メイドとの邂逅と時空の歪み
・メイドとの邂逅と時空の歪み
荒れ果てた洋館の庭に足を踏み入れた嶺と幸の視線の先に、一人の少女がいた。
年の頃は、おそらく幸よりもいくらか幼い、15歳ほどだろうか。地味な色合いのメイド服を身につけ、うつむき加減で何かを拾い集めている。
彼女の姿だけが、この奇妙な空間にわずかながら現実味を与えていた。
嶺は一歩、また一歩と慎重に近づいていく。
足元の枯れ葉が、サクリと音を立てた。
その音に気づいたのか、少女はゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、冷たい印象を与える、無表情な美しさだった。
整った顔立ちだが、感情の起伏をほとんど感じさせない。
その瞳は、まるでガラス玉のように透き通っていて、嶺と幸の姿を映し出す。
彼女こそ、洋館に務めるメイドの**萩原 愛**だ。
「あの、すみません……」
嶺は、戸惑いを押し殺し、努めて穏やかな声で話しかけた。
愛は何も言わず、ただじっと嶺を見つめ返している。
その視線は、まるで異星の生物を見るかのようだ。
彼女の視線が、嶺の後方に停められたEV車へと移った瞬間、愛の瞳が僅かに見開かれた。
無表情だった顔に、初めて微かな動揺が走る。
次の瞬間、愛は信じられないものを見たかのように、ゆらりと後ずさった。
そして、まるで何かに突き動かされるように、くるりと踵を返し、洋館の奥へと走り去ってしまったのだ。
その足取りは、まるで獣に追われた小鹿のように必死で、一目散だった。
「え? 行ってしまったね?」
嶺は呆気に取られ、幸も驚いて目を丸くしている。
「行ってしまいましたね……。何か、まずかったんでしょうか?」
幸が不安げに呟く。嶺は顎に手を当て、考える。
「見たことのない我々と、あの車、大きいからね。見た目がバスより一回りし小さいだけだし、警戒するのも無理はないか。だが……」
彼は首を傾げた。あそこまで露骨に逃げられるほどの存在なのだろうか、自分たちは。
その時、洋館の奥から、別の足音が聞こえてきた。
先ほどの愛の慌ただしい足音とは異なり、落ち着いた、しかし急ぎ足の音だ。
そして、角を曲がって現れたのは、愛よりも少し年上に見えるが、それでも16歳といったところだろうか、もう一人の少女だった。
愛とは対照的に、柔らかな雰囲気を持ち、その顔には少し幼さが残っている。
彼女こそ、同じく洋館に務めるメイドの**芳原 由美**だった。
由美は、息を切らせて駆け寄ってくると、嶺と幸を見て、驚きに目を見開いた。
しかし、その瞳には愛のような純粋な恐怖よりも、強い好奇心が宿っているように見えた。
彼女は、嶺たちがいるにもかかわらず、辺りをきょろきょろと見回し、何かを探している。
「あの、すみません、わたくしの同僚、愛さんが、何かひどく慌ててお館様のもとへ走って行かれたのですが……何かございましたか?」
由美は、目を白黒させながら尋ねた。
「ああ、いや、私たちが話しかけたら、急に走り去ってしまって……」
嶺が説明しようとすると、由美の視線が、彼の背後に停められたEV車に吸い寄せられた。
その瞬間、由美の顔から血の気が引いた。
彼女の瞳は、これ以上ないほど驚愕に見開かれ、口が半開きになる。
「あれは……?」
彼女は、言葉にならない声を漏らした。指が震え、その先にはEV車がある。
由美は、ゆっくりと、まるで夢遊病者のようにEV車の周りを歩き始めた。
光沢のある流線型の車体、空気を読んでいないかのように静かに佇むタイヤ、見る者を映し出す窓ガラス。
どれをとっても、この時代に存在するどの乗り物にも似つかわしくない。
彼女は、恐る恐る手を伸ばし、車のボディに触れようとした。
しかし、触れる寸前でビクリと手を引っ込め、まるで熱いものに触れたかのように飛び退いたのだ。
その様子を見た幸が、由美に近づき、少しはにかみながら声をかけた。
「これ、EV車っていうんです。私たちは、これに乗って遠くから来たんですよ。燃料を燃やしたりしないので、環境にも優しいんです」
幸の無邪気な笑顔と、現代用語が混じった説明に、由美はさらに困惑した様子で目を丸くする。
車という言葉も、燃料を燃やさないという概念も、環境という言葉も、彼女にとっては未知のものだったのだろう。
そして、幸たちの服装。機能的でシンプルな現代の洋服は、この時代の和服や、西洋風のドレスとも異なる、異質な存在だった。
由美は、警戒しながらも、好奇心に抗えない様子で、車の周りをぐるりと回ってみる。
そっと触れようとして、やはり思いとどまった。
その姿は、まるで珍しい動物に遭遇したかのような、純粋な驚きに満ちていた。
「あの……」
嶺が再び口を開こうとした時、由美はハッと我に返ったように、慌てて頭を下げた。
「ひ、大変失礼いたしました! あの、お話しは、わたくしではなく、お嬢様にお伺いいただくのがよろしいかと存じます。すぐに、お嬢様にご報告してまいりますので、少々お待ちくださいませ!」
そう言い残すと、由美はくるりと踵を返し、洋館の奥へと駆け去っていった。
その足取りは、まるで驚きを隠しきれない幼子のようだった。
愛は、その場にじっと立ち尽くし、嶺と幸、そして彼らの車を、感情の読めない瞳で見つめ続けていた。
彼女の瞳には、ほんの僅かに、好奇心とも畏怖ともつかない光が宿っているようだった。
「主任、お嬢様って言いましたね。この洋館のお嬢様かな?」
幸が、由美が消えていった洋館の奥を指差した。
「ああ。いずれにせよ、まともな説明ができる人物だろう。この状況が何なのか、聞かせてもらう必要がある」
嶺はそう答えながらも、彼の内心は波立っていた。
由美たちの反応は、彼らの予感を確信へと変えつつあった。
この場所は、やはり自分たちが知る「日本」ではない。
ましてや「令和」ではない。
見たことのない洋館、奇妙な服装のメイドたち、そして、自動車という概念すら存在しないかのような反応。
全ての要素が、彼らを既知の現実から引き離し、得体の知れない場所へと誘っている。
車の周囲を見渡す。緑濃い木々の向こうに広がるのは、田園風景と、遠くに見える茅葺き屋根の民家。 電線も、アスファルトの道も、看板も、現代的なものが何一つ見当たらない。
空には、ひこうき雲一つなく、ただ青い空がどこまでも広がっている。
空気は澄み切っていて、どこかひんやりとする。
幸は、不安そうに嶺を見上げた。
「主任、本当にここ、どこなんでしょう……。私、ちょっと、ゾッとしてきました」
嶺もまた、全身の毛穴が開くような悪寒を感じていた。
それは、単なる寒さからくるものではない。
未知の領域に足を踏み入れてしまった、本能的な恐怖だった。
二人は、由美が戻ってくるのを待つ間、沈黙のまま、目の前の洋館と、その奥に広がる見慣れない景色を眺めていた。
この出会いが、そしてこの洋館の主との対面が、彼らの運命を、そして遠い未来の日本の姿を、大きく変えることになることを、彼らはまだ、知る由もなかったのだ。
やがて、洋館の奥から、複数の足音が聞こえてきた。
由美の声と、もう一人、凛とした、しかしどこか冷たさを秘めた女性の声が混じり合っている。
いよいよ、この奇妙な洋館の主との対面が迫っていた。二人の胸の鼓動は、速まっていく。