明冶という名の新世界
・明冶という名の新世界
応接室の重厚な空気に、嶺と幸の凍りついた声が響いた。
「まさか……私たちは、過去にタイムスリップしてしまったのか?」
嶺が、まるで熱を出したかのように震える声で呟く。
その目は、現実を受け入れようとしない理性と、得体の知れない恐怖に揺れていた。
幸もまた、蒼白な顔で小さく頷く。
彼女の唇は、何も言えずにただ震えていた。
目の前の少女が放った「明冶十三年」という言葉。
それは、彼らの世界を根底から揺るがす、決定的な一撃だった。
「瓶田様、結城様。その『タイムスリップ』とは、一体どういう意味合いなのでしょうか?」
桜は、二人の尋常ならざる動揺を冷静に見つめ、問うた。
彼女の瞳には、戸惑いよりも、得体の知れない事態への好奇心が色濃く浮かんでいる。
嶺は、呼吸を整え、意を決して語り始めた。
自分たちが生きていたのは、ここから百数十年後の「令和」という時代であること。
自分たちが乗ってきた「車」は、その時代の科学の結晶であること。
そして、濃霧によって、時空を超えてこの時代に飛ばされてきた可能性が高いこと。
桜は、その話を信じられないといった様子で聞いていた。
しかし、その顔には、先ほどまでの彼らの反応や、自分たちの知る「明冶」の歴史とのわずかな齟齬が、確かな「現実」として重なり合っていくのを、嶺は見て取った。
「徳川幕府ではなく、『徳臣』幕府……。そして、維新後の内乱が九州で収まったばかり、と……」
幸が、桜が話した歴史の断片を反芻するように呟く。
彼女が学校で学んだ日本の歴史とは、細部が異なっていた。
そのわずかな違いが、嶺と幸に、自分たちが単なる過去に来たのではなく、歴史の異なる「並行世界」に存在していることを、まざまざと突きつける。
「つまり、あなたがたは、私たちが知る未来の知識を、すべて持ち合わせているということになりますわね?」
桜の言葉は、まるで獲物を捕らえるかのように鋭かった。
彼女の視線は、再び、洋館の前に停められたEVカーに向けられる。
その瞳には、野心と希望の炎が、一段と大きく燃え上がっていた。
嶺は、桜の質問に頷くしかなかった。
まさか、ライトノベルでしか見たことのない「異世界転生」が、こんな形で自分の身に降りかかるとは。
しかも、転生ではなく、「タイムスリップ」。
元の世界に戻る方法も、戻れるのかどうかも、一切不明。
混乱と困惑の中、嶺の脳裏に、様々な思考が駆け巡る。
(どうする? このまま、この時代で生きていくのか? 俺たちは、元の世界に帰れるのか?)
そして、現実的な問題が、次々と頭に浮かんできた。
携帯電話は使えない。
財布の中の紙幣や硬貨は、この時代ではただの紙切れ、金属片だ。
身分を証明するものもない。
食料も、住む場所も、すべてがゼロからのスタートになる。
現代の知識や技術を持っていても、それを活かす基盤が全くないのだ。
幸もまた、顔を覆い、小さく震えていた。
「主任、どうしましょう……。私たち、どうやって生きていけばいいんですか……?」
彼女の不安に満ちた声が、嶺の心を強く揺さぶった。そうだ。
自分は一人ではない。
大切な部下である幸も、同じ状況に巻き込まれている。
彼女を守らなければ。
彼女を、この見知らぬ世界で路頭に迷わせるわけにはいかない。
嶺は、幸の手をそっと握った。
冷たく、震える幸の手のひらから、彼の心に、ある種の決意が芽生える。
(この世界で生きていく。生き残る。そして、この状況を、何とか打開するんだ。)
その時、彼の脳裏に、桜の言葉が蘇った。
「未来の知識……これを取り込めば、私は……」
そうだ。自分には「知識」がある。幸には「行動力」と「人懐っこさ」がある。
そして、目の前の桜には「野心」と「財力」、そしてこの時代の「人脈」がある。
現代の知識や技術が通用しない環境で、彼らはどう生きていくのか。答えは、目の前の少女の言葉の中にあった。
嶺は密かに憧れていた。
そして、自嘲していた。
それは、ライトノベルでしか見たことのない「魔法使い」という存在だ。
彼らが乗ってきた車に積まれた機材。
それは、令和の時代では当たり前の工業製品だが、ここ、明冶の世ならば、まさしく「魔法」と呼ぶにふさわしい代物ばかりだ。
かつて、彼は「世のためになるよう偉大なことだって簡単にできる」と、中二病的な正義感を抱き、自分にそんな力があればと妄想していた。
だが、それは現実の彼の人生では決して叶うことのない、ただの夢でしかなかった。
しかし今、その「魔法」は、確かに嶺の目の前にあった。
そして、目の前には、その「魔法」を必要とし、野望に燃える桜がいる。
彼女の野望は、失われた家の復興。
それは、この時代において、まさに「人のため」になる偉大な行為に繋がり得る。
嶺は、その可能性に、抗いがたい魅力を感じていた。
彼がこれまで心に秘めていた、しかし決して表に出すことのなかった「魔法使い」への憧れと、世界を良い方向へ導きたいという純粋な願いが、この時、現実のものとして目の前に現れたのだ。
「桜様」嶺は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、先ほどまでの動揺の影はなく、強い意志の光が宿っていた。
「私たちに、お力になれることがあれば、ぜひ協力させてください」
嶺の言葉に、桜の瞳が大きく見開かれた。
彼女の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。それは、冷たい印象の彼女には珍しい、確かな喜びの表情だった。
「お言葉、感謝いたします。瓶田様、結城様」
桜は、深く頭を下げた。彼女のその仕草は、嶺の決意をさらに確固たるものにする。
「私たちも、元の世界に戻れるかどうかも分かりません。ですが、もしこの世界で生きていくのであれば、ただ生きていくだけでは意味がありません」
嶺は続けた。
「私たちが持つ未来の知識や技術が、この時代の日本に、少しでも良い影響を与えられるのであれば、これほど喜ばしいことはありません」
「そして、その力が、桜様のお役に立てるのであれば、それは私たちにとっても、この世界で生きていく意味となるでしょう」
嶺の言葉には、嘘偽りがなかった。
彼は、この状況をただ受け入れるだけでなく、積極的にこの新しい世界にコミットしていく覚悟を決めていた。
幸もまた、嶺の言葉に力強く頷く。
彼女の表情には、不安だけでなく、微かな希望の光が宿り始めていた。
桜は、そんな幸の様子を見て、静かに言った。
「結城様。ご心配なく。わたくしの屋敷が、あなたがたにとっての安住の地となるよう、私が責任を持って取り計らいましょう。この時代においては、あなたがたのような異邦人は、常に危険と隣り合わせです。しかし、七條院の名のもとに、私が保護をお約束いたします。どうか、安心して、その未来の知識をわたくしに、この国に、与えていただきたい」
幸の顔に、安堵の色が広がった。
桜の言葉は、彼女にとって、絶望の淵に差した一筋の光だった。
「ありがとうございます、瓶田様、結城様。わたくしの野望に、これほど心強い味方はございません」
桜の瞳は、未来への確かな光を宿していた。
没落した七條院家の唯一の令嬢として、誰もが彼女を憐れみ、蔑んできた。
公爵家に土地を奪われた屈辱。その全てを、彼女は決して忘れていなかった。
そして今、彼女の目の前には、その野望を実現するための、とてつもない「未来の扉」が開かれようとしていたのだ。
嶺と幸が持つ「未来の知識」。
桜が持つ「野心」と「この時代の繋がり」。
そして、洋館に暮らす、桜を慕う忠実な家人たち。
彼らの力が結集すれば、不可能と思われた夢も、現実となるかもしれない。
「まずは、わたくしが持ち込んだ機材類の説明をさせていただいてもよろしいでしょうか。実際に見ていただいた方が、話が早いかと存じます。私たちが持つ『魔法』の源泉を、ぜひご覧いただきたいのです」
嶺はそう提案し、桜も力強く頷いた。
彼女の心には、すでに次のステップへの明確なビジョンが描かれていた。
この「異邦人」たちがもたらす「未来の魔法」が、彼女の野心を、そして七條院家の運命を、大きく変えることになるのだ。