第一章 虐げられ男爵令嬢
第1話 北棟に住む男爵令嬢
男爵家の屋敷には、誰も近づかない場所がある。
北棟のさらに奥、使用人部屋の並びにある小さな一室――そこが、私の部屋だった。
私はリリアーヌ・フォン・アルベール。
肩書きだけなら、れっきとした男爵令嬢だ。
けれど現実は、使用人と変わらない。
朝は夜明け前に起き、掃除と洗濯を手伝い、余った仕事を見つけては黙々とこなす。食事は台所で冷めたものを急いで口に入れるだけ。父と継母、そして異母妹と同じ食卓についたことは、ここ数年一度もなかった。
「目立たなければ、怒られない」
それが、私の処世術だった。
母が亡くなったのは、私がまだ幼い頃。
父はほどなくして再婚し、屋敷には新しい夫人と、その連れ子がやってきた。
最初は、優しかった――と思う。
少なくとも、そう信じようとしていた。
けれど時間が経つにつれ、私は「邪魔な存在」になった。
継母にとっても、異母妹にとっても。
令嬢らしい振る舞いをしていない。
ドレスを汚す。
手仕事ばかりしている。
そうやって理由をつけられ、私は少しずつ、屋敷の端へと追いやられていった。
私が令嬢として過ごせた時間は、母が生きていたあの頃だけだ。
――それでも。
夜になると、私は小さな机に向かう。
針と糸を手に取り、布を広げる。
安価な布、使用人たちが分けてくれた端切れ、古くなったリボン。
それらを組み合わせて、形を作る。
ぬいぐるみ。
ハンカチ。
小さな袋。
誰に教わったわけでもないのに、手は迷わず動いた。
「……やっぱり、好き」
布に触れているときだけ、心が静かになる。
この時間だけは、誰にも奪われない。
令嬢らしくない、と異母妹は笑うけれど。
それでも私は、この手仕事をやめられなかった。
もし、ここを追い出されても。
せめて、生きていけるように。
そんなことを考えながら、私は今日も針を進める。
――まだ、この時の私は知らなかった。
この「好き」が、
私の人生を大きく変えることになるなんて。
第2話 奪われた、母の形見
それは、私にとって唯一の「母の形」だった。
白いうさぎのぬいぐるみ。
耳の先が少し折れていて、目は黒い糸で縫われているだけの、決して高価ではないもの。
けれど母は、これを抱かせながら言ってくれた。
『リリアーヌが寂しくならないように、ずっと一緒にいてくれるのよ』
だから私は、どんなにボロボロになっても、捨てられなかった。
その日、洗濯物を運んで中庭を横切ったときだった。
「……まだ、それ持ってたの?」
背後から聞こえた声に、身体がこわばる。
振り向くと、異母妹が私を見下ろしていた。
「汚いわね。令嬢がそんなものを」
「……私の、物ですから」
小さく、そう言った。
反論ではなく、ただの事実として。
次の瞬間だった。
異母妹は私の腕からうさぎをひったくり、くるりと身を翻す。
「そんなもの――」
ぽちゃん。
池に、落ちた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
水面に浮かぶ白い布が、じわじわと沈んでいくのを見て、ようやく理解する。
「……返して」
声が震えた。
「やだ。汚いし」
くすくすと笑いながら、異母妹は去っていく。
私は池の縁に膝をつき、必死で手を伸ばした。
濡れて、重くなったうさぎを引き上げた瞬間――
胸の奥が、弾けた。
白い病室。
未完成のデザイン画。
叶わなかった夢。
――私は、前世で、デザイナーを目指していた。
その記憶が、一気に流れ込んできた。
「……ああ」
私は、転生者だったのだ。
池の水を吸って歪んだうさぎを抱きしめながら、
私は、静かに泣いた。
第3話 思い出した前世と、縫い直した想い
使用人部屋に戻り、私は濡れたうさぎを机に置いた。
縫い目はほつれ、布は傷み、もう元には戻らない。
けれど、手が自然と動いた。
「……大丈夫」
前世で、何度も言っていた言葉だ。
布を乾かし、糸を選び、傷んだ部分を覆うように新しい布を当てる。
ただ修復するのではない。
――生まれ変わらせる。
レースを足し、リボンを結び、
うさぎに、小さなドレスを着せた。
完成したそれは、前よりずっと可愛かった。
その瞬間、胸の奥が温かくなる。
「……私、やっぱり」
布と針が、好きだ。
前世で叶わなかった夢は、
この世界でなら、まだ続けられる。
それからの私は、変わった。
目立たないように、けれど確実に、準備を始めた。
端切れをもらい、ハンカチを作る。
使いやすく、少しだけおしゃれなもの。
それを、平民向けの雑貨屋に卸した。
名前は出さない。
けれど、少しずつ売れていく。
――追い出されても、生きていけるように。
そんなある日。
運命は、思わぬ形で転がり込んできた。
第4話 雑踏で泣く少女
王都の通りは、いつも人で溢れている。
雑貨屋へ納品に向かう途中、
私は泣き声を聞いた。
「……っ、ひっく……」
人混みの中、小さな少女が立ち尽くしていた。
貴族風の服装。
けれど、周囲は気づかない。
少女の腕には、ぼろぼろのうさぎのぬいぐるみ。
踏まれ、汚れ、破れていた。
「……大丈夫?」
声をかけると、少女は涙で濡れた目を上げる。
「……うさぎさんが……」
私は、迷わなかった。
売り物のハンカチをすべて取り出し、その場で作業を始める。
破れを隠し、形を整え、
小さなドレスを縫い上げた。
完成したうさぎは、まるで別物だった。
「……きれい」
少女は、そう言って笑った。
すぐに迎えのメイドが現れ、深く頭を下げて去っていく。
私はそれを、ただ見送った。
――まさか、その出会いが、
私の人生を根こそぎ変えるとは思いもせず。
第5話 公爵夫人の来訪
数日後。
男爵家に、ありえないほど格式高い馬車が止まった。
現れたのは、公爵夫人と、その娘。
継母と父は色めき立ち、
私のことなど存在しないかのように振る舞った。
「この家には、優秀な娘がおりまして」
異母妹を褒め称え、
私の悪口を並べる。
けれど公爵夫人は、静かに私を見ていた。
――使用人部屋から呼び出された、地味な令嬢を。
「この子を、私のもとで預かります」
それは、疑問ではなく、宣言だった。
こうして私は、
男爵家を出ることになる。
針と糸だけを持って。
新しい人生が、
ようやく、始まろうとしていた。




