じぃじのキモチ(中編)
前回、『長いので前後編に分けます』と書きましたが、まだ長かったので、前・中・後編の3つに分けました。
「あのね、あたしたち、喧嘩らしい喧嘩って、一度もしたことないんですよ」
一応家出をしてきたことになっているのに、里菜さんはいつのまにか、なぜか自分たちの仲の良さを自慢している。
「ほう、いいことじゃないか」
「ええ、まあ。だって、喧嘩する理由なんて、そんなにないですもん。他の、結婚してる人たちの話を聞いてるとね、あたし、なんでみんなそんなにしょっちゅう喧嘩するんだろうって、いつもびっくりしちゃうんです。何をそんなに喧嘩することがるのか、ほんとに不思議。
でもね、うちの場合は、喧嘩にならない最大の理由は竜がたいていのことじゃ怒らなかったり、ちょっと怒りそうになっても私が微妙な顔になってるのに気づくと慌てて自分から折れてくれちゃうからだけど、あたしも、ちょっと言いたいことがあっても雰囲気が険悪になるのが嫌で我慢しちゃうっていうか、言えないで貯めちゃうほうだからっていうのもあるんですよね……。
だって、竜は仕事で大変なのに、家に帰ってきてまであたしが機嫌悪そうにして気を使わせたりしたら可哀想じゃないですか。竜に、よけいな気持ちの負担をかけたくないし、それに、せっかく二人で楽しく過ごせるはずの時間をくだらない喧嘩でだいなしにしたら自分も損だし。せっかく好きな人と一緒に住んでるんだから、なるべくいつも仲良く楽しく過ごしたいでしょう? じゃなきゃ、もったいないでしょう?
だから、ちょっとくらい気に入らないことがあっても、いちいち言わないの。実際、たいていは、いちいち文句言うほどのことじゃないし。
そうやって、ちょっとずつ我慢しあうことで、いつもだいたい和やかなんだけど……。
だから、普段、ちょっとした不満があってもあまり口にださないようにしてて、実際、どれもたいしたことじゃないからわざわざ喧嘩するほどのことでもなくて、でも、やっぱり、ささいなことの積み重ねが心の中にたまってることって、あるんですね……」
ああ、やっぱり、そこに話が戻って来るのか。それがこの二人の問題点なのだな。
この二人、互いに惚れた弱みで、相手の機嫌を損ねるのが怖くて、遠慮しあっているのではないか? 夫婦生活に於いて互いの譲歩は大切だし、思い遣りあうのは良いことだが、言いたいことを言わずに胸の内に溜めすぎるのは良くないだろう。
……あのな、どうやらたまには喧嘩くらいしたほうがいいらしいぞ。俺たちも、一度も喧嘩をしたことがない夫婦だった。その結果が、このざまだ。
本人に言えないのなら、せめて誰か第三者に愚痴でも言ったほうがいいだろう。とりあえず、今は、明らかに俺に聞いて欲しがっているから、今度こそ聞き出してやろう。誰かに言うだけ言えば、それで気がすんで、楽になったりするものだ。
「それはいかんなあ。たとえば、どんな不満があるのかね?」
水を向けると、里菜さんは、しばし躊躇い、恥ずかしそうに目を伏せた。
「あのね、どれもささいなことばかりなんですけど。他人からみればバカバカしいでしょうけど……。呆れないでくださいね?」
「大丈夫だよ、言ってみなさい」
俺は極力穏やかに促してみた。俺は武骨な人間だが、女性の不安や不満を聞くことについては、仕事柄、長年の経験を積んでいる。
里菜さんは、意を決したように顔を上げた。
「えっと、たとえば肉じゃがの作り方とか」
「……は? 肉じゃが?」
「はい。肉じゃが。竜とあたしで味つけや作り方が違うのはしょうがないの。別の家で育ったんだから。だから、あたしは別に、竜がどんな作り方したって構いません。あたしが具合が悪い時とか廉の寝かしつけで手が離せない時とか、作ってくれるだけでありがたいし。
ただ、竜がどんな作り方するかは自由だけど、あたしにはあたしの作り方があるんだから、それを横から、そんなやりかたじゃだめだとか非効率だとか頭ごなしに言わないで、あたしが作るときは放っといて欲しいわけなんです! 好きにさせて欲しいわけなんです!」
「……竜は、里菜さんの肉じゃがに文句をつけるのか?」
「肉じゃがにっていうか、肉じゃがの作り方に、ですね。できたものの味に文句を言われたことはありませんよ。たまにちょっとくらい失敗して味が薄かったり濃かったりしても、竜、何も言わないもの。たぶんぜんぜん気にしてないんですよ。ていうか、きっと気づいてないですよ。食べ物の味なんて、わりとどうでもいいらしいです。だから、味じゃなくて、作り方が自分と違うのが気に入らないらしいの。自分がこれが合理的だと思ってる通りの作り方をね、あたしもしないと嫌なみたい。
たとえばね、あたしは、肉もタマネギも炒めないんですけど、竜は、最初に肉を炒めて、色が変わったら玉ねぎを入れて、ジャガイモが新ジャガの時はジャガイモも炒めて、それから水入れて煮るの。まあ、そっちのほうがどっちかっていうと一般的な作り方だっていうのは、あたしも知ってますよ。家庭科の授業でも、そう習ったし。でも、あたしは、炒めてない、あっさりしたのが好きなの! だいたい、うちでは母もずっと昔から炒めてなくて、ずっと何も問題なかったんだから!
それからね、タマネギの切り方も違うんです。竜はタマネギを繊維と直角に薄切りにするんですけど、あたしはくし形切りにします。竜は、この切り方には合理的な理由があって、繊維と直角に切ったほうがタマネギが肉やジャガイモに良く絡むんだからこうすべきだって言うんですけど、あたしは別に、絡んでなくてもいいの! 肉じゃがの作り方くらい別に完全無欠に合理的でなくてもいいから、そんなの好きにさせてよって言いたいです! 結局、どうやって作ったって、味なんかたいして違わないんだから! でしょ!?」
……なんというか。俺は黙った。何を言っていいか分からないが、それ以前に、口をはさむ隙もない。
口をはさむ隙がないので、つい、途中から頭の半分で別のことを考えていた。……そういえば雪子は、肉じゃがのタマネギをどんなふうに切っていただろうか。記憶にない。
いや、そもそも雪子は肉じゃがを作ったことがあっただろうか? それすら記憶にない。ずいぶん昔のことだからというのもあるが、俺はそもそも、テーブルに並んでいる料理に、たいして注意を払ったこともなかったような気がする。俺には特に食い物の好き嫌いもなく、雪子が作って並べるものを何でも気にもとめずに食べていたから、何を作ってくれたか、憶えてもいないのだ。いや、そもそも、料理は食卓につけば自然と出てくるもので、雪子がその料理を作っているのだということすら、あたりまえのこととして特に気に留めてもいなかった気がする。もしかすると、当時の俺は、雪子の指の一振りで食卓の上に突然料理が現れていても、何も気づかず食べていたのじゃないだろうか。さぞ食べさせがいのない、張り合いのない夫だったことだろう。ましてや料理の作り方について雪子と話をしたことなど、一度もない。
それに比べれば、一緒に台所に立ち、タマネギの切り方について揉めているというこの二人は、ずいぶんとコミュニケーションの多い、親密な夫婦で、良いことだと思うが。
……が、いくら愛し合っていても元は赤の他人同士が台所を共有すれば、それはそれでぶつかることもあるだろう。新婚夫婦にとって、細かい生活習慣の違いというのは、しばしばかなりの大問題であるらしい。
俺の物思いをよそに、里菜さんは一人でヒートアップしている。
「あと、あとね、海苔ご飯を食べる時の、お醤油の付け方! あたし、海苔の、お醤油を付けた方を下にしてご飯にかぶせて、それをお箸で巻くみたいにして食べてたんだけど、竜は、お醤油は必ず海苔の外側につけなきゃ駄目だって言うんです。なんでかっていうと、そのほうがご飯に海苔がよくくっついて巻きやすいし、お醤油が直接舌に触れるから少量のお醤油でも味を強く感じられて、減塩になるからって。そりゃあ、言われてみればそうかもしれないけど、あたしは今まで長年ずっと別の食べ方してて、もうクセになってるんだから、一度言われたって、また忘れていつもの食べ方しちゃうじゃないですか。そしたら、そのたびに目ざとくみつかって、毎回毎回、注意されるの! 絶対見逃してくれないの! 口うるさすぎますよね! で、そう言ったら、自分の言う事にはちゃんと理由があるんだって言うけど、そんなの、どっちだっていいじゃない!」
……たしかに、どうでもいいな。
あまりのばかばかしさにめまいがした。
「しかも、竜、海苔の裏表まで煩く言うんですよ。裏と表で表面の滑らかさが違うから、ごはんとのくっつき易さが違うんだって。あたし今まで、海苔に裏表があるなんて気にしたこともなかった……。海苔なんて裏でも表でも大差ないですよね? だって、どうせお腹に入っちゃったら、どっちだって一緒じゃないですか! ねえ?」
……竜はそんなことを言うのか。我が息子の意外な一面を知った気がする。
思わず呟いた。
「……細かい男だな。男の風上にもおけん」
と、里菜さんが突然反撃に転じた。
「そんなことないです! 今どき男だから細かくちゃいけないなんてことないです! そんなの、男とか女とか、関係ないでしょう!?」
……しまった。今のはうっかり性差別発言だったか。近頃はいろいろと面倒だ。しかし、なぜ俺が里菜さんに怒られるハメに……?
「竜はね、何をやるにも緻密で正確な人なんです! いいかげんなことはしないんです! 何をするにも理由があるんです! 口煩いこと言うのにも、毎回ちゃんと、それなりのわけが……。たとえば海苔のことは、あたしが海苔ごはんをより美味しく食べられるようにと考えてくれてのことなんです! あたしのためを思って、毎回注意してくれるんですよ!」
そうかそうか……。文句を言いたいのか庇いたいのか、どっちだ。
まあ、いい。俺が悪役になって里菜さんの不満の矛先が竜から逸れるなら、それもよかろう。親として、それくらいの役には立ってやろう。
「……で、今回の喧嘩の原因は、その、肉じゃがだの海苔のことなのかね?」
「ううん、違います。ていうか、別に喧嘩したわけでもないんだけど……」
「じゃあ、どうしたんだね」
「もともとは、ちょっとした、言葉の行き違いなんです。すごくばかばかしいんですけど。ほんとにばかばかしいから、笑わないでくださいね? 絶対ですよ? ね? ね?」
「分かった、分かった、笑わないから言ってみなさい」
……今までの話も十分ばかばかしかったと思うが、さらにばかばかしいのか……。いったいどれほどのばかばかしさだ?
「……あのね、ゆうべ、竜と一緒にテレビ見てたら、連休で行楽地が大賑わいってニュースやってて、とっても混んでる遊園地が映ったんです。で、あたしが『混んでる~』って言ったら、竜がぱっと振り向いて、あたしを信じられないって顔でまじまじ見て、『なにっ!? このデブ!?』って。
聞き間違いしたみたいなんですけど、もし竜が太ってたとしても、まさかあたしが突然脈絡もなくそんなこと言うわけないじゃないですか! しかも、竜、別に太ってないし。だから『聞き間違いよ~』って笑って、テレビに映ってた遊園地のことだって説明したら、『そうか、驚いた』って気まずそうにするから、冗談で『もしかして最近太ったんじゃないかとか気にしてた?』って言ってみたら、うっかり図星だったみたいで。ほんとに気にしてたらしいんです。
でも、竜、ほんとに別にぜんぜん太ってなんかいないんですよ? だから冗談でああ言ったのに。ほんとに気にしてそうだったら、あんなこと言わないもん。でも、竜は、自分がちょっと太ったかなと思ってたらしいんです。すごいムっとした顔されて。
『冗談よ、竜はぜんぜん太ってなんかいないじゃない!』って言ったら、『いや、少し腹に肉がついた気がする。最近忙しくて運動不足なせいだ。少し腹筋でもする』って宣言して、突然、その場で、すごい勢いで腹筋始めるんですよ!? ヘンでしょ!? すっとんきょうでしょ!? あたし、ぽかーんとしちゃって。あたしが座ってテレビ見てる隣で、そんな、バタバタされても迷惑なんだけど。
で、『そんなに慌てて運動しなくても、竜は別にちっとも太ってないよ。それに、もし竜がこれから少しくらい太っても、あたし太ってる人、わりと好きだから大丈夫』って言ったら、ぱたっと動きが止まって、すごい目でギロっとあたしを見たんです! びっくりした! 睨んだんですよ!? 超~怖い顔で! なぜ? あたし何も悪いこと言ってないですよね!?
で、『……太ってるのが好きなのか?』って、急にすごくよそよそしい声で。
答えに困って、『えっ……まあ、わりとね。でも別に太ってなきゃ嫌ってわけでもなくて、太ってるのも別に嫌いじゃないってだけだから。だから、竜は太ってなくても好きだけど、でも、もしちょっとくらい太ってもあたしはぜんぜん気にしないよ?』って言ってみたら、『俺は気にする』って言って、ますますすごい勢いで腹筋再開して、そのあと腕立て伏せとかスクワットもはじめて、いつまでもやってて、話しかけても返事してくれないの。返事どころか、こっちを見もしないの。無視ですよ、無視! なに、それ。ワケ分かんない!」
……たしかに『ワケ分かんない』な。というか、俺には里菜さんの話そのものが良く分からん。
「あたし、ほんとに、もしちょっとくらい太ったって痩せたって関係なく、竜が好きなのに。なんで分かってくれないのかしら。お義父さんだって、自分の好きな人が、ほんのちょっと太ったり痩せたからって、嫌いになったりします? しませんよね? 好きかどうかに脂肪の量なんか関係ないでしょ? もし太ったとか痩せたとか、そんな理由で嫌いになるなら、その人が好きだったんじゃなくて、単に、その人の痩せた体やお腹の贅肉が好きだっただけってことじゃないですか! そんなの好かれたって、ぜんぜん嬉しくないですよね~!
しかもね、もしあたしが、太ってる人は嫌いだとか、竜が太ったら嫌だって言ったんなら、いきなり腹筋始めるのも、まだ分かりますよ。あたしだって、竜が髪の毛長いのが好きって言えば、じゃあ伸ばしてみようかなあって思うし、ショートが好みって分かれば切ってみようかなあって思うだろうし。
でも、そうじゃないんですよ? あたし、太ってるのが嫌いじゃなくて、もし竜が太っても好きだし、それどころか、むしろ太ってる人はわりと好きって言ったのに、なのに突然ムキになって腹筋ですよ? あたしが『太ってる人が好き』って言ったら、竜がもしあたしのこと好きだったら、じゃあ自分も太ってますます好かれようと思う方がむしろ自然なくらいじゃないですか? その逆ってことは、あたしに好かれるのが嫌ってこと? それって、あたしが、竜に長い髪が好きだって言われたとたんに髪の毛バッサリ切り落とすみたいなものでしょ? それって嫌がらせ? 超~イミフでしょ!?」
……ああ、なるほど。チョォ~イミフというのが何語かは分からんが、だんだん話が見えてきた。
いや、その、『太ってる人が好き』が、マズかったんだろう。
俺にはその時の竜の心の動きが手に取るように見える気がするんだが。
ひとつには、里菜さんの『もし太っても好きだ』というフォローが裏目に出て、やっぱり自分は里菜さんに太ったと思われているのだと思い込んだのだろう。あれにはそういう、いじけた、ひがんだところがあるからな。
そして、もうひとつ。俺に対する嫉妬と対抗心だ。
そう思うと、竜のおとなげの無さがおかしくなって、つい、にやりとしてしまった。
そうか、里菜さんには分かっていないんだな。
あなたが『太った人が好き』と言ったとき、竜の頭に浮かんだのは俺の顔だよ、たぶん。
竜の頭の中では、俺はどうやら、里菜さんを巡っての仮想ライバルなのだ。
もちろん、俺と里菜さんが実際にどうかなるなどとは竜も思ってもみないだろうが、ただ、里菜さんに、自分が俺より劣っていると思われたくないという対抗意識があるんだろう。自分のほうが俺より優っているということを、里菜さんに誇示したいのだ。
そして、やつが俺に優っている点は、肉体的な若さと、それに由来する腕力、体力だけだ。
自分で言うのもなんだが、俺には金もあるし、社会的地位や名声もある。だが、竜には何もない。金もなければ、学歴も大学中退だ。俺が持ってなくてやつが持っているものは、俺より若い肉体だけなのだ。だからたぶん、やつはそこにプライドを賭けているのだ。なにしろ、やつには、それしか俺に対抗できるものがないんだから。
そこへもってきて、その点について他ならぬ里菜さんにケチをつけられたと思ったら、それはムキにもなるだろう。
……そのへんの心の動きが、俺には非常に良く分かる気がするのだが、里菜さんには全く意味不明な行動にしか見えなかったらしい。まあ、たしかに非論理的だし、理不尽ではあるが……。男のプライドとはかくもばかばかしいものなのだ。分かってやってくれ。
そんなことなど何も分かっていない里菜さんは、一生懸命、見当違いな熱弁をふるっている。
「だいたい、ほんのちょっと、ほ~んのちょっとくらいお腹に贅肉ついてたって、別にいいじゃないですか、ねえ? だからどうってこともないんだから。そりゃあ、健康に悪いほど太り過ぎはどうかと思うけど、ちょっとくらいのお腹の脂肪はイザという時のための備蓄ですよ! もし急に食糧危機が来た時には、その脂肪を消費して生き延びるんですよ! そのための皮下脂肪です! だから、ちょっとくらい貯めといたほうがいいんです!! 世の中、何があるか分からないじゃないですか。この平和な飽食の時代が、いつまでも続くとは限らないんですよ!? 突然の氷河期再来とか宇宙人の襲来とかで人類が滅びそうになった時、生き残るのはきっと太ってる人ですよ! デブが人類を救うかもしれないんですよ!?」
……いや、そうそう都合よくはいかないんじゃないだろうか……。特に、宇宙人と腹の肉は、全く関係ないだろう。どうやって腹の肉で宇宙人を撃退するんだ?
……と思いつつ、思わず自分の突き出た腹を見下ろした。
分かってはいたが、あらためて見ると、ずいぶん腹が出たものだ。これでも学生時代は柔道でならしたものなのだが、多忙からくる不摂生と寄る年波には勝てず、このざまだ。俺も少々なんとかしたほうがいいと、つねづね思ってはいたのだが、多忙を言い訳に、見て見ぬふりをし続けてきた。医者の不養生とはこのことだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
今の問題は、里菜さんと竜の夫婦仲だ。
「里菜さん、それは焼き餅を焼いているんだよ。相手はたぶん、私だ」
笑いながら教えてやると、里菜さんはぽかんとした。
「……お義父さん? なんでお義父さん?」
「あのな、里菜さんが『太っている人』と言ったとき、竜はたぶん、私を思い浮かべたんだ。ほら、この腹だからな」
俺は自分の腹を指さしてみせた。……いや、だが、この腹は本気でなんとかせねばならん。まあ、そのうちに、な。
里菜さんは俺の腹をつくづくしみじみと眺めながら、まだ腑に落ちない顔をしている。
「えっ、だって、お義父さんなのに? 他の男の人とかだったらまだ分かるけど、よりによってお義父さん相手に焼き餅焼く必要なんか、なくないですか?」
「いや、たしかにないんだが……。竜は、勝手に私と張り合ってるつもりなんだ。たぶんな。それに、必要のあるなしの問題じゃないんだよ。そんなことは関係ないんだ。それが悋気持ちというものなんだ」
「はぁ……」
里菜さんは、分かったような分からないような返事をした。たぶん、分かっていないのだろう。
分からなくていいんだ。それが分からないということは、里菜さんは悋気持ちではないということだろう。悋気持ちの気持ちは、悋気持ちでないものには分かるまい。
里菜さんが悋気持ちでないのは、幸いなことだ。竜にとっても、里菜さんにとっても。
悋気などというのは、無益なものだ。過ぎた悋気は、相手を困らせるだけではなく、自分自身をも苦しめる。己が身を焼く悋気の炎など、知らずにすむのなら、そのほうが幸せだ。
だが、竜はたぶん悋気持ちだぞ。里菜さん、気をつけろ。悋気持ちは理不尽だからな。
……認めざるをえないが、竜の悋気持ちは、俺に似たのだろうな。
俺は長年自分で気づかず過ごしていたが、実はひどい悋気持ちであったらしい。
それに気づいたのは、相手が去っていった後だった。そこに居もしない人の過去の過ちに悋気を起こしても、ぶつける対象もないのだから、ますます苦しいばかりだ。一生苦しむのかと思っていたが、さすがに年を取ったのか、最近ではそんな気持ちも多少は薄れてきた気もするが。さすがに二十何年も苦しみ続ければ、もう十分ということだろう。自分の愚かさの罪も、おおかたは償い終えたということか。
里菜さんは、分からないなりに納得したらしい。
「そっかあ……。なんだ、焼き餅なんだ……」
一人でうんうんと頷いて、うっすらと微笑んでいる。
なんだ、満足気じゃないか。これで一件落着か?
どうやら、肉じゃがだの海苔だののことは、本当はどうでもいいのだな。別に、具体的に大きな不満があるわけではないのだ。
ただ、里菜さんは、何かちょっと面白くないことがあっても自分がそれを竜に言えないという、そのこと自体が、ほんの少しだけ不満なのだ。『言いたいこと』自体は、どうでもいいようなささやかなことばかりなのだろう。それでも、それを相手に言えないでいること自体、自分が我慢していると考えること自体が、そこはかとなくストレスである、というわけだ。
だが、里菜さんが竜に不満を伝えられない理由は、疲れて帰ってくる竜に精神的な負担をかけたくないという、竜に対する思いやりであり、竜となるべく和やかな団欒の時間をともに過ごししたいという、罪のない、素朴であどけない願いなのだ。
要するに里菜さんは、竜をあまりにも大事に思いすぎているために、竜をほんの少しでも傷つけたり疲れさせたりしたくないし、竜があまりにも好きすぎて、竜の機嫌を少しでも損ねるのが怖いのだ。可愛いじゃないか。いじらしいじゃないか。夫思いの、良い妻じゃないか。こんな気立ての良い娘さんにこんなに想われて、竜は幸せものだな。
あいつは、その幸せに、ちゃんと気づいているのか?
……気づいてはいるのだろうな。ただ、その気持を、ちゃんと里菜さんに伝えることができているのかは、甚だ怪しい。そこが問題だ。だが、まあ、それについては、俺も人のことは言えないな。
それでも、二人がうまくいくために、俺に何かできるなら、親として、できるだけのことはしてやりたいものだ。こんなふうに愚痴だか惚気だか分からんような話につきあって、それで里菜さんの気が晴れるなら、お安い御用だ。
……と思ったら、しばらく満足に浸っていた里菜さんが、はたと何かに気づいた顔で口を開いた。
「あ、でも……」
まだ言いたいことが残っているらしい。ああ、そうだ、この際、ついでに全部言っておけ。せっかくの機会だ。
「でもね、焼き餅は分かったけど、焼き餅焼いたからって、なんでそこで腹筋始めるわけですか? それってやっぱりヘンじゃないですか? 脈絡がなさすぎません? 斜め上すぎて、しあさってのほうに行っちゃってません? 今回の件だけじゃないんですよ。竜って、ときどき、ていうかしょっちゅう、何考えてるか分からないんです」
俺は返事に困った。確かに、焼き餅から腹筋運動という流れは、普通に考えれば支離滅裂だ。
「ああ、まあ、夫婦といえども別人だからなあ」
「そりゃあそうだけど、竜のは、ちょっと、そういうレベルじゃないんです! だって、竜って、変人じゃないですか?」
……否定はできなかった。里菜さんもやっぱりそう思っていたのか。思わず苦笑した。
里菜さんは構わず続ける。
「まあ、そこも含めて好きになったんですけど、でも、やっぱり時々、ついていけないなって思うの。だって、あまりにも意味不明なんですもん。
あのね、竜がどんなふうに変かっていうと、たとえば、3と2っていう数字を見せて、これを計算して答えを出してくださいって言ったら、普通はきっと3+2で5とか、3×2で6とか、ちょっと変わった人でも3-2で1とか言うでしょ? もっと変わった人でも、せいぜい、3÷2で1.5とか2-3でマイナス1っていう程度でしょ? それが竜の場合は、無言で延々と長考した後、いきなり174585.591とか、何かワケの分からない数字を言う感じ?
竜の中ではね、それって、何度も足したり引いたり掛けたり割ったり、あと、ルートとか二乗とかシータとかパイとか、なんかいろいろな公式とか使って、ちゃんと計算して出した数字なのかもしれないけど、それを説明してくれないから、傍目にはなんでその数字になるのかさっぱり理解できないし、算定式が分からないから、次にどんな条件でどんな答えを出すかの予測もできないんです。インプットとアウトプットに関連性が見られないんです。思考の途中経過がブラックボックスなんです! そんな感じで、物事に対する反応が、ときどき突拍子も無くて、ついていけないときがあるの……」
俺には里菜さんの今の説明も十分突拍子もなくてついていけなく思えるんだが。まあ、言いたいことはだいたい分かった……と思う。確かに竜には、そういう、唐突な、素っ頓狂なところがある。しかし、この二人、やっぱり似たもの夫婦なんじゃないだろうか。主に、『ちょっと変』という点で……。
などと言うわけにもいかないから、とりあえず適当に請け合った。
「……まあ、場数を踏めば、そのうち予測がつくようになるさ」
「え~、そうでしょうか……。ねえ、お義父さん、竜って、昔っから、そうでした?」
また一瞬、言葉に詰まった。たしかにそんなところもあったかもしれんが、俺は、昔、竜がまだ家にいた頃も、そこまで竜のことをちゃんと見ていなかったような気がする。なにしろ、もしかするとまともに会話さえしていなかったかもしれない。
一人親である自分は息子の竜のことを誰よりも知っていると思い込んでいたが、良く考えてみたら、たぶん俺は、竜のことを、ろくに知りもしなかったのだ。それなのに、誰よりも知っていると、すべて理解していると、勝手に思い込んでいたから、息子が何を考えているか知るための努力をする必要があるとすら、思っていなかった。
俺は、俺とは違う一人の人間としての竜をではなく、自分の思い込みの中の自分の息子像だけを見ていたのかも知れない。
……が、しかし。それでも、竜が俺から見ても多少唐突な性格であったことは、やはり否定できまい。
「さあなあ……。そういえばそんなところもあったかもしれんなあ……」
「やっぱり? ねえ、竜って、子供の頃、どんな子でした? 竜の子供の頃の話とか聞きたいなあ。竜、ほとんど何も話してくれないんです。聞いても教えてくれないの。ていうか、何聞いても『ああ』とか『いや……』とか『さあ』とか『忘れた』とかしか返事してくれないから、いつまでたっても話が先に進まないの。だからあたし、あたしと出会う前の竜のことって、未だにほとんど知らないんですよ。それって、ちょっと寂しくないですか? ……あ、ちょっと待って。ケータイ鳴ってる!」
里菜さんはバッグからがさごそと携帯を取り出しながら、部屋の反対の隅に立って行った。
たぶん、竜なのだろう。
何しろこういう事情だから何を話しているか気になるが、本人がわざわざ離れたところに行って通話している以上、聞き耳を立てるわけにもいかないだろう。
ごく短いやりとりのあと、里菜さんはにこにこ笑いながら戻ってきた。
「やっぱり竜でした。さっきメール送っといたから。もうこっちに向かってるって。今日の出先はここに近いから、すぐ着くと思います」
「そうか。怒ってなかったか?」
「あはは~、竜は怒りませんよ~。あたしが何したって、一度も怒られたことないもん!」
……そうか、そうか。家出してきたのか惚気にきたのか、どっちだ。
里菜さんは、心なしかうきうきしている。もうすぐ竜に会えるのが嬉しくてたまらないという風だ。
「ごめんなさい、迎えに来たらその足ですぐ帰るそうだから、ちょっと荷物片付けちゃいますね~」
そう言うと、いそいそと、廉が取り散らかした後を片付け、テーブルを拭き、慣れた様子で大荷物をまとめはじめる。電話でどんなやりとりがあったのか知らないが、迎えにきた竜の機嫌を心配しているそぶりもない。のんきなものだ。これが家出してきた人間か?
「お義父さん、今日は本当にありがとうございました。あのね、ほんとは、家出は半分くらい口実で、お義父さんに廉を見せに来たかったんです。だって、五月の初節句以来、会ってないでしょう? お義父さんは忙しくて、そんなにしょっちゅううちに来られないし、竜にはずっと、今度実家に連れてってよって頼んでるんだけど、竜も忙しいし、なんだかんだ言って、なかなか連れてきてくれないし……。赤ちゃんは毎日どんどん大きくなるのに、これじゃ、お義父さんが見ないあいだに、廉が大きくなっちゃう! 廉がじぃじの顔、忘れちゃう! だから、廉をじぃじに会わせてあげたかったんです。今の廉は、今しかいないんだもの。赤ちゃんの廉は、今しか見られないんですよ?」
そうかそうか、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。可愛い嫁だ。良い嫁だ。ありがたいことだ。実際、赤ん坊の成長は早いからな。数ヶ月も見ないと、あっというまに育ってしまう。
「だから、お義父さん、今度また、うちのほうにも遊びにきてくださいね。で、その時には、絶対、竜が小さいころの話を聞かせてくださいね。どんなイタズラして怒られたとか、どんな失敗したとか。そしたら、あたし、竜をからかえるから!」
……そうか、からかうのか。それは、竜が話したがらないはずだ。もし里菜さんに思い出話をする機会があっても、アレと、アレと、アレだけは、竜のために黙っておいてやろう。武士の情けだ。
(後編に続く)