5話「社畜時代」
俺の名前は須藤瑛人。36歳。生まれてこの方、運に恵まれなかった。
そうは言っても、別に受け入れられないほど運が悪いわけじゃない。ただ人と比べてちょっとだけ運がなかった。
すこしのマイナスを積み重ねて、積み重ねてしまった結果が今だ。
紙でも43回折れば月まで届くように、今日、俺は臨界点を越えてしまった。
いつものように同僚から押し付けられた仕事に取り組み、いつものように終電の時間を迎え諦めの気持ちでいそいそと帰宅の準備をする。
薄暗いオフィスに唯一人、終わる見込みのない仕事をさせられている。
俺が入社した当時はまだこうじゃなかった。元々ブラックな職場ではあったものの、自分のことは自分でやるという最低限のルールがあった。
でもいつからだろうか、いつの間にか面倒くさい業務を俺に押し付けることが当然になり、成果だけは持っていかれるようになってしまったのは。
きっかけは些細なことに過ぎない。体調が悪くて死にそうな先輩の業務の一部を引き受けたことだ。
この職場では、皆が皆夜遅くまで働いている。実質的な定時は22時といったところだろうか。
俺たちの業務は単純だ。データ入力――ただひたすら伝票に書かれた文字をパソコンに打ち込んでいく。
誰にでもできる仕事。でも一定の需要はある仕事。
それを毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日繰り返す。
はっきり言って辛さしかないが、生きるためには金がいる。
転職だって俺の歳じゃ難しいだろう。
さて、俺は先輩の仕事を肩代わりしてしまったわけだが、その時は大層感謝された。それはもう何度も何度も。
結局その日は終電間際まで仕事をすることになったが、労働時間に比べて疲労はそこまでではなかった。いやむしろ、いつも上司に怒鳴られている俺が、久方ぶりに感謝されて嬉しさもあった。
助け合いの精神は重要だ。こんな所だからこそ、一致団結して助け合わなければ皆、潰れてしまう。
でも、この世界は悪意に満ちている。
今度は別に先輩に仕事を手伝ってほしいとお願いされた。どうしてもと何度もお願いされ、結局断りきれずに引き受けてしまった。
そこからさらに仕事を頼まれることが増えていった。元来頼まれると断れないお人好しな性格が災いして、どうしても断りきれなかった。
そうこうしているうちに、同僚からの仕事を手伝ってほしいというお願いは、いつもな間にか自分の仕事を丸投げしてやれという命令に変わってきていた。
面倒な仕事は俺にやらせておけばいい、そんな空気が出来上がっていしまっていたのだ。
正直な所、気持ちはわからないではない。この会社ではどんなに一生懸命仕事をこなしたとしても評価されはしない。
自分の担当のデータを何件入力したか、それが全てだ。実際の業務を誰がやったかなんて会社にとっては些細な問題だ。
だったら誰かにやらせて自分は早く帰るほうが得に決まっている。馬鹿みたいに業務量が多いんだから、真面目にやっていては体を壊すのも時間の問題だ。
ちなみに、うちの部署が外に宣伝するときの文句は、「驚異の技術力で短納期・低価格」だ。
従業員に残業代を支払わず夜遅くまで残業させるという「驚異の技術力」で業界一の安さと速さを実現している。
こうして、うちの部署では俺に仕事を押し付けることが当然になり、皆は早く帰ることで健康状況が多少は改善されていった。早くとは言ってもせいぜい21時なのだが、それでも毎日終電に近い時間で帰るのに比べたら雲泥の差だ。
こんな生活にももう慣れた。いや慣れたというよりは心を殺して何も感じなくなった。
さあ、帰ろうか。
今日までに終わらせるはずだった仕事はまだまだ山積みだが、どうせ怒られるのは明日の俺だ。今日の俺にはもう関係ない。
そんな御託を並べて自分を誤魔化しながら、なんとか暗い気分を晴らそうとする。
何度もため息を漏らしながら、会社の外に出た。土砂降り。そういえば朝のニュースで昼から夜にかけて雨が強まっていくって言ってたな、なんてことを思い出しながら、傘を取り出そうとカバンの中を漁る。
ああ、そう言えば先週壊れたんだった。こう忙しくては傘を買いに行く暇もない。
月に1度の休日だって外に出て買い物に出ようなんて思えない。ただ家と会社を往復する毎日。必要最低限の栄養を摂取して、それ以外は何も望まず生きている。
いやこれで生きていると言えるのだろうか。いっそ――
そんな暗い考えに支配されながら、ずぶ濡れになる決意をし、一歩踏み出す。
その瞬間だった。ピカッっと目の前が光る。
そして、ガシャーンという音が俺の耳に届く頃には、既に俺の意識は消えていた。
なんて不運なんだろう。俺は雷に打たれて死んでしまった。
でも不思議と何の抵抗もなくそれを受け入れている自分がいた。
ああ、これでやっと……
生きているのか死んでいるのかわからないような、そんな生活の中で、もはや何の希望も持つことが出来ない苦しみから解き放ってくれたそれは、俺にとって最上の幸運だったのかもしれない。
全てから解放された暗闇の中で、目を覚ますとそこには女神がいた。