2.魔力を消化する器官
小学一年生の頃、兄と一緒に母の故郷に連れて行かれた。気温が高く、日本の空港から着ていた上着はすぐに脱ぐ。嗅いだことのない匂いが不快だし、初めての飛行機は気持ちが悪くてすぐに日本に帰りたくなった。
やたらとクラクションを鳴らすタクシーに乗って信号のない道路を眺める。
道路では痩せて肋の浮いた毛の短い野良犬が交尾をしていて、それを見た母親が声をあげて笑っていた。
暑さに不快感を覚えてゆっくりと目を開ける、しばらくくすんだ色の天井を眺めていた。
「□□□□!□□、□□□□!」
あれから3日、最初は音としてしか頭に入ってこなかった言語が、なんとなく、言葉のように聞こえるようになってきた。
今私の布団を剥がして身体を激しく揺すっているのは同室のでこっぱち少女、推定4才。
まだ3日、されど3日。私は見事に子供達に馴染んでいた。特に小さな女の子達には人気で、言葉がわからないせいか、お人形遊びの延長で世話を焼かれている。
今日も午前中におままごとに付き合う、言葉はわからないが多分バブちゃん役だ。草と泥を石で挟んだセンセーショナルなミックスサンドを食べさせられそうになるのをなんとか拒みながら、接待おままごとに興じる。自分の意思を全てボディランゲージで伝えなければいけないのはやはり疲れた。
お昼を食べ、小さな子達がお昼寝を始めた頃に先生と勉強が始まる。
先生は机の上に教本を置いた、幼児向けなのか字より絵の比率が多いその本には、理科の教科書のように人体の仕組み、解剖図が描かれていた。初日にそれを見て私は驚愕した。
この世界の人間の体内には魔力を貯めるためだけの臓器がある。今も、空気中には魔力の素になるものが漂っていて、それを異世界人は皮膚の表面状にある毛穴の様な場所から吸収しているらしい。
そこから体内に吸収された魔力の素は血液に取り込まれ、私たち人間でいうところの肝臓と膵臓の間に存在する小さな袋で消化される。そこで初めてその身体に馴染んだ魔力となり身体中を巡る。
身体を巡る魔力を自分の意思で外へ出すことができる人もいるらしい、それが全体の4割。
――仕組みは酸素や栄養分とかわらないのか……魔力を外に出せる人、つまり魔法使い、ほんとにファンタジーな世界だなあ
どこか他人事の様に思いながら、目の前の先生の腕を見る。普通の人間と同じ様に見えるこの瞬間も魔力を吸収している、らしい。まったく自分の腕と変わらないそれを見比べる。
それをニコニコと観察されているのに気づいて目をそらす。こわい。
この人も脳内彼氏だ、と気づきその日のうちに逃亡を図ったアクティブな私だが、何故か町を出る前に取り押さえられる。昨日も逃亡したが結果は同じ、おかげで3日目にして町の地理に詳しくなった。そして捕まえられると強制抱っこで帰宅、この人めちゃくちゃ足速い。
そして、帰り道でチュロスの様な長細い揚げパンの中に、ほんのり甘いトロトロの謎クリームが入った、それはそれは美味しいおやつを買ってくれる。
――……やっぱり、変な先入観(ロリコンという可能性)を持って接するのは失礼だよね。――と、ほだされかけ。
――ハッ!……これがお前のやり方か!
見事に懐柔されているチョロすぎる自分への叱咤と、卑怯な手を使う先生への怒りで鉛筆を持った手が震える。
――しかし、食べ物に罪はないんだよなあ
あの味を思い出し、ついぼんやりしてしまうと先生がこちらを覗き込んだ。
集中していないのを注意するように困った顔で言葉をかけられる。促されて、また絵が多めの教本に視線を落とす。
そして、魔法使いとは違う角度から魔法を使う人たちについて。
その人達は空気中に漂っている魔力の素に体内を通さず干渉する方法を使う、それがあの脳内彼氏一号が私にキョンシーよろしく貼り付けたお札――今考えても何故あのタイミングでゲロを吐くお札を貼ったのかがわからない――だ。
あのお札に描いてあった模様はそれぞれに意味があって、魔力の素に干渉するらしい。模様の一覧が載っている本を読ませてもらったが、ちんぷんかんぷんだった。習得するには相当な勉強が必要のようだ。
全体の4割、魔法使いにはそれぞれ使える魔法が限られていた。それはこの世界の人間ではない私にも馴染みのある五大元素による属性で分けられている。
しかし、血液型が一人一人違って私たちにもプラスマイナスがあるように個人によって元素+個人の特性が加味され、種類は多岐にわたっていた。
わかりやすすぎる教本と先生のボディランゲージでの補足、私はこの先生とジェスチャーゲームで勝てる気がしない。
基本的な書き取り練習の後は発音の練習だ。
女の子の絵を指差して単語を繰り返す先生、それになるべく近づける様に発音して何回か直される。男の子の絵でも同じ様に繰り返した。
この国の言葉をしっかり聞き取ってみると、フランス語に似ている様な気がしたが、フランス語でもどうせ分かりはしないのでなんの問題もなかった。
次に、先生は自身に指を指して単語を繰り返す。きっと先生の名前だ。
「ぎ、ぎりー……、りりー……ん?い?」
初めの発音が難しく何回か修正をする。
「い?、……いりー?……いりー」
正しい発音ができたのか何度も頷き、嬉しそうな先生。その後も別の単語を繰り返して、最後に今日習った言葉を一通り喋る。
おはよう、おやすみ、ありがとう、ごめんなさい
おとこのこ、おんなのこ、いりーせんせい。
最後に先生は私を指差す。
一昨日から始まった勉強会の最後、必ずされる動作に、私は毎回冷水を浴びたように身体が竦む。
このデタラメばかりの世界で私の名前だけが、私の中で“本当”だ。
指をさされたまま、私は押し黙る。
“本当”を口にした瞬間、私の“妄想”の産物である彼らに私の名前を呼ばれた瞬間。
私の“名前”さえも“嘘”になってしまうような気がして、固く閉ざした口は開くことはない。
そうして昨日と同じように勉強の時間は私の沈黙で終わった。




