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じぃじのキモチ(前編)

 休日の朝、息子の嫁である里菜さんから、突然電話があった。これから孫の廉を廉れて遊びに行ってもいいかという。

 特に用事も無かったので、もちろん歓迎だと答えた。

 しかし、こんなふうにいきなり連絡してくるとは、いったいどういう風の吹き回しだろう。

 息子一家とは、特に疎遠なわけではないが、距離的に少々離れていることもあり、日常的に行き来しているわけでもない。特に、向こうからこちらに訪ねてきたことは、結婚前の挨拶時も含めても何度もない。当日の電話一本で突然訪ねてくるような、気安い間柄ではないのだ。

 それに、そういえば、そもそも里菜さんと廉だけで来るのだろうか。竜は今日は仕事があるんじゃないか?

 可愛い盛りの孫に会いたくないわけはないが、どうも良く分からない。


 まあ、いい。どうせ他に用事も無い。昼食はすませてくるそうだが、廉や里菜さんが好きそうな菓子でも用意しておこう。そういえば、もらいもののクッキーがあったじゃないか。俺は食わないから置きっぱなしになっていたが、数日前にもらったばかりだ。そうだ、廉が退屈して騒ぐといけないから、押入れの奥から竜が子供の頃の玩具でも探して出しておいてやるか。



 数時間後、小さな身体の前には抱っこ紐で廉をくくりつけ、背中にはきっと紙おむつでも入っているのだろう大きなリュックサックを背負い、両手には手土産らしき近所の洋菓子店の紙袋と小さなバッグをそれぞれ下げた里菜さんが、はにかんだ笑顔で戸口に現れた。

 いつ見ても可愛らしいお嬢さんだ。いや、既に子供もいる息子の嫁なんだから『お嬢さん』というのもおかしいかもしれないが、小柄で童顔のこの人は、婚約の挨拶に初めて我が家を訪れた時の『清楚な良いお嬢さん』という印象のまま雰囲気が少しも変わらないので、他の表現が、どうにも出てこないのだ。

 しかし、里菜さんは相変わらずだが、廉は、ほんのしばらく見ない間にずいぶん大きくなった。小柄な里菜さんには重いだろう。早く招き入れて、荷物をおろさせてやろう。

 そう思って俺が口を開くより先に、里菜さんがぴょこんと頭を下げて挨拶した。

「こんにちは、お義父さん、お久しぶりですぅ! 今日はちょっと家出してきましたー!」


 元気よく、にこにこと。

 ……だが、今、なんと言った?



 なんだか良く分からないままに、とりあえず家に招き入れ、里菜さんがリュックを降ろす間、廉を預けられて抱いていた。

 おお、おお、重くなった。覚えているか、じぃじだぞ。

 廉は不思議そうに俺をじっと見ている。おお、おお、賢そうな眼だ。考え深そうな子だ。


 廉をあやしている間に、里菜さんが、俺に許可を求めながらテーブルに子供用チェアを取り付け、他にもなにやら大量の幼児用品一式を手際よくずらりと並べて、廉の居場所をセットした。なるほど、あれだけのものが入っていれば、リュックがでかいわけだ。しかし、あの折りたたみ式の携帯チェアは便利だな。昨今の育児用品の日進月歩ぶりには目を見張るものがある。


 里菜さんの手土産は、シュークリームだった。そう、あの駅前のケーキ屋は昔からシュークリームが名物で、そういえば昔から、家に来る客が、よく手土産に買ってきたものだった。竜が小さい頃は、口の回りをクリームだらけにして喜んで食ったものだ。

 今でもその店は同じ場所にあって、同じシュークリームを売っているわけだが、そういえばもう、長年食っていない。今では家に客が来ること自体が滅多にないし、そもそも、昔、来客がみな菓子を買ってきたのは、うちに子供がいるのを知っていたからだったのだろう。

 当時、俺はそのシュークリームが特に好きだったわけでもないのだが、久しぶりに食うシュークリームの、あの頃と変わらぬ優しい甘みは懐かしい。いや、それよりも、幼児が口の周りをクリームだらけにしてシュークリームを食う様が、懐かしい。里菜さんが廉の口に小さくちぎったシュークリームの皮を入れてやったり、口元についたクリームを指先でぬぐってやっている、甘やかな光景も。

 そう、昔、この居間で、同じような光景を幾度も見たのだ。そして、それから長いこと、この家から、こうした光景は失われていたのだ……。


 ガラにもなくふと感傷的になりかけて、過去にさまよいだしていた自分の心を現実に引き戻す。

 ところで、なごやかな空気にすっかり忘れそうになっていたが、里菜さんは、さっき、何やら変なことを言っていたんじゃなかったか?


 が、どうやら俺の聞き違いだったようだ。里菜さんには特に変わった様子はない。廉がシュークリームを食い終わると隣の和室に連れて行って襖の陰で紙オムツを替え、それが済むと俺が押入れから出して並べておいた玩具で遊ばせ、一緒に眺めている俺に廉の成長具合を得々と説明する。いたってのどかで平和な状況で、何から何まで幸せそうで、何の問題も無さそうだ。

 しかし廉は、元気の良い子だな。機嫌も良い。里菜さんが自慢気なのも無理はない。人見知りもしないようだ。俺のいない時にも里菜さんが練習させていたのだろうか、俺のことをじぃじ、じぃじと呼んで、しきりと寄り付いてくる。ぺたぺたと触ってくるもみじのような小さな手の、なんと愛らしいことか。

 しばらく機嫌よく遊んでいるうちに、眠くなったらしい。様子を察した里菜さんが抱き上げると、あっという間に寝入ってしまった。寝付きも良いのだな。寝付きの良い子を持ったお母さんは幸運だ。赤ん坊が寝付きが良いのは、何よりの親孝行だ。


 廉のあどけない寝顔や、廉を座布団の上に寝かしつける里菜さんの愛情に満ちたまなざしや優しい手つきを見守っていると、俺も温かいものに包まれているような心地になる。俺の人生に再びこのような家庭的な幸せが訪れることなど、もう諦めかけていたのに。妻に去られ、息子に叛かれ、残ったのは、仕事と、がらんと冷え切った、一人住まいには広すぎるこの家だけだった。このまま一人で年を取っていくのかと思っていたのだが、今さらのように訪れたこの穏やかで温かな時間を、しみじみとありがたく噛み締める。

 これも、竜が、このように気立ての良い娘さんを娶ってくれたおかげなのだ。この里菜さんが、どういうわけか竜などに惚れてくれたおかげなのだ。里菜さんが、かたくなになっていた竜の気持ちを――そしてたぶん俺の気持ちもほぐし、二人の間を再び取り持ってくれたのだ。いくら感謝してもしたりない。

 こんな良い嫁さんを持って、竜は幸せだ。二人には、いつまでも仲睦まじく幸せでいてもらいたいものだ。


 ちょうどそう思ったところで、居間のテーブルに戻った里菜さんが口を開いた。


「お義父さん、今日は突然ですみませんでした」

「ああ、いや、いいんだよ、どうせ用事は無かったから。だが、廉と二人だけで突然来るなんて、いったいどういう風の吹き回しだね? 竜は、今日、どうした?」


 向かいの椅子に座りながら、探りを入れてみる。最初の妙な発言は聞き間違いだろうとは思ったが、本当にそうだったのか、念のため確認しておきたかったのだ。


「竜は、今日、仕事です。東京に来てるはずですよ。……あの、あたし、さっきもちょっと言ったけど、今日、家出してきたんです。どうも、大変ご迷惑をおかけします。あ、でも、心配しないでくださいね。家出っていっても、ただの、ほんのちょっとしたプチ家出ですから!」


 プ、プチ……。では、あれは聞き間違いではなかったのか。なんということだ。

 しかし、それにしては、ずいぶんとのんきな様子をしているが……。『プチ』だからか? 『プチ』だからなのか? 普通の家出と、どう違うのだ?


「家出? なんでまた……?」

「だって、家出するなら今のうちですもん。廉がもう少し大きくなったら、私、たぶんパートで働きに出るつもりなんですけど、そしたらもう、家出なんてできないでしょう?」

「……よく分からんが、そういうものなのか?」

「はい。だって、自分や子供が急病だったら仕方ないけど、そうじゃない時に、急に仕事休むわけにいかないですもん。子供が小さいうちはどうしたって子供の病気で急に休ませてもらうことが多くなるじゃないですか。それはしょうがないことなんだけど、特に主婦が多い職場ではお互いさまでカバーしあうことになるわけだけど、でも、だからこそ、せめてそれ以外の時はなるべく休まないようにしないと申し訳ないもの」

「なるほど。里菜さんは真面目だな」

「いえ、そんな。だって、人が少ない職場だと、急に休むと他の人に大迷惑かかるんですよ? 近所の人がパートしてたパン屋さんでね、旦那さんと喧嘩して家を飛び出して、そのまま無断欠勤しちゃった人がいたんですって。シフトの時間になっても来ないから家に電話しても出なくて、携帯にかけてみても繋がらなくて、ぎりぎりの人数で回してる小さい店だからすっごい困って、しかたなく、その日に休み取ってた別のパートさんに電話して急遽入ってもらったんだけど、その人も本当は歯医者さんに行くために休み取って、予約入れてたんですよ。なのに、しかたなく、苦労してやっと取れた歯医者の予約をキャンセルして、出てきてくれたんですって。で、その休んじゃった人、みんなで何か事故でもあったんじゃないかってすごい心配してたら夕方になってやっと連絡がついて、実家にいるって分かったんですって。それで理由が、夫婦喧嘩。大迷惑でしょう?」

「ああ、まあ、そうだな」

「ねえ。まあ、やむを得ない事情があったらしょうがないですよ? たとえば、身の危険を感じるようなひどいDV受けてるとかだったら、職場のことなんか気にしてるどころじゃなく、何を置いても自分の身柄の安全確保を第一に、緊急避難しなくちゃいけないですもんね。でも、そういうわけじゃなくて、ちょっとした口喧嘩くらいで職場に迷惑をかけたり親や回りの人に心配かけるなんて、あたし的には、絶対あり得ないです! でも、だからって、旦那と喧嘩なんていつするか分からないのに、この日は家出するからって予め休み取っとくっていうのもヘンでしょう?」

「……ああ、ヘンだな」


 ……しかし、今の話は、就職したら家出ができない理由の説明にはなっているかもしれないが、なぜ家出する必要があるかの説明には、なっていないような気がするんだが。

 が、里菜さんの中ではちゃんと筋道が通っているらしく、里菜さんは引き続き、腕を振り回さんばかりの勢いで力説する。


「でしょ!? だってそんなの、予知能力がなきゃ無理ですよねえ! あたし、超能力者じゃないですから! でも、じゃあ喧嘩は仕事が休みの前日の夜にしようとか、そういうわけにもいかないでしょう?」

「ああ、まあ、たしかに……」


 俺は苦笑した。真面目な顔して『超能力』か……。

 里菜さんは、竜はすごく変わっているが自分は普通だと信じているらしいが、俺には里菜さんもけっこう変わっているように見えるぞ。しかも、もしや、実は竜とタイプが似ているのではないか? 竜も、我が息子ながらどこかズレているところがあるような気が常々していたが、里菜さんの、この大真面目なピンボケぶりは、竜と非常に近い気がするんだが……。

 この二人、実は、傍から見たら、見かけは正反対だが中身は案外似たもの夫婦なのではないか?

 真面目で責任感が強く誠実だが、なんというか、すっとんきょうというか、とんちんかんというか、ありていにいって、ちょっと変だ。すごく変というわけではなく、ここが明らかに変だと明確に指摘できるような箇所があるわけでもないが、やっぱり、どことなくズレている。

 俺は竜が里菜さんを連れてきた時、こんな可愛らしい良いお嬢さんが、いったいあの愛想のかけらもないボンクラ朴念仁なぞのどこを気に入ってくれたのだろうと非常に不思議だったのだが、今、謎の一端が解けたような気がする。何のことはない、見た目によらぬ似たもの同士なのだな。


 そんなことを思われているとも知らず、里菜さんは、俺の相槌に我が意を得たりとばかりに元気よく主張する。


「ねっ? だから、仕事始めたら、もう家出なんかできないんです! してみるなら今のうちなんです!」


 いや、だからそれは、なぜ家出をする必要があるかの説明には、全くなっていないと思うんだが……。


 まともな返事が返ってくるかは甚だ心もとないが、話が噛み合わないからと言って放置していい事柄とは思えないので、一応、追求してみることにする。


「してみるって……家出とはそんな理由でするものか?」

「そ、そんなことないけど……。でも、みんなが夫婦喧嘩して友達の家にプチ家出したとか実家に帰ったとか言う話をしてて、それで旦那さんが血相変えて実家に迎えに来てくれたって話を聞いたら、何か、あたしも一度くらい家出してみたいような気がしてきて。ヘンですよね? 分かってるんですけど……」


 それまで明るくしゃべっていた里菜さんが、ちょっと下を向いた。


「……あたし、割と、いろいろ我慢しちゃうほうなんです」

「ああ、それはいかんなあ」

「……ですか?」

「ああ。いかんな」


 そう、それはいかん。夫婦間での小さな不平不満は、心のなかに貯めておいてはいけないのだ。積もり積もって、いつか夫婦の深刻な危機を招いてしまうのだ。場合によっては、とりかえしのつかない事態を……。

 ここは俺が話を聞き出してやったほうがいいのか?


 ……と、思った時にはもう、里菜さんの話は違う方に飛んでいた。

 今うつむきかけたことなど忘れたように、廉が食い散らかしたテーブルをせっせと片付けながら、元気よく喋り始める。初対面の時、里菜さんは、ずいぶん内気そうな、言っては悪いがどちらかというと少々暗そうな、おどおどした印象だったのだが、どうやら単に人見知りをするだけで、懐けばけっこうよく喋るし、性格も案外明るいようなのだ。


「あのね、近所の奥さんで、ちょっと旦那と喧嘩するとすぐ、旦那のいない間に黙って実家に帰っちゃう人がいるんです。実家も近所だから。で、そのたびに旦那が、どうせ実家にいるって分かってるから迎えに来て謝って、連れて帰るらしいんです。

 でも、それってズルくないですか? 旦那が一方的に悪いんだったらしょうがないかもしれないけど、もし奥さんのほうが悪かったり、それか、喧嘩ってたいていそうだけどふたりとも悪かったりしても、そういう状況になったら、旦那が一方的に謝るしかないじゃないですか。だいたいその人、言っちゃ悪いけど、すごい我儘なの。喧嘩の原因を聞いても、私には旦那さんじゃなくてその人が悪い気がするんだけど。

 あ、でも、私、その人、好きなんですよ。我儘は我儘だけど、いい人なんです。明るくて裏表がなくて面倒見がよくて。それでも、毎度毎度の夫婦喧嘩や家出の話を聞くと、旦那さんはよく毎度毎度根気よくそれに付き合うなって思うわ。旦那さん、おとなしそうな人なんだけど。

 でもね、そんな二人なのに、喧嘩してない時は、仲いいんです。実家から連れ戻してもらった次の日に、ラブラブで手つないで一緒にゴミ出しに出て来たりとか。

 その人とかを見てるとね、時々、思うんです。あんなふうに思ったことをなんでもズケズケ言って、それでも周りのみんなに愛されてて、旦那さんとだって、ちょっとでも何か気に入らないと怒鳴り散らして家出して、大騒ぎして戻ってきて、それで幸せなのって、なんかちょっと羨ましいなあ……って。世の中、結局は我儘言った者勝ちみたいなところ、ありますしね」

「ああ、あるなあ……」


 しかし、俺には里菜さんも、見かけによらずけっこうはっきりとものを言う女性のように思えるが、もしかすると竜には言えないのだろうか。惚れた弱みか?

 それに、まあ、本人は確実にそんなつもりはないと言うだろうが、傍で見ていると、竜もけっこう高圧的なところがあるからな。たぶん竜のほうにも多少問題があるのだろう。そのうち説教してやらにゃいかん。


「それに、あんなにしょっちゅう大喧嘩して、毎回家出されて連れ戻しに行くなんて、旦那さん、よっぽど奥さんのこと愛してるんだろうなあって思って。……でね、つい、思っちゃったんです。あたしが家出したら、竜、迎えに来てくれるかなあ、って。もちろん絶対迎えに来てくれるって百パーセント信じてるけど、あたしも一回くらい、本当にそうしてもらってみたいなあ、してもらってもいいんじゃないかなあって。

 そんな理由で家出するなんて、すごいバカみたいで我儘だっていうのは、分かってるんです。そんな理由で竜に迷惑かけるなんて、ほんとは考えられない! でもね、あたし、今まで一度も、竜にあの奥さんみたいな我儘言って困らせたことはないんですよ。一回くらい、我儘言ってみてもいいでしょう? ……なんて、つい、うっかりね、そう思っちゃったんです。お義父さんには迷惑かけてごめんなさい」


 里菜さんは小さく頭を下げた。


 いやいや、こんな気立ての良い、出来た嫁である里菜さんに何やら不満を抱かせ、家出までさせるなんて、息子の不始末じゃないか。謝るべきは里菜さんではなく、むしろ俺のほうだろう。俺が、息子の不出来を詫びるべきだろう。竜のやつ、何をやらかしたんだ。本当にしょうもない……。

 が、俺がここで竜を貶せば、里菜さんはきっと竜を庇うだろう。まったく、あいつには過ぎた嫁だ。


「いや、迷惑だなんてことは全くないよ。久しぶりに孫の顔が見られて、私としてはかえって有り難いくらいだ。しかし、竜が心配しているんじゃないかね? 行き先は伝えてあるのか?」


 口に出してしまってから、自分でも間抜けな事を言ったと気がついた。家出をするのに行き先を言っていく馬鹿があるものか。

 が、里菜さんは、俺の言葉に全く違和感を抱かなかったようだ。また元気を取り戻して、得意気に言う。


「大丈夫、ちゃんと時間を見計らってケータイにメール入れときます! まだ早いから、もうちょっとしたら。なんでかっていうと、竜、今はまだ仕事中で、もしメール見てもすぐ帰れないんだから、仕事終わるまでずっと身動き取れずに内心やきもきしてるなんてことになったら可哀想だし、気になって上の空になって、お仕事に差し支えちゃうかもしれないでしょ? だから、仕事が終わる頃にメールしますから。それから帰りがけにここに寄ってもらえば、そんなに時間も取らせないし。ちゃんと、竜の予定を確認して、そういう日を選んだんです。竜は日によって行き先違うでしょう? だから今日はなに線に乗るかも調べて、あんまり遠回りにならない日にしたの。毎日仕事で忙しい竜に、いったん家まで戻ってからここまで迎えに来てもらうなんて、悪いでしょ? 竜、明日も朝イチから仕事入ってるんだから、寝るのが遅くなっちゃいけないですもん。明日のお仕事に差し障っちゃう。で、竜は仕事が終わる時間も日によって違うんだけど、今日はちょうど早上がりなの。だから、ここに寄ってから帰っても、今日なら大丈夫。夕ご飯もね、ちゃんと作ってきたんです。帰ったらすぐ食べられるように。ご飯はタイマー炊飯にしてあるし、おかずは作って冷蔵庫に入れてあるから、チンするだけですぐ食べられるんですよ」


 ……いや、いろいろと計画的で準備が良いのは結構だが、やはりそれは、家出とは言わないんじゃないだろうか。

 夕飯は、なんなら竜も一緒に、ここで店屋物てんやものでも取って食っていってもらってもいいんだが、もう作ってあるならしかたがない。これは、夕飯時にこの家にいることで俺に飯の心配をかけないようにとの配慮でもあるのだろうな。うちで食事をしていってもらっても、全く迷惑でなどないのだが。むしろ嬉しいのだが。が、里菜さんには、まだそこまで甘えてもらえてはいないようだ。


「そうか、それならいいが。しかし、なんでまた、うちなんだね。……自分の実家じゃなく」


 これは、尋ねていいものかどうか、ちょっと躊躇した。里菜さんのご実家は和やかなご家庭に見えたが、他人にはうかがい知れない事情があるのかもしれないではないか。そこに踏み込んでいいものか。

 しかし里菜さんは他人ではない。息子の嫁である。俺にとって、義理の娘である。その親族に何か事情があるというのなら、俺にも無関係ではないだろう。場合によっては、何か力になれることもあるかもしれん。

 が、そんな心配は、杞憂だったようだ。


「だって、実家に帰ったりしたら親が心配するじゃないですか。もしかして竜と上手く行ってないんじゃないか、とか……。ぜんぜんそんなことないのに。別にそんなたいしたことでもないのに、親に余計な心配かけたくなかったんです。旦那と喧嘩するとすぐ実家に帰る人が多いけど、そうやって親に心配かけるなんて、あたしには信じらんない!

 ……あたし、高校生の頃、いろいろあって、ちょっとバカやっちゃって、親にすごい心配をかけたことがあるんです。それもあって、この年になっていまさら心配かけたくないって思うんです。

 あ、お義父さんには心配かけていいってわけじゃないんですよ! でも、お義父さんなら、ちゃんと説明すれば、無駄な心配せずに分かってくれるだろうと思って」


 そうか、そんなふうに信頼してもらえているのはありがたいが、しかし、この里菜さんが、どんなバカをやったというのだろう。ずっと健やかに清らかに育ってきたようにしか見えないが、やはり十代の頃には人並みに反抗したり、非行の真似事をしてみたりしたのだろうか。今の里菜さんからは想像もつかないが。

 だが、十代の頃には、たいていの子供は親に心配をかけているだろう。それが普通だ。十代の頃に親を心配させないような子供のほうが、かえって心配だ。反抗期などというものは、ちゃんと十代のうちに済ませたほうがいいのだ。水痘だのおたふくだのと同じで、子供のうちにやれば軽く済むが大人になってから罹ると重症になりやすい。竜がそのいい例だ。


 ……そういえば竜は、十代の頃、母親がいないという点以外では俺にいっさい心配をかけさせない息子だった。その分、二十歳をすぎて突然爆発したわけだが。

 他人の子供のことなら、思春期の息子が反抗もせず父親の言いなりであるのは不自然だろうと思うが、思えば、当時の俺は、自分の息子がそうであることには、何も疑問を持たなかった。そうあって当然だと思っていた。

 俺は、良い親であるつもりだったが――俺の教育が正しいから竜もグレたり反抗したりせず、俺に従順に育っているのだと思っていたが――、もしかするとあれは、単に、頭ごなしに抑えつけすぎて反抗もできないだけだったのではないか?

 今にして思えば、どうやら俺は、息子に人並みに反抗することさえ許してやれなかったような、高圧的な親であったらしい。母親がいない分、俺が一人で二人分の親の役割を不足なく果たさねばという気負いと使命感が裏目に出たのかもしれない。今更ながらに、反省しきりである。

 が、結果的には、竜は、まあ、少なくとも真っ当な人間に育ってくれた。それでよしとしよう。


 そう、俺はちょっと前まで、竜に叛かれたと思い、やつが進路を変えたのを自分に対する造反と感じ、自分のそれまでの親としての努力、子を思うが故の尽力をすべて無にされたと憤っていたが――当初はそれこそ怒り狂って、かっとなった勢いで絶縁を言い渡したりもしたが――、今思えば、あれは単に、竜の自立の始まりであり、どこの家にもある正常な親離れ子離れの過程だったのだ。その程度のことを広い心で受け止められないようでは、俺もまだまだ、親として、人として未熟だったということだ。息子が自分の敷いた――しかも本人の意向も確かめずに勝手に敷いた――レールの上から外れたからと言って逆上して勘当するなど、客観的に見れば、とんだバカ親父だ。思えば俺も愚かなことをした。

 その俺達が、今、それなりにつながりを取り戻すことができたのは、この里菜さんのおかげなのだ。


おまけ小話ですが、少し長いので前後編に分けて投稿します。

それでも長いですね(^_^;) ごめんなさい。

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