由比の海とすれ違う心
・由比の海とすれ違う心
展示会撤収の翌日。
昨日の喧騒が嘘のように、東京・晴海の巨大な展示ホールは、重くどんよりとした曇り空の下、独特の静けさに包まれていた。
だが、それは真の静寂ではない。
ホール全体に響き渡るのは、仮設ブースを解体する職人たちの金槌の音、電動ドライバーの甲高い唸り、そして巨大なフォークリフトが荷物を運び出す轟音。
まさに展示会開催中とは別の種類の喧騒が支配していた。
片付けられたブースの残骸が、祭りの後の寂しさを漂わせている。
嶺が勤める小さな商社のブースも、例外なく撤収作業の真っ只中だった。
部長をはじめとする一部の社員は、まだ完全に仮設ブースが撤収しきらないうちは、会場に残り、最終確認や指示出しに追われている。
しかし、嶺と幸は、焼津の新設高専との約束があるため、この喧騒から一足先に抜け出す必要があった。
彼らは、昨日まで展示会に出品していた商品を、会社のEVバンに丁寧に梱包する作業を急いでいた。
大型のバンタイプのEV車の荷台に、精密な電子顕微鏡や実験機器が次々と積み込まれていく。
「主任、この小型旋盤、最後の確認です!」
幸が、リストを片手にテキパキと声をかける。
彼女の顔には、昨日までの興奮と疲労の色がわずかに残っているが、その目はまだ輝きを失っていなかった。
嶺は無言で頷き、精密機械が丁寧に梱包されているかを確認する。
彼らが乗るEV車は、会社の環境意識の高さをアピールするために導入された最新鋭のモデルだ。
燃料には、廃食油を加工した軽油が使われている。
未来志向のその車は、まるで、彼らの未来を予言しているかのようだった。
嶺たちは、ブースが搬出口のそばだったこともあり、そして、事前に綿密な搬出計画を立てていたこともあり、驚くほど迅速に作業を進めていた。
午前10時過ぎには、すべての商品の梱包と積み込みを終え、EVバンの後部ハッチを閉める。
その頃、彼らが車に商品を載せ終わるより少し前から、入れ替わるように仮設ブースの撤収に来た職人たちが、彼らのブースを解体し始めていた。
周囲を見渡せば、大手他社のブースは、その規模も出品していた商品の数も桁違いだ。
未だに大量の段ボールが山積みになり、重機が行き交い、多くの作業員が忙しなく動いている。
彼らが完全に撤収を終えるには、まだまだ当分かかりそうな様子だった。
そんな中、嶺たちは、どこよりも早く商品の搬出ができたことに、ささやかな達成感を覚えていた。
午前中に全ての片付けを終え、10時過ぎには晴海を出発する。
目的地は、幸が掴み取った焼津の新設高専。
長い一日が始まることを予感させる、重苦しい空気が車内に漂っていた。
首都高から東名高速へ。
都会の喧騒が徐々に遠ざかり、車窓の景色は、灰色のビル群から緑豊かな山々へと移り変わっていく。
幸は助手席で、スマートフォンを操作したり、時折外の景色に目を奪われたりしていた。
嶺は運転席で、いつもと変わらない無表情でハンドルを握っている。
しかし、彼の頭の中では、今回の大型案件の成功と、今後の営業戦略がグルグルと渦巻いていた。
「主任、ねえ、主任!」
突然、幸が弾んだ声で話しかけてきた。
嶺は一瞬、眉をひそめる。彼の思考回路は、常に仕事のことで占められていたからだ。
「なんだ?」
「あの、由比パーキングエリアって、この先ですよね? 私、由比の桜えび、すごく好きで!」
幸はスマホの画面を嶺に見せる。そこには、由比PAからの駿河湾の絶景写真が映し出されていた。
「由比って、海がすごく綺麗だって聞きました! 少しだけ、寄っていきませんか? 海、見たいです!」
彼女の提案に、嶺は軽く驚いた。
彼の人生において、「寄り道」という概念はほとんど存在しなかったからだ。
顧客への移動は、最短ルート、最速で。それが彼のモットーだった。
しかし、幸のキラキラとした瞳を見ると、いつも通りの「時間がない」という言葉は、なぜか喉の奥につっかえて出てこなかった。
それに、新人が獲得した初の大型案件への移動中だ。
彼女の小さな願いを叶えるくらい、バチは当たらないだろう。
「……ああ、構わない」
嶺の短い返事に、幸の顔がパッと輝く。
「やったあ! ありがとうございます、主任!」
由比パーキングエリアの駐車場に車を停め、二人は海へと続く展望台へ向かった。
目の前には、絵画のような絶景が広がっている。
どこまでも広がる紺碧の駿河湾、その向こうには、雄大な富士山のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
潮風が肌を撫で、都会の埃っぽさを洗い流してくれるようだ。
「うわあ……! すごい、本当に綺麗ですね!」
幸は展望台の手すりに身を乗り出し、感動の声を上げる。
その横顔は、まるで少女のようだった。
嶺は、そんな幸の様子を横目で見ていた。
彼にとって、海はただの景色の一部であり、特に感動を覚える対象ではなかった。
だが、隣で目を輝かせている幸を見ていると、不思議と心が穏やかになるのを感じた。
「主任も、たまにはこういうところで息抜きした方がいいですよ!」
幸が笑顔で振り返る。
「……そうだな」
嶺は短く答えた。
彼自身も、知らず知らずのうちに、展示会の疲れと、連日の激務で張り詰めていた心が、少しずつ解きほぐされていくのを感じていた。
海を眺めながら、二人の間に沈黙が流れる。
しかし、それは決して気まずいものではなかった。
ただ、波の音と、遠くで聞こえる車の走行音だけが、彼らの間を埋めていた。
この時、二人の距離は、確かにわずかに縮まったかに見えた。
心の奥底で、何かが確かに芽生え始めていたのかもしれない。
だが、残念ながら、嶺はその微細な変化を捉えきれていなかった。
彼は、ライトノベルの世界では「魔法使い」の資格を持つほど聡明だったが、現実の、特に恋愛に関しては、絵に描いたような鈍感主人公だったのだ。
休憩を終え、再び車に乗り込んだ二人。
車内では、今度は会社への愚痴から、業界の現状、未来の展望に至るまで、様々な話題が飛び交った。
「うちの会社も、もう少しIT化進めてほしいですよねー。部長のPCとか、まだWindows95とかじゃないですか?」
幸が冗談めかして言うと、嶺は小さく頷いた。
「まあ、中小企業はどこもそんなものだ。それに、うちみたいな小さな商社が生き残るには、泥臭い営業しか道はない」
「でも、今回の焼津の高専の案件みたいに、新しい技術とか、環境に配慮した製品とか、もっとアピールしていけば、違う未来が開けるんじゃないかなって思うんです!」
幸の言葉は、嶺の心に響くものがあった。
彼自身も、今の業界の閉塞感や、会社の旧態依然とした体制に不満を感じていなかったわけではない。
しかし、それを変えるだけの行動力は持ち合わせていなかった。
幸の言葉は、彼の内側にある、微かな変化への願望を刺激する。
「……そうだな。結城の言う通りだ」
嶺が珍しく、率直な同意を示した。
幸は嬉しそうに微笑む。
「やっぱり主任もそう思いますか! 私、もっと色々なこと勉強して、会社を良い方向に変えていきたいんです!」
彼女の言葉には、確かな情熱が宿っていた。嶺は、彼女のそんな真っ直ぐな向上心に、改めて感心する。
しかし、二人の会話は、あくまで仕事や業界の未来に関するものに終始し、プライベートな感情が交錯することはなかった。
嶺は、幸が自分に寄せている(かもしれない)淡い恋心には、まったく気がついていない。
幸もまた、嶺の言葉の裏に隠された(かもしれない)微かな好意を読み取ることはできなかった。
広がる東名高速の直線道路。EVカーは、時速100キロで西へと向かっていく。
彼らが、この先に待ち受ける運命を、そして、その車が、彼らを時間と空間の彼方へと誘う「タイムマシン」となることを、まだ誰も知る由もなかった。
焼津へと向かう道のりは、単なる移動ではなく、彼らの人生、いや、日本の歴史をも大きく変える、始まりの旅だったのだ。