年ぶりだろうか。それで何をしに来た?」
「どうどうどう。い、いき、いきなり噛み付くなよ」
「私を誰と心得ている! 有無を言わさずに仕掛けて来るのは常に貴様たちの方だろ!」
「ひぃぃぃ~──────っ!!」
──もっとチビっちった……
もはや『ちびった』と表現できるかどうかの境界線レベルの感触となっている股間など気にかけられない。
目の前で牙を見せつけ咆哮をあげる神竜を前に当たり前のごとく言葉を失う。
「それで貴様は何をしている?」
──爆弾を仕掛けてる、なんて言えるわけねえよな。
「いや、その、ささ、散歩で。月の灯りが綺麗だったもんで」
岩に閉ざされた空間で月明りもないものだ。などと気を回してる余裕もない。出来る事ならば破綻した計画に身を投じることなく逃げ出したい一心で右流辺は口から出まかせをこぼす。
「そうか。他の奴ら同様に、てっきり貴様が持っているその小樽の爆弾で私の鱗を奪いに来たもんだと」
「……なな、何のことだかさっぱりなもんで」
吹けもしない口笛を吹きながら右流辺から尽きる事のない冷や汗がこぼれてくる。
「久方ぶりに話し相手が来たと思ったが、まあ散歩だと言うのならば止めはしないぞ。行くがいいさ」
「………………」
アパロアは右流辺から興味を失うかのように再び目を閉じ体を横にする。
──助かった……のか?
逃げる事を許してもらえた。
今、この爆弾を握って後ろへと引き返せば何事もなかったかのようにこの場を去ることができる。
ただ、それ以上の成果はない。
戻ればロウの身売りは避けれない。
この場を逃げても一時の延命行為に過ぎない。
「なな、なあ!」
「ん?」
抑えがきかず上擦った声で呼びつけた右流辺に対して再びアパロアの双眸が開かれる。
鼻息一つで人など容易に蹴散らすことができるアパロアを呼びつける。
「その……お、お前の鱗を一枚くれっ! 高く売れるっていうその鱗をっ!」
「駄目だ」
即答だ。
「おお、俺にできることならなんでもするからっ! 頼むっ!」
「人風情にできることを私が望むと思っているのか?」
「ぐっ…………」
アパロアの言葉通りだ。
右流辺が幾らこの命を代価にしたところで、この未知の世界で出来る事など僅かだ。それはこの二週間で嫌と言うほどに知らしめられた。
「私の鱗を受け取るにはそれなりの『資格』が求められる。勇猛でありながら叡智を携えた者こそ、私の鱗を受け取るに相応しい者だ」
「そそ、そんな沢山あるんだから一枚くらいいいじゃねえかよっ!」
「駄目だ」
何の考慮すら伺えない鰾膠もしゃしゃりも無いアパロアの返事。右流辺には予想こそできてはいたが、予想通りだとは言え『はい、そうですか』などと聞き分けの良い態度が取れるはずもない。
「なんで!? なんでなんでナンデ!!!???」
駄々をこねるように地団駄を踏む右流辺はまるで交渉の術を知らない子供だ。
「そこまでして私の鱗を何故欲しがる?」
「あんたが自分の鱗の価値をどこまで知ってるか知らねえけど、あんたの鱗一つで俺の命が救われるんだ」
「金か」
酷く呆れたようなアパロアの物言いに右流辺は眉に深い皺を作る。
胸の奥からこみあげる熱いものがそのまま右流辺の口を突いて出た。
「カネだよ! 金ッ!! あんたに俺の何が分かるんだよ!
変な世界に召喚されて、子供以下の働きしかできない! そのうえで、俺を召喚した無能召喚士が借金で首が回らない始末ッ!! そいつが死んだら俺も即身仏だと。
ハハハハ! 笑っちまうよ。こんな訳の分からない世界で素寒貧より状況が悪い自分の境遇に」
何度口にしても我ながら涙しか出ないような悲惨な話しだ。
アパロアが首を縦に振らない限りはここを逃げようとも、牙によって食われようとも右流辺の未来は変わらない。
ならばもう感情を隠すだけ損だ。
「はあ……はあ……」
息を荒くして叫んだ右流辺は次第に落ち着いていく
「…………ここまで話を聞いて情けをかけてくれるとかは……」
「無いな」
「ケチ! アホ! 死ね!」
もはや悪口を考える力もわかない右流辺はただただ幼児のような罵倒を飛ばす。
当然だが、アパロアがそんな言葉で動くはずもなくただ右流辺をその緑青色の瞳で見ているだけだ。
右流辺の大した容量のない脳みそでは悪口が尽きるまでそう時間はかからなかった。
何を言っても微動だにしないアパロアにただただ無駄な疲弊を覚えただけだ。
「ったく、どうせこのまま戻っても死ぬかもしれない身だ。いい、一層のことてめえに挑んでやる!」
「やめておけ」
半ば投げやりな右流辺は掌に収まる爆弾を二つ手に取って意気込んで見せる。
「向かってくるならば敵として貴様と相対し、ここに散る骨が増えることになるだけだ」
「じょ、上等だ! ここで何も手に入れられなければ死ぬしかないんだからなっ!」
「馬鹿な奴だ。ハァッ!!」
「ぐへぇ────っ!!」
アパロアの吐いた息一つで右流辺の体がまるでタンブルウィードのように軽々と地面を転がり、壁へと激突した。
激しく打ち付けた痛みが全身を駆け巡り、右流辺の声にならない声が空間に響き渡る。
「ふん……雑魚が」
鼻息で意識すら飛ばしかねない脆弱な生き物。これまでにここへ訪れた戦士や傭兵くずれとは比較にならないほど弱い。たとえ、その手に剣を握ろうと、槍を握ろうともアパロアの鱗には傷一つまともつけられないだろう。
──いってえな……ああ……
どれだけの時間を意識を失っていたのだろうか。ぼやけた視界と共に右流辺は目を覚ました。
「………………」
生暖かいべったりとした感触が額に広がる。
──血……
手を当てれば、当てた部分全てに鮮血がべったりと着く。
およそ右流辺は経験したことのない出血量に目が丸くなるが、驚く力すらわいてこない。
「生きてるだろ。死ぬような傷ではないからな。大人しく帰るが良い。
私との会話が出来る者として最後の忠告だ」
──…………なんて言ってんだ…………ん? 本?
もはやアパロアの言葉すら満足に理解することのできない右流辺の腕は、力なく懐に運ばれる。その指先に違和感を覚える感触があった。
それはまごう事のない『本』だ。
──そうか…………気休めの弾避けにでも入れてたのか
記憶を探れば懐の仕舞いこんだ一冊の存在を思い出す。爆弾と共に荷物として運んできた何冊かの本。そのうちの一冊──
──これか……
鮮血に塗れた手で題字すらない灰色の表紙の本を右流辺は手に取ると息をつく。開いてみるが、ぼやけた視界のなかでは刻まれた文字すら満足に見ることが出来ない。
握ったその本は理解こそできるが試すことを決して推奨されなかった魔導書。
──明日が命日になるんですから一発くらい今、試してみても良いんじゃないですか?──
あっけらかんとしたロウの言葉がふいに右流辺の頭によぎる。人の命だと思って完全に他人事な態度が思い出すだけで腹立たしい。だが──
──さて………………………………
頁に刻まれた文字を満足に見る事のできない右流辺はゆっくりと指でなぞる。
掌にこびりついた血が刻まれた文字に吸い込まれていく。味気の無い灰色の装丁は右流辺の血に侵されていくように次第に赤へと染まっていく。
「……皇灼鬼」
力のない右流辺は囁くような声でその一文を読み上げる。それを切っ掛けに開かれた頁の文字たちが赫々(かくかく)とした輝きを灯し踊りだす。
まるで小人のように頁を飛び出した無数もの文字が赤の輝きと共に開かれた本を中心に陣を作り出す。