親父と竜兄ちゃん(後編)
「まあ、飲め。杯を受けてくれるか?」
父が一升瓶を取り上げて傾けてみせるので、空いたグラスを差し出した。
「ああ」
酒ならさっきも注いでもらったが、これは儀式なのだと思った。強権的な父と抑圧された息子という古い不幸な関係からの訣別の儀式であり、対等な大人同士としての再会の儀式なのだと。
だから俺も、注がれた酒に口をつけて、父に返杯した。
「親父も」
言ってしまってから気づいたが、父を『親父』と呼ぶのは初めてだった。心の中ではたまに呼んでいた気がするが、本人の前で声に出したことは無いはずだ。
父のことを、子供の頃は、なんの疑問もなく『お父さん』と言っていた。それが、ある頃から、父に対して呼びかけることがなくなり、どうしても呼ぶ必要があるときは、なるべく『あなた』とか、もっと険悪な状況の時は『あんた』とだけ言うようになった。
最近ではさすがに面と向かって『あんた』などと言った覚えも無いのだが、そういえば俺は、最近、父を何と呼んでいたのだろう。なるべく呼ばないという基本は同じだったが、どうしても必要がある時は、多少のぎこちなさを堪えて『父さん』だったか? 記憶にない。
自分に対する呼び方が変わったことに、父は気づいたのか気づかなかったのか、特に何も言わなかった。
ただ黙って、俺の注いだ酒を飲んだ。
特に酒が好きなわけでもないと思うが、それはそれはうまそうに、目を閉じて口に含んで味わっていた。
これが、世間一般の多くの父子が重視するらしい、『親父と酒を飲む、息子と酒を飲む』というイベントか。
案外悪くない。
父も同じことを思っていたらしい。ぽつりと言った。
「なあ、竜。俺だって、お前が子供の頃には、息子が二十歳になったら一緒に酒を飲もうと、人並みに楽しみにしていたんだ。だが結局、機会が無いままだったからな。今、お前と酒が飲めて嬉しい」
「ああ。……俺も」
確かに、俺が二十歳の頃は、俺たちは全くそんな雰囲気ではなかった。思えば、俺の反抗期は他人より少々遅かったのかもしれない。
こんなふうに父と穏やかに酒を酌み交わせる日が来るとは、あの頃には、想像もできなかった。
里菜は、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら差し向かいで酒を飲む俺たちをにこにこと眺めて、「やっぱり似てるね~」などと、楽しそうだ。
そうだとも、似てるのは、嫌と言うほど知っている。何しろ俺は、この男に顔が似ているというだけの理由で、実の母に「一度も可愛いと思ったことがない」などと、さんざんののしられたのだから。とんだとばっちりだ。
実家で里菜に俺の昔のアルバムを見せた時、必然的に若い頃の父の写真も見るはめになった。今の俺に、嫌というほどそっくりだった。まあ、似ているのは仕方がない。遺伝なんだから。俺もあと三十年ほどしたら、今度は、今現在の父とほぼ同じ顔になるんだろう。それも仕方がない。とりあえず、頭があまりおかしな形に禿げずに済むらしいのは助かる。体型は個人の努力で保てるが、どんな禿げ方をするかは遺伝であって、自分ではどうしようもないから。
それに、里菜は、約三十年後の俺の予想図そのものである父の風貌が、ずいぶんと好みであるようだ。いつぞや、目をハート型にして力説していた。何しろ俺と同じ顔だから、別に特に顔が良いわけではないはずだが、全体的に堂々として風采が良いというのだ。面白くないような、ありがたいような、複雑な気分だ。
そのうち、父が言い出した。
「ところで、竜、今さらだが……、大学の学費、返さなくてもいいぞ」
俺は大学を中退して家を出た際、その時点までの大学の学費は将来働いて父に返済すると啖呵を切ってきた。口先だけではなく、実際に、今はまだ無理でもいつかはそうしたいと思っていて、結婚の際にも、あらためて父にそれを伝えてある。
「いや、遅れていて申し訳ないが、そのうち必ず返す。もう少し――いや、かなり先かもしれないが、待ってほしい」
「いらん。あそこまでは、親の責任だ。俺がお前を医大に入れたかったから入らせたんだから。そもそも、思えば俺は、一度もお前に、医者になる気はあるかとか医大に行きたいかと、きちんと聞いたことがなかった。あたりまえだと思っていたからな。その点は、まずいことをした、お前にも済まないことをしたと反省している。だから、お前の大学の学費は、俺の都合で俺が勝手に出した金だ。お前に、返す謂われはない」
「いや、俺の都合で途中で急に進路を変えて、それまでの学費を無駄にしたんだから、無駄に使わせた分は返す」
「だからあれは、俺がお前の進路希望を事前に確認しないというミスを犯したせいで発生した損失だ。いわば俺の判断ミスによる投資の失敗だ。そんなのは俺の自己責任で、お前には関係ない」
……関係ないわけがあるか。
「いや、俺の学費で、俺の進路だ。そもそも、もし親父が事前に医大に行きたいかと尋ねてくれていても、俺は、行きたくないとは言わなかったかもしれない。自分でも、ずっと刷り込まれてきた通り、自分は医大を目指すものだと思い込んでいて、他の進路など考えてみたこともなかったから。その後、いろいろ考えるようになって、気が変わったんだ。だから、進路の途中変更によるロスの責任は俺にある」
「何を言ってるんだ。お前に医学部に行けと言ったのは俺だし、お前の学費と言ったって、俺が自分の判断で出した俺の金だぞ」
父の眉間に、皺が寄った。
出た、親父の縦皺! 子供の頃から嫌と言うほど見慣れたこの縦皺の、位置だの本数だのは昔と同じだが、深さは大分深くなったようだ。
「だいたい、返すとは言うが、これが返せる状態か? 今後、返せる状態になるあてはあるのか? ないだろう。お前がそんなつまらない意地を張るせいで里菜さんに貧乏暮しをさせるつもりか? 子供もいるというのに……」
そこに、里菜がのんきそうに口を挟んだ。
「お義父さん、大丈夫ですよ~。いっぺんには無理でも、月賦でちょっとずつなら、きっと……。廉がもう少し大きくなったら、あたしもまた働くし」
それを聞いた父は、ますます眉間の皺を深めた。
「お前は里菜さんにそんな苦労をかける気か?」
「えーっ、お義父さん、いまどき共働きなんて普通ですよォ?」
里菜がまたのんきな口調で口を挟んだが、父には聞こえなかったらしい。あるいは聞こえないふりで無視したのか。あくまでも俺に向かって言いつのる。
「こんなか細い、か弱い里菜さんを働かせなきゃ暮らしを立てられないなんて、妻一人養ってゆけないなんて、お前、男として恥ずかしくないのか?」
「そんなあ、か弱いって、別に力仕事しようってわけじゃないですから」
里菜は笑いながら言うが、父は無反応だ。……これはやっぱり、わざと聞こえないふりで、里菜の言葉を、里菜の存在を無視している。
ああ、そうだった。うっかり忘れかけていたが、この人はこういう人だった。
この男は、こういう事柄について、自分の人生が話題になっていてさえ、女になど発言させる必要はないと思っているのだ。そんな風だから、妻に逃げられたりするのだ。その失敗を教訓にしてか、里菜にはやたらと下手に出て、もの分かり良さそうなふりで甘い顔ばかり見せているから、里菜はただただ温厚で寛大な優しい義父だと思ってやたら懐いて、お義父さんお義父さんと甘え声を出しているが、里菜も早く気づけ。こいつは、本来、こういう男なのだ。何かにつけて、女に意見を言わせる必要などないと思っているのだ。女だけじゃなく、子供の意見も聞く必要がないと思っているのだ。この人にとって、女・子供は、人間の内に入っていないのだ。世間では温厚な人格者だと思われているこの男の、これが本性だ!
やっぱりこの人は、今も昔も変わらない。全く、変わっていない!
「お前が好き好んで貧乏暮しをしたいなら別に止めないが、里菜さんに苦労をかけるのは許さん。お前がどうしても意地を張って俺に月々学費を返済するというのなら、俺はその分の金を、月々、小遣いとして里菜さんにやるぞ!」
俺はむっとして、思わずがたんと椅子を蹴って立ち上がった。
「なんだと!? 里菜があんたから小遣いを貰う謂われはない!」
父は動ぜず、グラスに口をつけたまま上目づかいに俺を睨みかえした。
「自分の意地のために里菜さんにいらん苦労をかけようとするお前が悪い。小遣いがダメなら迷惑料だ。自分の息子が不出来なせいで人さまに迷惑をかけているなら、親が責任をとって補償すべきだろう」
ぎろりと俺を睨みあげる父。父は老いたと思ったが――もはや昔の父ではないと思ったが、老いたりといえども、その眼光に衰えはない。……むう。相手にとって不足なし! やるか、親父!?
……これが漫画だったら、今、中空でぶつかった俺と父の視線の真ん中に火花が散っているのが見えることだろう。
その視線のぶつかり合いを、里菜の、なんとも脱力を誘う間延び声が遮った。
「もう、竜ってばぁ、今日はおめでたい日なんだから、そんなことで喧嘩なんかしないで? ね? せっかく仲直りしたんでしょ?」
あまりにものんきな口調に、なんだか毒気が抜けて、俺はどすんと座りなおした。
里菜がにこにこ笑って言う。
「それに、お義父さんもね、奥さんを働かせるのは恥ずかしいとかって、頭古いですよ~?」
父が、うっと絶句した。
確かに、俺もいいかげんいろいろと古い自覚はあるが、父は確実にもう一世代古い。
だが、俺のこの父に、ほんわか口調でずばりとそんなことを言ってのけるとは……。
父も口を開けかけたまま石化していたが、俺も愕然とした。……里菜、恐るべし。
父は一瞬の石化から復活して、苦笑いした。
「ははは、そうか……。そうだな。いや、里菜さんが働きたいんだとか働くのが苦にならないというのなら、別に、働いたっていいんだ。そういう時代だしな。でも、その場合、家事は全部、この竜にやらせろ。これは器用だし、一人暮らしが長かったから何でも出来るだろう。こき使ってやれ」
なんだと。家事を分担することに異存はないが、我が家の家事分担をあんたが勝手に決めるな。
里菜がまた、のんきに笑う。
「いやだあ、お義父さん、全部だなんて……。半分こですよ~。ねえ、竜?」
「えっ? あ、ああ……」
……そうか、半分こなのか。まあ、当然だな。それもいいだろう。俺は確かに父の言うとおり一人暮らしが長かったから一通りのことは自分でできるし――というか、言っては悪いが、実は大抵のことは里菜よりうまくできると思う――、自分で言うのもなんだがマメな性分だし、別に、家事は苦にしない。
が、実を言うと、できれば里菜には、外に働きになど出ず、家にいて欲しいのが本音だ。こんな可愛い里菜を、長時間家の外に出しておくなんて、その間、俺が里菜の姿を見られず、里菜を独り占めできないなんて、もったいないじゃないか! 里菜は、二十四時間、全部、俺だけのものなのだ。ものすごく大切だから、大事に家の中にしまっておきたいのだ!
……いや。というか、俺は里菜に、ゆくゆくは俺の事業に協力してほしいのだ。
俺は将来ここで家庭犬訓練所を開くつもりで、その際、里菜にも運営に協力して欲しいと思っている。里菜は簿記の資格を持っているし、経理の他にも、受付でも犬舎の掃除でも、やることはいくらでもある。俺一人だけでは、とても無理だろう。
さらに、ゆくゆくは里菜にもトリマーなりなんなりの資格を取ってもらって、一緒に働きたいのだ。二人で力を合わせて、ここで事業をやってゆきたいのだ。俺が勝手にそう望んでいるだけでなく、それは里菜の望みでもあって、トリマーの資格云々も里菜が自分から言い出したことで、すでにいろいろと資料を取り寄せたりして下調べをはじめているらしい。
この、二人の夢が実現したら、俺たちは、ずっと二人一緒に、この場所で働けるのだ。ミュシカとも、ずっと一緒に過ごせるのだ。忙しくはあるだろうが、外で働くよりは、子供と過ごせる時間も長いのではないか。
その前に、開業資金を貯めるために、一時的に里菜にも外で働いてもらわなければならない期間もあるかもしれない。しばらくの間、俺と里菜は別々の場所で働くかもしれない。でもそれは、二人で一つの夢に向かう過程だ。俺たちは、二人で一つの目的のために力を合わせて頑張るのだ。二人で話し合って、そう決めたのだ。訓練所が軌道に乗れば、いつか父に金を返せる日も来るだろう。
もちろんそれは、順調にいったとしてもだいぶ先になるだろうから、その日まで、父には元気で長生きしていてもらわないといけない。そうでないと、困る。俺が、親に返すべき金を返さない親不孝者になってしまうじゃないか。そうならないためには、父には、まだ当分、あと数十年は長生きしてもらわないといけないのだ。幸い父は、俺と同じで身体はすこぶる頑丈そうだし、あの調子では、あの眼光が衰える日など、来て欲しくても当分来そうにもない。
それにしても、父の変わり身の早さよ。俺には妻を働かせるのは恥ずかしいことだなどと言っておいて、里菜に頭が古いと言われたとたん、家事は全部俺にやらせろときた。
そんなに里菜の機嫌を取りたいか?
父は、いくらなんでも里菜を猫可愛がりしすぎではないか?
廉はしょうがない、孫なんだから。でも、里菜は俺の妻だぞ。
里菜が義父である俺の父を敬愛し、父も里菜を可愛がってくれているのはよいこと、ありがたいことではあるが、でも、今だって、甲斐甲斐しく追加の料理を運ぶ里菜の一挙手一投足を可愛くて仕方がないという風に目を細めて見ている、その目尻が、下がりすぎだろう。鼻の下も伸びてないか?
確かに、里菜がちょこまかとキッチンとテーブルの間を行ったり来たりする姿は、無心に餌を運ぶ小動物のようで、なんとも愛らしく、見ていて心がなごむのだ。つい笑顔になってしまうのは、親父といえども仕方ない。
が、里菜の可愛らしさを愛でる権利は、まず第一に俺にあるのだ。それを親父が、あまりたくさん見すぎるな。俺が一番多く見るのだ。いや、誰がいくら見たって別に減るものじゃないが、でも、この可愛さは全部俺のものなのだから、あまりたくさんは分けてやりたくない。少ししか見せてやらない。
俺は立ち上がると、キッチンから戻ってくる里菜と父の間を背中で遮るように立ちふさがった。
「里菜……」
「なぁに?」
きょとんと俺を見上げた里菜を抱きよせると、身を屈めて額にキスをした。
里菜はぽかんと固まっている。それは驚くだろう。唐突だったし、俺は普段、こういうことは、まず絶対にしないから――寝室の中以外では。
だからこそ、今、あえてそれをしたのだ。
これみよがしに里菜の肩を抱いたまま、父の方を勝ち誇った横目で見てやった。
こんな言い方がよろしくないのは重々分かっている。分かってはいるが、今だけ、心の中でだけ、あえて言わせてもらおう。俺の女だ。
俺の行動と目つきだけで、父には俺の考えていることが分かったのだと思う。父は顔だけでなく性格も俺にそっくりなのだから――と言うか俺のほうが父にそっくりなのか。
父も俺と同じであまり表情の変わらない人だが、眉をほんのちょっと上げて、ニヤリと笑った。面白がっているような、少し苦いものが混じったような笑みだった。
蚊帳の外の里菜は訳が分からず、真っ赤になってあわあわしている。驚かせて済まなかった。まさか俺が、よりにもよって人前でそんなことをするとは思わなかっただろう。実際、俺は、基本的に、人前でそういうことはしない主義だ。こういうことは、欧米などでは単なる挨拶かもしれないが、日本では、他人の見ている前ですることではないと思っているから。
だが、親父は『他人』じゃないからいいんだ!
……『親父と竜兄ちゃん』終……




