情報取引
今回の暗殺計画は予想以上に難航した。沢田はどうやら俗世界から隔離された空間に籠っているようであった。実験に使うものは下っ端に買いに行かせ、自分だけ研究施設のC棟に居座っているらしい。それだから、沢田を殺すのはおろか、接触を図ることさえ容易にはいかなかった。一度も外出しないとは。あまりに不健康ではないだろうかと苦言を呈したくなるが、教団としては日常茶飯事なのだろう。
断念するわけにはいかない。俺は色々と手段を考えた。教団に潜入するか? 多少のリスクはあるが、相手の陣営に飛び込む度胸はあった。ただ残念ながら、俺は高学歴に値するほどの学力を有していなかった。だから入信しても、俺が極秘研究グループへ配属される望みは薄かった。また仮に物凄い時間を投じて勉強し、運良く研究グループに参加できたとしても、沢田の殺害後に、今まで懇意にしていた熱烈な信者から、泥沼のような返り討ちを食らうこと請け合いだ。非常に面倒である。かと言って、教団内部に人脈も殆どないため、友人に暗殺を代行して貰うこともできない。
となれば、専門の業者を装ってC棟へ突入するしかない。業者の事務所の住所には空き家を使おう。火災報知器を点検する業者として侵入し、建物の内部構造を把握して、退路を決める。退路が見つからなければ一旦引き返し、作戦を練り直す。状況が良ければそのまま突入し、沢田を暗殺する。ただ、玄関で門前払いされればそれでお仕舞いである。
何にしてもやるしかない。
七月十日、夕刻。俺は峰花探偵事務所にて、衰えた筋力を鍛え直すためにひたすら腕立て伏せをしていた。由美の節電意識はエアコンにまで及んでいるらしく、二十八度設定の弱々しい風は、真夏の室内を快適にするまではいかなかった。
腕立てが百回程度にまで達したとき、テーブルの上で由美のガラパゴス携帯が鳴った。連絡用に由美から借りたものだ。俺は薄い金属の板を二つ折りにしたような携帯を開いて、通話ボタンを押した。
「もしもし~?」
電話口から由美の、欠伸を噛み殺したような声が聞こえてきた。
「何か用か」
「あの、沢田さんの情報の調査結果を今伝えとこうかなって思って。まあ途中経過だけど」
俺が調査を頼んでから四日後、遂に沢田に関する情報を仕入れる機会が訪れた。それにしても、こんなに短い日数でどれだけの情報を掴んだのだろう。
「不倫調査でさあ、九時間に渡る張り込みの間が暇だから」
「九時間も張り込みか」
「はい、お陰様で。車でずーっとデジカメ持ちながら扉睨んでる」
「大変だな」
「うん、いつものことだから」
素っ気ない感じの声が返ってきた。探偵とは大変そうな仕事である。
「……そうか。で、調査の方は」
「はいはい、今回は、沢田さんの経歴が結構洗えました」
「そうか」
「えーと……あのね、ちょっと重い話だよ」
「おう、勿体振らずに言え」
「えっとね、沢田さんは小学校のときに、両親から虐待を受けてるね。それで、児童相談所の職員が乗り込んで発覚して、虐待病院から児童養護施設へ移されて……中学生になったらまた親元に戻ったんだけど、虐待が再発。結局施設に逆戻りして、高校はずっと施設から通ってたって」
虐待、という音が特別な響きとして、俺の耳に入ってきた。確かに暗い話ではあるが、こんな詳しい情報をどこで入手したのだろうか。
「よくそんな細かいことまで調べたな」
「簡単だったよ。高校時代に沢田と同じ部活に入ってた友人に、ルポライターを装って『沢田さんが殺人事件に絡んでるかもしれないから調べてるんです』って出鱈目言って取材したら、沢田が入ってた児童養護施設の名前をポロっと言ってくれたから、次いでにってことで施設まで行って、そこでもルポライターとして施設の長に取材を申し込んだら、あっさり喋ってくれたって感じ」
行動力が凄い。それにしても、身分を偽り過ぎではないだろうか。
「おい待てよ。人を騙し過ぎだろ」
「嘘も方言だからね」
「……というか、何もそんな細かいところまで調べてなくても」
「あ、やっぱり必要なかった?」
「いや、細かく把握できるなら、損はないと思うんだが」
「調査費が高くつくの心配してるんでしょ? 大丈夫だって、ちゃん加算しとくから」
つまり大丈夫ではないということだろう。できれば杞憂であることを祈っておきたかったが、駄目であった。探偵に曖昧な指示をしたお陰で、曖昧な範囲の限界まで動かれてしまい、余計に調査費を支払う必要が出てきたのである。
「……施設まで行ったら何ガルなんだ」
「はい、ええと、移動時間と取材に五時間かかりましたから、一時間四千ガルで契約済みの場合は、計二万ガルになりますね」
二万ガルが消えた。
「高いな」
「安いもんよ。事務所に置いといてあげてるし」
「そう言われれば……閉口するしかないな」
「関係ないけどアンタさあ、早く新居見つけたら? 百万ガル貰ったんでしょ?」
それもそうだ。このまま探偵事務所に厄介になるくらいなら、またどこかのアパートの部屋を賃借して、住み直せば良いのではないかとも思えた。ただ、いざ百万ガルを崩していこうとなると、相応の勇気が足りなかった。あの金は、殺し屋の仕事に利用するためにもあるからだ。
「もう少し居させて貰えないか」
「ん? ニートでも目指してんの?」
「まだ百万は簡単に使えない。あの仕事が終わるまでのどこかで、急な出費があるかも分からない。すまん」
俺がそう言い終わると、電話口からはしばらく無音が続いたが、やがて
「……うん、じゃ仕方ないか」
数秒間の沈黙が俺の緊張を生んだ。何だろう、この静寂は? というか、今の釈明で理解して貰えたのだろうか。黙り込んであれこれ考えていると、
「はい、でもって、沢田さんの経歴の続きだけどさ、こっからが妙に華やかなんだよね」と元の話題に戻った。
「……まだ調べたのか」
「大泉大学の三期生で天才としての頭角を現し始めて、毎年五月に開催される全国暗算大会で準優勝、翌年に博士号を取得して、自分の研究室まで持ってたらしいよ? 超エリートでしょ? ……ちなみにここまでの情報は一万二千ガルね」
どんどん金を騙し取られているような気分になる。
「合計三万二千ガルか」
「それは良いからさあ、それより気になんない? 幼少期に虐待受けた人が、大学時代にこんなにエリートになっちゃうとか、信じられないんだけど」
どうだろうか。経験のない俺には、虐待という世界の本質が掴めない。恐らく、実際に沢田になってみないと分からないのだろう。
「現実にはそうだったんじゃないか。人生塞翁が馬って言うだろう」
「まあ……とんでもない虐待受けて育った後、かなりの功績を残して市長にまでなった人間が、実はシリアルキラーだったってアメリカの例があったりするんだけど、それにしては……うん」
「何だ?」
「沢田が通ってた高校って結構偏差値の低いところで、ヤンキーなんかも彷徨いてるところなの。そんなとこの高校生が、大学四年通っていきなり博士号だよ? もうどんだけ死に物狂いで勉強したんだって話」
「頑張ったんだな」
「頑張ったとかじゃなくて、もう不自然」
他人の人生を不自然だと評するのもどうかと思う。
「取り敢えず経歴の情報は有難う」
「いや、あとちょっと残ってる。大学五年目にして、北関東豪雨災害に巻き込まれたらしくて、そのときに後の教祖と接触して高観教に入信したと」
いささか衝撃を覚えた。教団の設立当時から、沢田は高観教の教祖と親しかったのだと言うのだろうか?
「教祖と接触? 本当だろうな?」
「確定ではないけどね。四時間くらい適当な大学の前でうろうろしながら、高観教の勧誘捕まえて『私、実は高観教の沢田有介さんって人に憧れてて、どんな方か耳にしたことありませんか』って目をできる限り輝かせながら尋ねたら、噂だけどって断った後でみんなベラベラ喋ってくれたよ。最終的にその大学の教授に捕まって、四時間も何やってるんだってこっぴどく叱られたけど!」
いや、本当に、お前は四時間も何をやっていたんだ。
「疲れなかったのか」
「あ? 疲れたよ! 当たり前だろ! 四時間分、一万六千ガルきっちり請求するからな!」
「分かってる。ちゃんと払う」
「頼むねホントに! 用が済んだ後も、マジでしつこく勧誘され続けてホント地獄だったから。踏み入れるべき世界じゃなかったし、その分は元を取りたいから」
何というか、若干気の毒ではある。
「ていうかあくまで噂だから、そこの部分だけ、あんまり過信しない方がいい情報ではあるよね」
「おう、そうか。忠告有難う」
「どういたしまして」
なる程。大体の粗筋は把握できた。好奇心を満たすには丁度良い物語だった。
「あと何か聞くことない?」と彼女が尋ねてきたので、
「沢田が高校のときに入っていた部活と、所属していたサークルが分かれば教えて欲しい」
沢田が何か体術でも習っていたなら、暗殺に手間取るどころか、こちらが被害を受けてしまうケースも想定できる。念のための確認だ。
「高校は文芸部で、大学はガラッと変わって理科学研究サークル」
「何か体育系の習い事をやっていたとかは?」
「いや、ないと思うよ。高校生の同級生さんも『痩せていて運動が全然できない人だった』って証言してるし」
「そうか」
「大丈夫大丈夫。へちまみたいな奴だよ」
救いようのない比喩だ。
「それから、沢田が入っていた学部と学科は分かるか?」
「生物学部の脳科学科。その学科は、脳科学が主軸なのは当たり前なんだけど、たまに医学部の真似みたいなこともやってるらしいよ。あとでオープンキャンパスの資料渡しとく」
高観教の教祖が、脳科学に詳しくて仲の良い沢田に、極秘研究グループの指揮を命じた……。教祖の胸中には、どのような魂胆が眠っているのだろうか。
「分かった。……他にこれといった情報はあるか?」
「うーん……沢田の今の人脈が全然把握できなくて。何しろ施設の中にずっと引きこもってるっていうから……これ以上は特にないかな」
「そうか、そんなところか」
「そんなところ」
俺は調査結果を一通り聞いた上で、調査における負担が彼女に大きくかかったことを認識した。何だかんだ言って、由美には感謝しなければならないという気持ちを起こした。
「色々調べてくれて有難う」
「はーい、どういたしまして~。んじゃ、引き続き沢田のこと調べときますね~」
「ちょっと待て」
咄嗟に、また調査費をふんだくられるのではないかと焦る。
「あーはいはい大丈夫ですよ、この先の調査の分も、ちゃんと加算しときますから。探偵を舐めないで下さい」
「もう調べなくていいぞ」
「そんなこと言われても秘密裏に調べときますから」
どこにどういう執念を抱いているのだろうか。その動機がひたすら疑問でしかなかった。そんなに暇な時間を持て余しているのだろうか。
「なら勝手に調べろ。俺は頼んだ覚えは……」
ブチッと音がし、突然通話が切られた。
「もしもし?」
後はツーッツーッと電子音が無気力に鳴りっぱなしだった。俺はガラパゴス携帯を勢い良く閉じた。
不自然な電話の切り方だった。俺は、由美に何かあったのだろうかと怪しんだが、怪しむ以上に何をすることもできなかった。