雨の日 ~猫騎士アルと食堂のハナさん
食堂の古びたガラス窓には、絶え間なく雨粒が伝い落ちる。流れる水滴が外の景色を歪ませ、時折足早に通り過ぎる人達も黒い影のように見える。
鍋の煮える音ばかりがやけに耳に残る。
こういう日は決まって・・・するりと音もなく入ってくる人影。素早く外套を脱ぐと一番奥の席についた。この店で一番暖かい場所。そこだけは変わらず居心地がいい場所みたいに見えるのが不思議で仕方ない。
その真ん中で、騎士団の制服のまま丸まっている。姿勢は、完全に猫。
背中はゆるやかな弧を描いて、肩から腰へかけて無駄な力が抜けている。呼吸に合わせて、静かに上下するそのラインが妙にやわらかい。短く整った灰色の毛並みは光を含めば銀色にほどけそうな質感で、湿った空気の中でも艶を失わないのが、余計に目を引く。
顔立ちは、整いすぎているくらいに整っている。伏せたまつ毛は長く、頬に影を落として、唇は僅かに緩んで、無防備な呼吸をこぼしている。ふとした瞬間に見せる、驚くほど甘い表情。芝居小屋の演者達が見せるような計算された輝きじゃなくて・・・もっと近くて、素のままの。まだまだ子供だと思っているのに、距離を間違えさせる顔。
「仕事しなさいよ、アルくん」
ハナはオタマを持ったまま、声を投げる。
ぴく、と耳が動いた。細く尖ったその形が、僅かにこちらへ向く。それだけで起きているのがわかる。
「聞こえてるでしょ」
返事はない。
代わりにしっぽが一度、ゆるく床を打つ。気まぐれにリズムを刻むみたいに。・・・ほんと、素直じゃない。
「ハナさん、また来てるな」
「騎士団はどうしたんだよ」
常連達が、いつもの調子で笑う。
「雨の日は動かない主義なんだって」
「主義ってなんだよ」
「ただのサボりだろ」
「いいのよ、あれで」
軽く返す。
「追い出したってどうせまた来るし。どうせなら、濡れない方がいいでしょ」
自分で言っていて少しだけ甘いと思う。
でも。
あのまま外に放り出す方が、どうしても想像できない。濡れて、機嫌をさらに悪くして。それでもここに来るのが、目に浮かぶから。
視線が戻る。変わらない寝顔。一定の呼吸。けれど、さっきから耳もしっぽも、ちゃんと反応している。
起きてる。
起きてて、無視してる。
そういうところ、ずるい。
獣人の成人は十五。頭では理解している。もう子供じゃない。騎士として扱われる年齢。
それでも。
どう見ても、まだ成長途中にしか見えない子供特有の危うさが残っている。均衡のとれた美しさの中に、未完成な柔らかさが混じっている。だから、油断すると簡単に懐に入ってくる。自分でも気づかないまま。
こういう子は、放っておくと危ないのよ。誰かが線を引いてあげないと。
それが、たまたま自分なだけ。そう思っているのに。
目を離せない理由が、それだけじゃない事も・・・わかっている。
客が途切れる。店の空気が、少しだけ緩む。
鍋の火を弱めて、手を拭く。
足は自然と、あの席へ向かう。
静かに、近づく。
すぐそばまで来ると体温がわかる気がする。ほんのりと、暖かい。外気とは違う、内側からの熱。
ハナはそっとアルの顔を覗き込む。やっぱり綺麗な顔。獣人は皆、その獣性に合わせて筋肉もしっかりついて、体感も人間より鋭い。顔立ちも整っている者が多い。時々こちらが目を逸らしたくなるくらい。
それなのに。
ここではその顔で、警戒心をどこかに置き忘れたみたいに力を抜いている。この子は、ここではただの猫みたいな顔をする。
騎士でもなく、誰かの上に立つ存在でもなく。ただ暖かい場所を知っていて、そこに丸まっているだけの生き物みたいに。
それが。
少しだけ・・・。
・・・ダメね。
そっとハナは手を伸ばす。
ふれる直前で、ほんの一瞬だけ止まる。
これは、仕事中の人に対する距離じゃない。騎士に対する態度でもない。
わかってる。
それでも。
ふれたいと思ってしまう。
指先で、耳にふれる。
さらりとした毛並み。思ったよりも熱を含んでいる。ゆっくりと撫でる。根元から、後ろへ。
アルの耳がぴく、震える。
わかりやすい。
起きてるくせに。
目は開けない。呼吸も変えない。でも、ほんの少しだけ頭の位置が変わる。
撫でやすい角度に。こちらの手に沿うように。
・・・あんたね。
それ無意識でやってるなら相当よ。わかっててやってるなら、もっと質が悪い。
「・・・サボり魔」
小さく落とす声。
ハナは指を止めない。
耳の後ろをなぞると、しっぽがゆるやかに揺れる。一定のリズムで、気分を表すみたいに。気持ちいいのが全部出てる。隠す気もないくせに目だけは開けない。
ふれられている事も、わかっているくせに知らないふりをして全部受け取っている。
・・・ずるい。
もう少しだけ、と指が思う。もう少しだけ、このままでいたい、と。
けれど、それを許したら多分、この距離は簡単に崩れる。
アルは騎士で、子爵家の三男で、成人したばかりで・・・自分は食堂の、それもそろそろ結婚相手を決めなくちゃいけない年齢だ。それ以上でもそれ以下でもない。
そうしておかないとどちらかが困る。
だから。
少しだけ名残惜しいところで手を離す。指先に残る体温が、やけに意識に残る。
自分で決めた境界を、自分で壊すわけにはいかない。
「今日のおすすめ、まだある~」
「オレも~」
お客さんが入ってきた。席につきながら、こちらを見る。
「ハナさん、また撫でてたな」
「完全に懐かれてるじゃん」
「違うわよ」
即座に返す。
けれど。
視線の端で、アルのほんの少しだけ緩んだ口元が見えてしまう。目は閉じたまま。何も知らない顔のまま。でも確実にわかっている顔。
ほんとに、ずるい。
ハナがカウンター内に戻ろうとした、その瞬間。
するり、と。何かが足首に触れた。
思わず、足が止まる。
視線を落とす。
灰色のしっぽが、音もなく巻きついていた。
柔らかいのに、逃げ場を塞ぐみたいにぴたりと沿って。力はないはずなのに、逃がさないみたいに絡んでいるのに、締めつけるわけじゃない。
・・・なに、それ。
問いかける前に、しっぽが動く。
足首からすべるようにゆっくり上へ。撫でる、というより、なぞるでもなく。ふれているだけで感覚を拾い上げてくるみたいに。ふくらはぎをやわらかく這い上がっていく。上へ、下へ。同じ場所を繰り返すたびに、ふれ方が少しだけ深くなる。
・・・わかってる。無意識なはずがない。どこをどうさわればいいか、わかっててやっている。
ぞくり、と。
遅れて熱が広がる。振りほどこうと思えば、簡単なはずなのにできない。足が、動かない。
しっぽは、逃がさないように絡み直す。強くはないのに、ほどけない。むしろ離れたくないと思わせるくらいに、やわらかい。
視線を上げる。
アルは、相変わらず目を閉じたまま。呼吸も、表情も、何も変わらない。静かで、無防備で。
それなのに。
しっぽだけが、あまりにも饒舌だった。ふれている事を、隠さない。離さない事を迷わない。
まるで・・・ここにいて当然だと言ってくるみたいに。
ハナは微かに息を吐いた。
その間にも、しっぽはゆっくりと上下を繰り返す。急かさないくせに意識だけを奪っていくふれ方。
・・・ほんとに。
ずるい。
しっぽはもう一度ゆっくりと、足首へと戻ってくる。優しく絡み直して、そのまま離れない。
雨音だけが、静かに続いていた。
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