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決壊記念日 ~聞かせてよ愛の言葉を~

新婚生活編、第四弾。

一年目の結婚記念日のお話です。

 一年目の結婚記念日を前にして、妻の里菜に、プレゼントは何がいいか訊ねてみた。

 いくら気が利かない俺とて、今までの里菜との付き合いの中で、さすがに、こういうときにはプレゼントをするものだということを学んだのである。

 もっとも、里菜は、別に、たいした物は欲しがらないのだ。

 プレゼントそのものが欲しいのではなく、ただ、俺が里菜に何かプレゼントをしようと思っているという、その姿勢を見せて欲しいのであるらしい。

 なんと可愛らしい、いじらしい心根だろうか。

 里菜のそんないじらしい気持ちを、俺は決して裏切るまいと、強く思う。


 というわけで、訊ねてみたところ、里菜は、何もいらないと言った。

 「そのかわり、ひとつ、お願いがあるの」と。

 どんな願いか訊こうとしたが、当日に話すと言われた。

 何か、当日でなければ出来ないことなのだろうか。

 もしも家のどこかを修理しろだの風呂掃除だの肩叩きだのという願いなら、別に結婚記念日でなくとも、気軽に頼んでくれれば、いつでもやるのだが……。

 そう言うと、里菜は、ちょっと困ったように笑いながら、

「そういうのじゃないの。でも、準備も何も要らなくて、その場ですぐ出来る簡単なことだから、心配しないで」と言う。

 その場ですぐ出来る簡単なことなら、なおのこと、今頼んでしまって、結婚記念日にはあらためて別のプレゼントを請求すれば良いと思うが、いったいどんな頼みなのだろう。

 なんとなく気にかかったのは、『簡単なことだ』と言いながら、里菜に、妙に構えているところが見えるような気がしたからだ。

 それを言うのにとても勇気を振り絞って緊張しているのだが、そう見えないように気をつけて、気楽さを装おうとしている……といった風な。

 よほど重大だったり、難しかったり、深刻だったりする頼み事なのだろうか。


 が、まあ、里菜が俺を困らせるような要求をするわけはないのだ。

 里菜はとても控えめで、その要求はいつも、そんな遠慮をさせてしまっているということが申し訳なくなるくらい、あまりにもささやかだ。今まで、誕生日だろうと何だろうと、俺に高価なものをねだったり、無体な要求をしたことは一度もない。たまにはもっと我儘を言って欲しいくらいだ。いや、金銭面で我儘を言えないのは、家計を共にしている以上どうしようもないのだろうが、それ以外のことでは、俺の度量を信じて、多少の我儘を言ってくれればいいと思うのだ。

 俺は、里菜に安心してちょっとした我儘を言わせてやれるような、信頼される夫でありたいと思う。里菜の望みをすべて叶えてやれるとは言えないが、それでも、里菜に、要望を口に出すことまで遠慮させたくはない。

 だが、そのためには、まだまだ、日々の行いの積み重ねが必要なのだろう。夫婦の信頼関係は、一朝一夕で完成するものではないのだ。俺は、まだまだ、夫であることの初心者だ。


 そして迎えた、結婚記念日当日。

 里菜がいそいそと、ささやかな祝いの食卓を整え、自分はいらないといったくせに、俺にはプレゼントをくれた。

 プレゼントといっても不要な贅沢品ではなく、どっちみちこれから買い足す必要があった夏物の服であるところが、堅実な里菜らしい。

 俺も、いらないといわれても、なにかちょっとしたものを用意するべきだった。そういうところが、俺の、気の利かないところだ。『いらない』という言葉を額面どおりに受け取りすぎた。いや、里菜も、内心は欲しいものを欲しくないといったわけではなく、本当に品物はいらなかったのだろうが、だからといって本当に何も用意しないというのは、少々芸が無さすぎた。

 ちょっと後悔したが、それを言うと、里菜は慌てて手をぱたぱた振った。

「いいの、いいの。だって、あたしが自分で『いらない』って言ったんだから。でね……」


 そこで、里菜が微妙に緊張したのが分かった。

 俺は何かと鈍感な男だが、人の表情の僅かな変化や、身体の筋肉のささいな緊張や弛緩の気配など、ボディランゲージを読みとることには長けていると思う。ずっと、人間よりも、物言わぬ犬たちとばかり親しんできたからか、それとも自分自身が口下手で、言葉よりも態度で気持ちを示す傾向があるからか、言葉よりも、身体で表現される感情のほうが理解しやすいのだ。


「このまえ言ったけど、そのかわり、ひとつ、お願いがあるの……」


 そこまで言って、里菜はまだ躊躇っている。よほど口に出し辛いことなのだろうか。

 小首を傾げて俺を見上げながら躊躇う風情も、どこか頼りなげで、守り励ましてあげたくなるような可愛らしさがあるのだが、俺は里菜に、俺に要望を伝えるにあたっては、そんなふうに躊躇って欲しくない。どんな要望でも、俺は別にそれを伝えられただけで怒ったりはしないはずだから、安心して伝えて欲しい。

 里菜が話を切り出しやすいよう、俺は努めて穏やかに頷いた。

「ああ、何でも遠慮なく言ってくれ」


 里菜は、やっと意を決したように顔を上げた。

「……あのね、ずっと、ずっと、言いたいけど言えなかった事があるの。ずっと、竜におねだりしてみたくて、でも恥ずかしいし、口に出すのが怖くて……。だって、もしすごく勇気を出してお願いして、それで竜に拒まれたら、あたし、立ち直れないかもしれないから。……今日だって、せっかく楽しい幸せな結婚記念日なのに、このままならとりあえず楽しく幸せにこの日を終われるのに、あたしがへんなこと頼んだばかりに、その楽しい空気が壊れて、ちょっとだけ悲しい思い出になっちゃったりしたら嫌だなあ……とか」


 悲しい想像をしてか、せっかく顔を上げたのに、また徐々に俯いて、声も小さくなってゆく里菜。

 なんだ、なんだ、何が言いたいんだ!? まだ願いを言いもしないうちから、もう拒まれることを想像して、勝手に悲しそうな顔になったりしないでくれ! そんなに深刻な話なのか?

 里菜は俺に、ずっと何を言いたかったんだ? 恥ずかしい? 怖い? 拒まれる? 立ち直れない? 一体、それは何だ!? 何やらずいぶんと思い詰めているようだが……。


 ……そういえば、里菜は、以前、俺からのプロポーズを促したかった時、自分の誕生日に婚約指輪をねだってきたのだった。

 そう、それに、付き合って最初のホワイトデーにも、品物の変わりに、とんでもないことをねだられた。……いや、別にとんでもなくはないか。今にして思えば、付き合っている恋人同士としては、当たり前の行為だ。一度もしないほうが、よほど変だったのだ。俺だって、実は、幾度もそうしたいという衝動と戦い、かろうじて自制していたのだ。


 ……いや、まあ、それはともかく。


 里菜には、そういう風に、誕生日だの何だののプレゼントにかこつけて、唐突に非常に重要なお願いをするクセがあるらしい。慎ましい質だから、そういうきっかけでもないと、勇気を振り絞れないのだろう。

 そんな健気な、不器用で一生懸命な姿が愛おしい一方、俺が不要領なばかりに元来控え目な里菜にそんな慣れない無理をさせてしまったことに、内心忸怩たるものもあった。

 今度も、何か、そのようなことなのだろうか。だったら、すまない。俺には、まだ何か足りない点があったのだろうか。


「里菜。君に悲しい思いなんか、させるつもりはない。俺に出来ることなら、何でもする。だから、願いがあるなら遠慮せずに言ってくれ」

 精一杯の誠意を込めて、心の中で両腕を大きく広げるような気持ちで告げる。


 里菜が上目遣いに俺をちろっと見た。

「あのね、竜……。あたし、竜に、今まで一度も、好きだとか愛してるとか、言ってもらったこと、ないよね?」


 言われて、俺は呆然とした。

 そんなことは考えてみたこともなかった。

 だが、まさかそんなわけはないと思うが……。言ったと思うんだが……。

 よく考えてみると、確かに、『言ったはず』という思い込みとは裏腹に、具体的にはそのシーンが記憶に無いような気もする……。

 いや、でも。だが、しかし。そんなはずは。


 必死で記憶を検索する俺を、里菜が、じっと見上げている。吸い込まれそうな黒い瞳が、じっと、じっと、じーっと、探るように俺を見ている。

 俺は恐る恐る口を開いた。

「……そうだったろうか?」


「うん。言ってないよ」

 里菜は即座に断言した。怒ったように、キッと俺を見据えて。

 ……怒ったように、ではなく、怒った……のか?

「絶対、言ってない。言ってくれてたら、忘れるわけないじゃん!」

 きっぱりと言い切る里菜。こんな風に、ちょっと怒ったような時の里菜は、頬がうっすらと染まって、潤んだ目がキラキラして、とても愛らしい……のだが、それを愛でている場合ではないようだ。

「竜が言ってくれたこと、あたし、全部憶えてるよ。最初にいきなり結婚申し込まれた時もね、竜がはっきりしないから、あたしが、『それって、好きってことなんじゃ……?』って言ったら『そうかもしれない』って答えただけだったよ。婚約指輪渡してくれた時も、言わなかったよ。結婚式の日も。まあ、あの日はバタバタしてて、それどころじゃなかったかもしれないけど。でもね、でも……」

 口ごもる里菜。


「じゃあ、その、君の願いというのは……?」

「うん、そう……。それ、言ってくれないかなあ……って」


 里菜は頬を染めて俯いた。恥ずかしそうに。消え入りそうに。もじもじと。


「ねえ、竜。くだらないことだと思うかもしれないけど、これ、あたしにとっては、ものすごく思い切ったおねだりなんだよ? ずっと、言いたくて、言いたくて、でも言えなくて……。うん、竜があたしを愛してくれてることはね、ちゃんと分かってるの。ただ、竜は、そう思っていても、それを口に出して言えない人なだけだって。でもね、ちゃんと愛してくれてるって分かってても、やっぱり一度くらい、ちゃんと言葉にして言ってみて欲しいじゃない? 竜の声で、その言葉を聞いてみたいじゃない? せっかくがんばって両想いになれたんだもん、それくらいのご褒美をもらえたっていいじゃない? でも、自分からそんな要求するのはずうずうしいみたいで恥ずかしくて、それに、もし『愛してるって言って』ってなんて頼んで拒まれたら……、『この人は思ってても言えないだけだから』って自分に言い聞かせても、やっぱり、きっと、かなりショックじゃない? だから、ずっと、怖くて言えなかったの……」


 ああ、なんということだ。

 俺は里菜に、ずっと、そんな我慢や遠慮をさせていたのか。結婚前から今に至るまで、ずっと、里菜は、俺にそれを言うのを遠慮しつづけていたのか。自分の願いを俺に拒まれるかもしれないと、怯え、逡巡していたのか。そんな、心細い、寄る辺ない思いを、俺に言えずに、ひとり心に秘めたまま、完璧に満たされた新妻を演じ続けていたというのか……?

 俺は、里菜にとって、安心して自分の不満を伝えられないような、信頼できない夫だったのか。愛しい妻にそんな不安や躊躇いを抱かせてしまうような、不甲斐ない夫だったのか?


 俺は、信頼される夫でありたかったのだ。良き夫でありたかったのだ。

 俺に言いたいことがあったら、何でも言って欲しかった。

 要求の全てを実現は出来なくても、出来るだけのことはしてくれようとするはずと、信じていて欲しかったのだ。

 要望や不満を伝えたことで、その対応に自分が傷つくかもしれないなどという危惧を抱かせるなんて、そんな夫では、いたくなかった。自分では、そんな夫ではないつもりだった。


 引き合いに出して悪いが、俺の父は、母がおそらく長年心に抱いていた不満に全く気付かぬまま、母に去られた。俺は、そんな、父のような夫にはなりたくなかったのだ。

 父は別に、何も悪いことはしていない……と、思う。酒も煙草も賭け事もやらずに真面目に働き、浮気をしたわけでも、母に暴力を振るったわけでも、借金を作ったわけでもない。

 ただ、自分の妻が何を考えているか、全く知ろうとしなかっただけだ。

 おそらく、夫婦は夫婦であるだけで一心同体と思い込み、自分は己の妻の全てを知っているはずと信じ込んで疑わず、ある意味、母に甘えて――夫婦であることに甘えて、母の気持ちを顧みようとせず、対等な人間同士として己の妻と向かいあう努力を怠ったのだろう……と、俺は推察する。

 なぜなら、たぶん、俺に対しても、父は同じだったからだ。父は俺を、自分の一部のように思い、俺には俺の考えや感情があり自分とは別の存在なのだということに、俺が成人しても、まだ気付いていなかった。当然自分と同じ価値観を共有していると思っているから俺と何かを話し合う必要があるなどと考えもしないし、自分が俺に己の価値観を押し付けているということに思い至りもしない。そもそも価値観が違う可能性に思い至っていないのだから、当然だ。息子は自分の延長であって別の人間ではないから、自動的にすべて解りあっていて当然と信じて疑わず、あらためて人間同士として向かい合う必要性など、想像したこともなかったのだろう。


 そういえば、俺は、父と母がまとまった会話を交わしているところを見たことがないような気がする。

 俺がまだ子供のころのことなので、もしかすると俺が寝た後にでも話をしていたのかもしれないが、父はそもそも無口な上に忙しい人だったし、両親は別々に寝室を持っていて、たまに夕食時に家族がそろった日も、その後はそれぞれ自分の部屋に引き上げていたから、やはり、そんなに会話があったとは思えない。

 父は、おそらく、自分の妻がどんな人間で何を考えているかをろくに知らぬまま、知ろうともしないままで、妻に去られてしまったのだろう。


 母も、俺も、もっと早くに、父に向って己を主張していれば、もっと違った家族関係を築くことが出来ていたのだろうか。

 だが、子供のころの俺にとっては、父は、強すぎ、大きすぎ、偉大すぎ、そして何より、正しすぎた。

 そう、父が、もっと『正しくない』人であれば、俺は、もっと早くに、父に抵抗していただろう。なまじ常に『正しい』から、反抗のしようがなかったのだ。

 確かに、父は、世間的に見れば立派な人だった。いや、今でももちろん、立派な人だ。それは俺も認める。

 が、とにかく、夫としては失敗してしまったのだし、俺は、結婚するにあたって、父を反面教師としてきた。

 父と俺の性格や価値観が実は非常に似ていると自覚していればこそ、俺は、父と同じ轍だけは踏むまいと努力してきたつもりなのだ。

 

 それなのに、里菜がそんな小さな、けれど本人にとっては非常に重大な不満を抱いていたことに、俺は、ずっと、気付いていなかった。里菜が俺に言いたいことを言えずにいるのに、気付いていなかった。気付こうともしていなかった。

 これでは、父と同じではないか?

 夫婦になったからといって、一緒に暮らしているからといって、自動的に一心同体になれたり相手のすべてが解ったりするわけではないのだという当たり前の事実を、結婚一年目にして、目の前に突きつけられた気がする。

 夫婦間の信頼と相互理解は、結婚した途端に自動的に完成するものではなく日々の積み重ねの中で育てていかねばならないものだと、俺は頭では理解していたつもりだったのに……。


 里菜が、このまま黙って諦めてしまわずに、勇気を出してくれてよかった。

 俺は、里菜のその健気な勇気に応えて、自らを正さなければならない。


 ……しかし、そもそも俺は、本当に、その言葉を里菜に言ったことがなかったのか?

 心の中では、いつもいつも、そう思っているのに? 毎日何十回も、胸の内でその言葉を繰り返しているのに?

 里菜がこんなにも、愛しくて愛しくてたまらないのに?


 どうしてよいか分からず呆然と黙ってしまった俺に、里菜が、ひっそりと言った。


「あのね、竜……。竜は憶えてないかもしれないけどあたしは憶えてるんだけど、あたしたちの、その……」と、 里菜は赤くなって目をそらした。

「……初めての夜にも、竜は、好きとか愛してるとかって、言わなかったんだよ」


「……そ、そうだっただろうか?」

 俺は、何も言わずにやることだけやったのか? 酷い男だ。

 里菜は、まさかそれを、ずっと根に持っていたのか?


「うん。里菜、里菜って、名前呼ぶばかりで。何度も名前呼んでもらうのも嬉しかったけど……、竜は優しくしてくれたけど……、その言葉だけは、ずっと、一度も言わなかったよ。じゃあ終わった後では言ってくれるかなって……今まで一度も言ってくれなかったけど、こんな時こそは、今度こそは……って、ちょっと期待してたのに……。でも、竜は優しかったし、あたし、その言葉なしでもやっぱり幸せだったし、もしこの上欲張ってそういう言葉まで欲しがって、叶えてもらえなかったら、今のせっかくの幸せが少し翳っちゃうと思ったから……せっかくの幸せな思い出にほんの少しでも翳が差しちゃうかもしれないのが嫌だったから、黙ってたの」


 あの時、俺は、二人で完全無欠な甘い幸福の中にいると思っていたのに。里菜は初めて安心しきった風に俺の腕に身を委ねて、少し恥ずかしそうに、けれど幸せそうに微笑んでくれていたのに。あの美しい微笑みは、今でも俺の眼に焼き付き、思い出すたびに胸が熱くなるというのに。

 あの夜、俺は、里菜への愛を、気持ち的には身体全体で全身全霊をかけて声高く表明し続けていたはずなのに……俺の『身体全体』の中に、口だけは含まれていなかったのか? 『全身全霊』をかけた表明には、言葉による表明だけは含まれていなかったのか?

 まさか、そんな……。いや、そうだったのかもしれない……。

 でも、俺の愛は、ちゃんと伝わっていたはずだ!

 だからこそ、里菜は、ああして幸せそうに微笑んでくれたのだ。

 

 思わず、言い訳してしまった。

「だが、それは、態度で示したから……」

 

 ああ、犬であれば、言葉になどしなくても、愛は伝わるものなのに。

 俺は、言葉によるコミュニケーションが不得手であるらしい。

 やっぱり人間は面倒だ……。

 いや、そんなことを言っていてはいけない。

 俺は、犬ではない人間の女性である里菜を、乞い望んで妻に娶り、里菜とともに幸せな家庭を築くという義務を、自ら進んで負ったのだ。

 俺はその責任を果たさねばならない。

 たとえ苦手なことであっても、里菜との付き合いにおいて必要なのであれば、頑張って習得しなければいけないのだ。

 俺は、里菜に言うべきだ。今こそ言うべきだ。

 愛している、と……。


 だが、なんということだ。舌が動かない! 声帯が言うことをきかない!


 そんな俺を見て、里菜は、少し悲しそうに頷いて、言葉を続けた。


「うん、分かってる。その時も、愛してくれてるってことは信じてたし、それに、今じゃなくても、この先、まだ、言ってもらうチャンスはいくらでもあると思ってたから黙ってたの。でもね、そのあとも、ずっと、言ってくれないままだったよ……。だから、今日が最後のチャンスだって思ったの。だって、もうすぐ、赤ちゃんだって生まれるんだよ? そしたら、あたしたち、このままパパ・ママで、そのうち、そのまま、あっというまに、じぃじ・ばぁばだよ? 甘い新婚時代なんてもう終わりで、どんどん所帯じみていくんだよ? あたしだって、おばさんだよ? 竜だって、おじさんだよ? そりゃあ、おじさんおばさんだって、おじいさんおばあさんだって、ふだんからお互い愛してるって言い合ってる人たちもいるかもしれないけど、でも、恋愛中にも新婚時代にも一度も言わなかったのに、おじさんおばさんになってから急にそういうこと言い出すって、普通は、無いよね。今まで一度も言ってくれなくて、これから急に言うようになってくれるなんてこと、ある? 時間がたつにつれてますます可能性は下がる一方じゃない? そのまま何年もたったら、あたしもますます言い出せなくなっちゃうし……、だから、言うなら今のうちしかないって思ったの……。それで、やっと勇気を出したのに……」


 つと顔をあげた里菜の、瞳が揺れた。

「ねえ、自分の旦那様に、たった一言、愛してるって言ってほしいと思うのは、そんなにすごく贅沢なこと? 我儘なこと? そんなことないよね? 普通だよね? 普通は思うよね?」

 縋るような眼差し。


 ああ、なんてことだ! 里菜、里菜、すまなかった……!

 俺は心の中で土下座した。

 なぜ、俺は、今までその言葉を口に出さずにいたのだろう。

 いつも思っているのに。心の底から思っているのに。


 俺は本当に里菜を愛しているのだ。里菜が可愛くて、愛しくてしょうがないのだ。

 未だに、折に触れて思うのだ。こんなに優しく気立てが良く可愛らしい女性が、なぜ、俺なんかの妻なのだろう。本当にいいのだろうか。

 里菜は別にすごく美人なわけではないのだろうが、とにかく俺には、誰より何より、可憐で可愛く、美しく見えるのだ。

 目が覚めた時、必ず隣に里菜がいる幸せ。寝起きのぼんやりした表情の無防備な可愛さ。こんなに可愛い里菜の、こんな可愛い姿を見られるのは俺だけなのだ。里菜の日常のちょっとしたしぐさや表情のひとつひとつが、何かにつけていちいちあまりにも可愛いので、時々、こんなに可愛い姿をこんな無粋者の俺などが独り占めして見ていて本当にいいのだろうかと思う時がある。あまりに分不相応で、まるで、全世界に対する犯罪みたいに思えるのだ。

 ……でも、いいんだ。俺にはそれが許されてるんだ。その権利があるんだ。なぜなら、他ならぬ里菜が、俺にその権利をくれたから。ああ、俺は世界一幸運な男だ!

 しかも、見るだけじゃなく、いつでも好きな時に、触れても抱きしめてもいいのだ。誰にも文句を言われる筋合いはないのだ。何しろ、俺の妻なのだから。どこか人に触れられることに慣れない風情だった里菜も、今ではもう、触れても身を強張らせたりすることもなく、安心して俺の腕の中で寛いで、嬉しそうに抱きつき返してくれたりもするのだ。

 もともと里菜は人見知りで、男女を問わず人に触れられること自体が苦手らしく、特に他意のない接触にも、普通の人には気付かれない程度の微妙な拒絶反応を示す。ほんの少し身を引くとか、一瞬、身を固くするとか。

 そんな里菜が、俺にだけは、安心しきって身を委ねてくれる。そこにまた、人に懐かない小動物が俺にだけ懐いてくれている的な嬉しさ、誇らしさがある。

 そんなとき、全世界に向けて大声で、「どうだ、いいだろう! こんなに可愛いこの女性は、この俺の妻なんだぞ! 俺だけのものなんだぞ! 俺のことをこんなに信じ切っているんだぞ! しかも、今、この細い身体で健気にも俺の子を身ごもっているんだぞ!」とでも叫んでやりたいような気分になるのだ。里菜を愛しく思う気持ちが身体の中で膨らみすぎて、はちきれそうな気がするほどなのだ。

 愛しくて、愛しくて、力いっぱい、ぎゅっと抱きしめたくなるが、俺なんかが手加減なしで抱きしめたら、里菜はこんなに細くて華奢なのだから、ヘタすると肋骨がバキバキ折れてしまう――いや、冗談抜きで。ましてや、里菜は今、お腹に子がいるのだ。気をつけて、そっと、そっと抱きしめると、腕の中に閉じ込めた柔らかな身体の小ささがいじらしくて、ますます愛しさが募り、まるで自分が愛しさの内圧で爆発するんじゃないかという気がする。

 その、爆発しそうに膨らんだ愛しさが、出口を求めて、口を衝く。

 ただ一言、万感の想いをこめて……、『里菜……』と。


 …………そうか。そこがまずかったのか。

 なぜ俺は、そこで名前しか口から出て来ないんだ?

 そこで、心の内の『愛しい』という想いが、そのまま言葉になって口から出ていれば問題なかったのだ。

 それが、口から出るとき、なぜか全部名前に変換されてしまうのが問題だったのだ。

 指摘されて初めて気がついた。

 気付いたからには、直せばいいのだ。

 簡単なことだ。俺は本当に里菜を深く愛しているのだから、その気持ちを、ただそのまま口に出せばいいだけだ。

 心の中に常に熱く熱く燃え滾るこの愛のすべてを、今こそ里菜に伝えるんだ!


 ……だが、言えない。

 なぜ言えないんだ、俺! たった五文字の言葉じゃないか!

 里菜は勇気を出したのに。こんなに小さな、こんなに内気な里菜が、勇気を出して俺に気持ちを伝えたのに。


 そうだ、意味を考えるからいけないんだ。

 意味を意識せず、音を一つずつバラバラにして順に発音していけばいいんだ!

 『あ』と『い』と『し』と『て』と『る』、五つの音を順番に発音することくらい、俺にだってできる!


 ……いや、でも、そんな言い方じゃ、だめだ。心がこめられない。そんなごまかし、里菜に対して失礼だ。


 俺は覚悟を決めた。


「我儘でなんか、あるものか。今まで言えなくてすまなかった。里菜、あい……あい……あ……」


 期待を込めてじっと俺を見上げている里菜。ご褒美を待つ子犬みたいに。幼な子のような無垢な瞳で、ただ一心に。

 そんなにも、俺の一言を待ってくれていたのか。俺の、たったの一言を、そんなに思い詰めるまで欲してくれていたのか。なんといじらしい。なんといとおしい……。


 ……が。

 ……だめだ、言えない! なぜだ! 俺の舌には何か呪いがかかっているのか!?

 すまない、里菜、だめだ、だめなんだ、どうしてもできないんだ……。ああ、俺はダメだ、ダメダメだ……。


 たっぷり十秒は静止した後、俺は再び、覚悟を決めた。

 かくなる上は、里菜に、誠心誠意、謝罪するしかない!


「……里菜、すまない。やっぱり、俺には言えないようだ。俺が君を愛していることは絶対に間違いないのに、俺はなぜか、それを口に出して言えないんだ。君をどんなにどんなに愛しているか、君のことをどんなに大事に思っているか、君が愛しくて可愛くてしょうがないか、ただ本当のことをそのまま言えばいいだけなのに……。でも、分かってくれ。内心では、俺は、いつもいつも思っているんだ。君が好きだ、愛しい、愛していると。なのに、なぜ言えないんだろう……こんなに、こんなに愛しているのに! 本当に、すまない!」


 真剣に謝罪していて、ふと気付くと、里菜が泣き笑いのような顔をしていた。


「……竜。ちゃんと言えてるよ……」


 ……あ……。

 思わず、目が泳いだ。どうやら、俺は、問題の言葉を、言えたらしい。そして、知らないうちにいつのまにか、里菜に合格点を貰っていたらしい。言われてみれば、確かに、俺は、それを言っていた。さんざん言っていた。使命を果たせて良かったような、無自覚だったから気恥ずかしいような……。


 笑いながら目を潤ませる里菜。指で目じりをぬぐう仕草が愛らしい。そんなに嬉しかったのか? 俺の言葉一つで、涙ぐむほど? ああ、なんて可愛いんだ!

 俺の胸に、あらためて、里菜への愛しさがこみ上げる。

 ああ、愛しい。愛しい、愛しい、愛しい!


 どうやら、俺の言葉を堰き止めていた心の堤防が決壊してしまったようなので、今なら何でも言える気がする。

 今のうちに、もっときちんと、あらためて、愛していると言っておこう。嘘偽りのない俺の気持ちを、思う存分、余すところなく伝えておこう。これから先、またそれを言えなくなっても、里菜に、俺の気持ちを知っていてもらえるように。俺が里菜を愛していると、いつも分かっていてもらえるように。いや、今でも分かってくれていると思うが、具体的な言葉で、俺の肉声で伝えられた俺の気持ちを、ずっと記憶に抱いて、必要な時にはいつでも思い出してもらえるように。

 今、告げよう。まっすぐに、里菜を見つめて。


「里菜! 改めて言う。聞いてくれ。俺は君を愛している。君が好きだ、すごく好きだ、世界で一番好きだ。君が俺の妻になってくれたなんて、本当に夢のようだ。君が愛しくてたまらない、何より大切に思っている、君のいない人生など考えられない、いつまでも一緒にいて欲しい。好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、愛している!」


 気がつくと、里菜が、今度はポカーンとしていた。若干、引き気味かもしれない……。なぜ、引く? 自分で『言え』と言ったのに。


「……竜……、どうしちゃったの? 嬉しいけど……、竜、ちょっとヘンだよ?」

「自分で『言え』と言っておいてヘンはないだろう。今のが俺の心からの言葉だ。障壁が決壊したので、今なら何でも言えるらしい。だから、今のうちに、十分に言い溜めしておく。一生分。これから先、もし俺がまた言えなくなった場合でも、不足が無いように」

「えーっ、嬉しいけど、これで一生分なの? 一生に一度だけなの?」

「……かもしれない」

「えー。これからも、せめて、年に一度くらいは言って欲しいなあ。だって、開き直れば、こうやって、ちゃんと言えるんだから」

「えっ……」

「ねえ、とりあえず、今、もう一回だけ言ってみて? えっと、熱烈に宣言してくれるのも嬉しいけど、今度は、そっと優しく囁いてみて? ね?」


 そうやって愛の言葉をねだる里菜は、うっかり力いっぱいガバっと抱きしめたくなるほど可愛かったが、今の里菜がとても可愛く見えたというその言葉は、もう、俺の口からは、出ることができなかった。だめだ、もう言えなくなってしまっている。どうやら、今回のこれは、時間制限付き障壁解除だったらしい。決壊した堤防は、すでに修復されてしまったようだ。


 里菜にそう言うと、里菜は、

「ええー……」と頬を膨らませた。

「それって、いつまた解除されるの? どうやったら解除されるの?」

「……分からない」

「じゃあ、今はどうやって解除されたの?」

「……分からない」

「ふぅん……。なんか、追い詰めれば解除されるっぽくない? これから、年に一度、結婚記念日に竜を追い詰めようかな。 怒るとか、嘘泣きとかしたら、解除される?」

 悪戯っぽく言う里菜に、俺は思わず懇願した。

「やめてくれ!」

 里菜はこの上なく可愛らしく微笑んだ。

「じゃあ、約束。毎年は諦めるから、次は十年目にね。あたし、十年目でも、ダイヤモンドなんか、いらないから。竜の、『愛してる』って言葉だけでいい。で、その次は二十年目。十年ごとに言ってもらって、そのうち、金婚式の時に言ってもらうから。だからね、それまで、一緒だよ。ずっと一緒だよ?」


 ああ、里菜、もちろんだ。十年後、二十年後に俺がその言葉を言えるかどうかは自信がないが、それでも、君さえ許してくれるなら、十年後、二十年後も、君と一緒だ。金婚式まで、ずっと一緒だ。それからも、ずっと一緒だ。天国だの来世だのがあるかどうかは知らないが、もしあるのなら、それも一緒だ――。


 俺は立ち上がってテーブルを回り、里菜を黙って抱きしめた。お腹の中の子供ごと。


 里菜、愛している。俺の妻になってくれて、本当にありがとう。俺たちは、ずっとずっと一緒だ。


   ……終……

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