ヨトギバナシ 四
隣のふすまを開けると、布団が一組敷かれている。
若い畳の匂い。
香の香り。
掛け布をはがす小さな音。
旅人はそこに座り、上着を脱ぐ。
氷菊がふすまを閉めると、部屋が薄暗くなった。
斜め上からの視線・・・。
緊張・・・?
高ぶり・・・?
感傷・・・?
刹那、
切なさ。
なつかしさ・・・?
疑問。
猜疑心。
しゅるりと着物がはだける。
しなやかな線が印象的な氷菊の体―・・・。
蜃気楼?
幻想?
逆光。
静かに、ゆっくりと・・・氷菊が旅人の上にかぶさる。
ヒザに置かれた片手。
近づく顔。
唇・・・
閉じていく瞳。
相手の求めているものが、肉体ではないことの直感。
くちづけ。
自由。
解放。
もしくは束縛。
肩に添えられた手が、旅人を押し倒してゆく・・・
背中のふとんの感触。
他人の体温・・・
馬乗り。
肩首の側に、きたえられた氷菊の両腕が置かれる。
横髪がたれ、その髪先が旅人のほほをくすぐった。
薄闇の中。
宴会の音色。
氷菊の瞳・・・。
香とタバコのかおりが染み付いている着物。
もしくは髪。
もしくは体・・・。
近すぎて分からない。
無表情を装う氷菊の瞳から、一粒の涙が落ちた。
旅人の肩で弾ける。
「・・・やめようか・・・」
理由なき胸のしめつけと、わずかな罪悪感と、孤独感・・・
わいてくる・・・
愛情?
いや。
親愛の情・・・
信頼の情。
氷菊の、両腕の刺青。
彼の左腕に触れる。
人名らしきものが四つ、一列に並んでいる。
その一番下に Hita の文字。
「〝カーリー〟・・・?」
「そうだよ」
「あの手紙の差出人ですね?」
「・・・・・・・・・死んだよ。〝画家〟のあとを追って・・・」
「画家?」
「ケトゥさ」
彼の左腕の一番上に、Ketoo という名前が刻まれていた。
氷菊の体を押しのけ、隣に追いやる。
腕枕を促すと、素直に頭を乗せてきた。
「・・・・・・・・・・本当に何も覚えていないのか?」
疑問の胎動。
「僕は・・・誰なんですか?」
氷菊のまっすぐな視線。
数秒の沈黙。
・・・視線をはずす。
「いや・・・きっと人違いだろう・・・」
相手の嘘。
嘘による相手の利益の計算。
分析。
結果=やさしい嘘。
なぜ?
答え=思いやり?
氷菊=知人の可能性あり。しかし彼はわたしを思いやり、過去の話をしようとしない・・・。
おおかた正解だという、根拠のない確信。
妙な安心感。
奇妙な信頼感。
他人からの干渉を避けている。
一方で、
それを切に求め、
必要としている二人・・・。
同じにおい。
同じ穴のムジナ。
同じ闇。
同じ種類の光を渇望。
その 理解・・・
「この名前の人たちは・・・あなたのヒタ?」
「ヒタはカーリーだけ」
氷菊は両腕を、そこに彫られた名前を抱いた。
「わたしの家族さ」
「みんな?」
「みんな」
「きょうだいか何か?」
「繋がっているのは血じゃない・・・」
「その家族は・・・近くに?」
「いいや・・・
アナスは使命自害・・・
クナイは殺害・・・
ケトゥは自殺・・・
マイ・ヒタはその後追い・・・
テフは子供を産んだときの合併症で死んだ・・・
ユア・ヒタは・・・・・・行方不明だ」
〝君の〟ヒタ?
「ヒタとはどういう意味?」
心なしか小声。
ささやくような。
「対さ。ペア。パートナー」
顔を上げる。
彼の〝家族〟の名前。
「僕かもしれない名前もあるんですか?」
「あるよ」
仄かな期待。
わずかな不安。
限りない渇望。
「・・・・・・・・・見ても?」
彼が拒否も抵抗もしないので、旅人はゆっくりと、氷菊の腕をなぞった・・・。
出てきていないのは三つの名前。
「さっきわたしを呼んだ名はありませんね・・・?」
「あれは君にそっくりな子の愛称さ。わたしはずっと、君をそう呼んでいた」
軽い混乱。
陶酔。
酒のせいか
彼のせいか・・・
「どれが僕の名前なんですか・・・?」
からまる視線。
ニヒルな笑み。
淡い胸の痛み。
残酷な愛情。
腕の重みが移動。
氷菊は視線をそらし、目をつぶった・・・
たぬき寝入り。
どうやら〝答え〟をくれる気はないらしい。
その額に額をコツンと当てる。
まぶたに軽くキス。
旅人はしかたなく、眠りについた。




