ファーストキス
「やっちゃったことは、なかったことにはならないんだよ。それでも?」
「それでも──」
「マコはまったく、頑固だね。きっと、ファーストキスなんだよね? せめて、礼とした方が、まだマシなんじゃない?」
「こんなこと、おまえ以外に、頼めるわけないだろう」
「嫌じゃないの?」
「嫌だから、つべこべ言うのか?」
「俺は────できるよ。マコがしろって言うならするし。マコが忘れてくれって言うなら、忘れてあげるよ」
腕を掴まれたまま、江野の肩に手を置く。
とたん、意を決したように、江野がまぶたを伏せた。
閉じたまぶたも、くちびるも、緊張しているのがわかる。
かわいそうなほどに。
「べつに、痛くないよ。そんな、覚悟を決められると、傷つくなぁ」
ふっ、と少しだけ、江野のくちびるから緊張が解けた。
ぎりぎりまで目を開けて顔を寄せ、それから、きつく、目を閉じる。
心臓が、胸を突き破りそうだった。
肩に置いた手が、震える。
礼にしたときはどこにあるかもわからなかった心臓が、痛くて、痛くて、仕方ない。
それでも──
マコと、キス……する。
どうってことはない、と自分に言い聞かせ、赤間はくちびるをそっと寄せた。
やわらかな感触に胸が震えないうちに離れようとして、両頬に、触れたものを知覚する。
指、だ。
マコの、手──
いっしゅんでは意味がない、とでもいうように。
何という、頑迷さと、残酷さなのだろう。
赤間にとって、キスなど、単なる記号でしかない、とおもっているにちがいない。
礼とのキスは、まさに、記号に過ぎなかった。
したからといって、赤間の中の、何が変わるわけでもない、ただの挨拶ていど。
でも、江野とは、ちがう。
ちがうのだ、江野だけは。
それを、痛いほどに、思い知る。
胸が、震えた。
好き、だ────
ぬくもりに、泣きたくなる。
キスとは、こんなにも、心がふるえるものだったのだ。
それでも、きっと、そんなおもいを感じているのは、自分だけなのだろう。
江野が味わっているのは、べつのものにちがいない。
男とキスをしたって死ぬわけではない、という実感だとか。
吐き気がする、なんて自分はおもわなかった、とかいう事実以外、江野は求めてはいないのだ。
そんなことのために、赤間にキスをさせる。
残酷な、人間だ。
つゆほども、自分を愛してなどいないくせに。
愛してない、どころではない。
好きですら、ないのだ。
好きでも何でもないから、キスをしろなどと、平気で言えるのだ。
マコは、ひどい。
舌でわざとくちびるを舐めれば、驚いたように顔を押しやられてしまう。
赤間は、ほほえんだ。
「なんだ。やりたいのは、子どものキスだけ?」
「──こっ、子どもで、悪かったな!」
くちびるを手の甲で拭いながら、江野が頬を赤くする。
かわいい反応だった。
どんな反応だろうと、それは赤間が引き出した、赤間に対する反応に、ちがいなかった。
「これで、良かったの?」
「ああ。……嫌なこと頼んで、悪かったな」
「べつに嫌じゃないよ。マコとなら、いつでも歓迎」
にっこり笑えば、たちまち江野は嫌な顔をする。
「おまえは、ほんとに、変なやつだな」
「そう?」
「本気で、男でも、女でも、構いやしないっておもってるのか?」
「うん。心がひとつずつある、おなじ人間だよ。ただ、少しだけ、ありようがちがうだけ。それだけのことじゃない?」
「──俺は、まだ、そこまでは割り切れない」
「それでいいよ。それがマコのありようなんだから。それでも、礼を受け入れてあげたかったんだろ? マコは、骨の髄までやさしさでできてるよね」
「俺が、やさしい?」
「やさしいよ。不器用だけど、偽善のない、心のいちばん深いとこから出てくるのが、マコのやさしさだよ。いつかそれが、心も姿もうつくしい女のひとに、ちゃんと伝わるといいね」
江野は、信じられないものでも見るように、赤間を見返した。
そして、そのことばに対する返事は、ついぞ返ることはなかった。




