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1-1.ウェルカムドリンク(汚)

 特に変わり映えのしない土曜日は、そろそろ終わろうとしていた。


 寝ぼけた頭のまま階段を下り、リビングで韓国ドラマを見ている母親の前を通り過ぎて、冷蔵庫からお茶を取り出す。

 リビングに広がる見慣れた光景に辟易する。テレビからは韓国語、字幕でドラマを見ながら、携帯でよくわからない言語をまくしたてる母親の声が耳に障る。ため息をお茶と一緒に飲み込む。苦いのはいつもの事だ。


 私の母親は日本人ではない。

日本より南、世界一のスラム街でゴミを漁って育った人間だ。

 その日を生きるためのお金を稼ごうと観光地で職を求めふらついていた母に、父が現地の観光案内を頼みお金を払った。それが始まり。

 父は母を日本に呼び、結婚をした。

来日してしばらく、産まれた長男が小学生になる頃、次の子供が産まれた。


 年の離れた兄はもう五年も家に寄り付かない。私が中学生の頃に一人暮らしを始めて、それ以来だ。母は白状な息子だと愚痴を零す。それなのに、私には早く結婚をして家を出るよう急かす。主語も述語も発音もめちゃくちゃな、私より長い年月を過ごしているはずの国の言葉を、片言で伝えようとしてくる。


 何も考えないようにしながらリビングを出る、閉じた扉の向こうには国境なんて無い。理解出来ない言語が飛び交う。

耳を塞いでも聞こえてくる言葉を理解する前に、思考に蓋をする。

 妄想は、私が私を守るために始めたものだ。鳥に羽が生えたみたいに、魚が水の中で息をできるように、私が易しい地獄で生きていくために。

 思考を空想へ押しやりながら、階段に足をかけた時だった。胃のあたりがモヤモヤして、足から力が抜ける。壁に手をつき体を支えるが、手にも力が入らずその場にしゃがみ込んだ。

すぐ近くにいる母親に助けを求めようと口を開くが、喉の奥で言葉を抑えた。


「               」


 母親は、遠い故郷にいる従姉妹とやかましく話しをしていた。

手足には力が入らないのに、妙に頭だけが冴えていて母親の声がよく聴き取れた。

 お金の話だ、今月の仕送りを払い忘れていたことを謝っていた。遠い国にいる、私は顔も知らない、たくさんの親戚に渡すお金の事。

 助けを求めようとした口を閉じて、上を向いた。見上げた階段の先にある窓は、真っ暗な夜空を四角くく切り取っていた。その窓から、忘れたくても忘れられない、小さな女の子が私を見つめていた。

 窓から暗闇が溢れるように染み出す、全てが暗闇に飲み込まれる。

残されたのは、誰もいない階段と母親の喋り声だけだった。




ーーいや、おかしいでしょ。


 頭を抱える。そこで、力の入らなかった腕にもうなんの違和感が無い事に気がついた。


しかしーー


「……ぐっ、ッハ、ハ、ぅーー」


 強烈な吐き気に、ここが何処なのか、先程の暗闇は何なのか、考える暇もなく胃液を吐き出した。

 生理的な涙で歪む視界に、光が差し込んでいることに気がつく。涙を拭きながら、吸い寄せられる様に光に近づいて行く。


「……道だ」


 私の住んでいる田舎では中々見ることの無い石畳の道を呆然と見つめる。


ーーガラガラ、パカッパカッ


聞いたことのない音がして、石畳を見つめていた視線を向けるーー


「う……!」


ーー馬だ!


 正確に言えば馬車だが、人生で初めての馬に釘付けになっていて気がつかなかった。想像していたより大きく、私の立っている場所に真っ直ぐ向かってくる顔が怖くて、急いで後ずさる。

 勢いよく退がったせいか、壁の様なものに背中を強く打ち付けてしまい、痛みに顔をしかめながら一歩前に出た。

道の端で前後にステップを踏む不審な私を咎める人は誰もいない、というか人がいない。

 向かいには異国情緒溢れる可愛らしいレンガ造りの家が並んでいて、まるで外国の旅行パンフレットに載っていそうで壮観だった。


 そこで強烈な違和感を覚える。


ーー後ろに壁?


 冷や汗が背中を伝って、勢いよく振り返る。そこには向かいの家と同じ様なレンガ造りの壁しかない。


ーー私は、明るい方へ真っ直ぐ歩いてこの道に出た……はず…


 どうして、どうして、と疑問ばかりが浮かぶ状況に脳みそがパンクしそうになっている時だった。


 向かいの家の扉が開く。美味しいフライドチキンを作ってくれそうな白髪のおじいさんが出てきた。

ひどく親近感を覚えて、ここの住所を聞こうと近づく。おじいさんもこちらに気づき、首を傾げた。それに合わせて揺れた白くてふわふわな髪の毛を変な髪型だな、と見つめた。


ーークマの耳みたいな形だ…


 体が固まる。

口を開けて、立ち止まる私を不思議に思ったのか、おじいさんが優しい笑顔で声をかけてきた。


「                ?」



 私は、そのおじいさんから全速力で逃げだした。


 急に走り出した私におじいさんが手を伸ばす、その手が人間のものではないのをしっかりと見てしまって、更に足に力を入れる。


ーー変な髪型じゃない!あれはクマの耳だ!手だって白い毛が生えて、爪があってーー

ーーしかも、なんか言語っぽい感じで喋ってた……意味わかんなかったけど


 息が苦しくなり、走るのを止めて咳き込む。小鹿の様に震えながら横腹を抑えた、それでも歩みは止めない。


 なんだかまだ吐き気がするような気がして、道のど真ん中で吐く訳にもいかず、何処か水場が無いかと辺りを見回す。チュンチュンと雀の様な鳥の鳴き声が聞こえた。

そこで思いつく、もしかしてまだ早朝なのかもしれない。


「本当に、何処なんだ……ここは」


 まだ夜のはずだ、階段で見上げた窓の外は真っ暗だったのだから。


「気持ち悪い妄想ばかりしてたから、ついに脳みそが腐ったか」


 自嘲の笑みを浮かべる。現実と妄想の区別もつかなくなったのかも、ーーつまりこれは夢!


 リアルすぎる気持ち悪さ。そして横腹の痛みが、その考えを嘲笑う様に心臓の動きに合わせて傷んだ。

 わかってる。得意の現実逃避だ、許してくれよ。


 トボトボと鳥のさえずりを聞きながら、これからについて考える。さっきのおじいさんの喋っていた言葉を思い出す、……まったくわからない。ケモミミ、つまりファンタジーだ。そしてトリップ。

 そりゃあ、それ系は腐るほど妄想したしアニメや小説も読んだ。けれど、私が?


 要領が悪いのか今まで頑張っても人並み以下の結果だった。努力の報われない例が私だ。高校中退後、通信高校を卒業するも大学に行けず、人とのコミュニケーションなんてとてつもなく苦痛を感じる。

 清掃のアルバイトでなんとか稼いでいるが、物欲も無いのでお金を使うことも無い。だからと言って貯金が貯まることはなく、財布のお金はいつの間にか母親が抜き取っている、そうやって小さな頃から無気力を学習させられてきた。


ーーこれは、控えめに世界から死ねと言われているのかな?


 笑っているつもりだが、酷い顔になっている自信がある。

証拠に、先程からポツポツと増え始めたすれ違う人たちーー人の形をしていないものもいるーーが、私を見てあからさまに避けて行く。

 確かに私は社会不適合者だけど、こんな仕打ちはないんじゃないか?と訴えかけたいが、どうせ言葉が通じない。


 ついに足を止める、目の前に朝市のような光景が広がっていた。先程の静かな町並みが嘘みたいに騒がしく動く人、人、動物、人、動物、よくわからない奴ーー


ーーよし、引き返そう。


 人の多さと、本格的に吐きそうな気配を感じて回れ右をーー振り返ろうとした横っ面に衝撃


「ごっ、す、すみません」


 生暖かいものにぶつかったので反射で謝り、顔を上げる。そして硬直。



 艶がある黒髪は少し野暮ったい長さで切りそろえられているが、それも魅力に変えてしまうのは透き通る肌の白さ。

控えめなパーツながらも配置が奇跡的なくらい整っていて、少し視力が弱いので目元にキュッと力を入れるのが癖。

自宅ではメガネ男子。髪の毛を伸ばしているのは色が白いせいで常に血色のいい耳を隠すためでーーこの男は……!


私が長年愛情をこめて育ててきた脳内彼ーー


「ーーおろろろろろろろ……」


驚きと興奮で、心臓じゃなく胃の内容物が

脳内彼氏(推定)を出迎えてしまった。今すぐ死んでしまいたい。


ーーやっぱりこれは、夢なんじゃないかな?


私の吐瀉物がかかった、服の袖を見つめるハイライトの消えた脳内彼氏の瞳に、夢でありますように、とここに来てから1番強く思った。



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