幸のやきもち
怒涛のような一ヶ月が過ぎ去る頃には、桜が始めた商売はすでに軌道に乗っていた。
彼女の聡明さと、嶺や幸からの助言で得た現代知識を活かした商才は、この時代の常識を遥かに凌駕し、瞬く間にその名を轟かせた。
特に、彼女が始めた商売は、相良の領民たちに驚きと恩恵をもたらし、その生活を豊かに変えつつあった。
一方で、嶺のもう一つの事業であるレンガ作りも、その規模を加速度的に拡大させていた。
当初、彼が河原に作った小さな窯は、製油工場の建設スピードには全く追いつかず、すぐに限界を迎える。
そこで嶺は、河原近くに広大な敷地を確保し、付近の村人たちを総動員して、巨大なレンガ焼き窯を建設させた。
村人たちは日当を得て雇われ、途切れることなくレンガを焼き続ける。
彼らの働きによって、製油工場の建設は目覚ましい進捗を見せ、相良の産業基盤は着実に強化されていった。
桜の事業は、まさに相良の元領民たちを全員巻き込むかのような勢いで拡大していった。
彼女は、領民たちの生活を直接的に支えるため、相良に直営の商店を開設した。
駿府から日用品や雑貨類を直接仕入れ、中間マージンを極力排除することで、良質な品々を安価で提供することを可能にしたのだ。
領民たちは、これまで手に入りにくかった品々が身近になったことに喜び、桜の商店は連日賑わいを見せた。
今や嶺も、幸と一緒に仕入れのために東奔西走する日々を送っていた。
焼津や駿府といった商業都市では、彼らの名もすっかり知れ渡り、多くの商人たちから声がかかるようになっていた。
特に、彼らが持ち込んだ現代の知識や品々は、この時代の商人たちにとって新鮮な驚きであり、新たな商機を生み出す源となっていた。
そんなある日、幸がふと口を開いた。
「ねえ、嶺さん。私たち、この時代に持ってきた服や下着、そろそろ限界じゃない?」
嶺は、自分の着ているシャツの袖口を見て、確かに擦り切れていることに気づいた。
「ああ、そうだな。特に俺の服は、冬になったらこれだけじゃ寒すぎるだろうしな」
幸は、桜と親しくなってすぐに、この時代の下着を入に入れたようだったが、普段着ている洋服はそうもいかなかった。
和服ならば焼津でもどうにか仕入れられそうだったが、和装に慣れない幸は諦めていたのだ。
嶺の言葉を聞いて、幸は言った。
「じゃあ、服や下着の仕入れ、本格的に考えましょうよ!」
嶺は、日頃から親しくしている駿府の商人にこの件を相談してみた。
「和装ならばいくらでもご用意できますが、洋装ともなると……」
商人の答えは、嶺の予想通りだった。やはり、この時代に洋装は存在しない。
結局、嶺は商人から質の良い綿布をそこそこの量仕入れ、焼津の屋敷へと戻った。
屋敷に戻るやいなや、敷地内に止めてあるEV車に向かった。
車の中には学校設立のためにあらゆる機器類を搬入する途中だったため、車内には家庭科室で使用するミシンまで積まれていたのだ。
嶺は慣れない手つきでEV車に籠り始めた。
嶺は、端末を操作してCADからシャツとトランクスの型紙を印刷し、それを綿布に当てて自分で裁断した。
そして、ぎこちない手つきでミシンを動かし始める。
ジャーッ、ジャーッとミシンが縫い進む音だけが、静かな車内に響き渡る。
彼がちょうどトランクスを縫い終えた頃、屋敷のメイドたちを引き連れて幸がEV車の中に入ってきた。
「あら、嶺さん、何してるの?」
幸は、嶺が縫い上げたばかりのトランクスを見て目を丸くした。
幸も、この時代の下着には少々不満を感じていたところで、自分たちで作ってみようと考えていた矢先だったのだ。
幸は、ここぞとばかりに嶺を車内から追い出し、メイドたちとキャッキャとはしゃぎながら、自分たちの下着や簡単な洋服を作り始めた。
EV車の中は、女性たちの賑やかな笑い声と、ミシンの小気味良い音に包まれた。
嶺は、外からその様子を眺めながら、どこか誇らしげな気持ちになっていた。
ちょうどその頃、芝島夫婦が屋敷を訪ねてきた。
彼らの目的は、オイルランプの増産について相談することだった。
「嶺様から供給していただいている鉄も、量が安定せず、最近では焼津の商人を通して仕入れておりますが、材料を変えて弟子たちに任せようかと考えております」
芝島は、困ったように眉を下げた。
嶺は腕を組み、しばらく考え込んだ。
鉄の供給が安定しないのは、現代からの物資輸送が完璧ではないためだ。
しかし、この時代の技術で鉄を大量生産するのは難しい。
「では、材料を真鍮に変えてみてはどうでしょう?」
嶺は提案した。
「真鍮ならば加工もしやすく、より安価で作れるはずです。そして、相良の領民に向けても販売していくことにしましょう」
芝島夫婦は、嶺の提案に目を輝かせた。
「さらに、作り方も見直しましょう」
嶺は続けた。
「これまでは家内制手工業が中心だったようですが、それでは生産量に限界があります。工場製手工業へと移行させて、より効率的に、大量生産できる体制を整えるべきです。作り手も増やし、増産に入りましょう」
こうして、オイルランプの生産は新たな局面を迎えることになった。
真鍮製のオイルランプは、従来の鉄製のものよりも軽量で扱いやすく、さらに安価であることから、相良の領民たちの間で瞬く間に普及した。
夜の闇を明るく照らすオイルランプは、彼らの生活に確かな変化をもたらした。
真鍮の仕入れ、自分たちの服の布の仕入れ、そして真鍮製オイルランプの納品などで、嶺が一人で駿府に出向くことが増えていった。
時には、後藤田も同行することがあった。
後藤田は、元々桜に仕える庭師であり、維新前までは相良家の忍びをまとめる人物だったが、今では嶺との仕事の方が多くなり、庭師の仕事は全くできていなかった。
だが、彼の持つ情報収集能力や、裏社会にも通じるコネクションは、嶺の事業拡大に大いに貢献していた。
ある日のこと、嶺は後藤田と一緒に駿府に出向き、馴染みの商人から接待を受けることになった。
商社マン時代には接待をする側だった嶺にとって、受けるのは初めての経験だった。
どこか浮かれた気分で接待を受けた嶺たちが連れていかれたのは、駿府でも有名な小妓楼の鈴屋だった。
ここは江戸から続く吉原と並ぶ格式を誇る遊郭の中でも一番と噂される小妓楼で、「お徳様」扱いの嶺たちは、馴染みの商人から至れり尽くせりのフルコースの接待を受けた。
豪華な料理と美酒、そして艶やかな妓女たちの舞。
嶺は、これまでの人生で味わったことのない、全く新しい世界に足を踏み入れたような感覚に陥っていた。隣では後藤田も、嶺以上に楽しんでいるようだった。
翌朝、焼津の屋敷に帰った嶺を待っていたのは、女性陣からの強烈な当たりだった。
特に、幸の視線はこれまでになく厳しく、まるで氷点下の冷気を放っているかのようだった。
「どうも後藤田あたりから、桜嬢様に全て報告が入っているようで……」
屋敷内のいたたまれないような空気を察した執事の近藤さんから話を聞いた。
嶺は、後藤田を睨んだ。
後藤田も一緒に、いや、嶺以上に楽しんでいたはずなのに、なぜ自分だけがこんな目に遭うのかと、嶺は納得がいかなかった。
桜もまた、後藤田からの報告を受けた時には、一瞬眉をひそめた。
嶺が遊郭に行ったと聞き、普段は冷静沈着な彼女も、内心穏やかではなかったのだ。
この時代の男性にとって、遊郭に行くことはごく自然なことだ。彼女はそれを頭では理解している。
だが、だからといって、その行為に面白みを感じるわけではない。
むしろ、現代の価値観を持つ幸から聞いていた桜にとっては、どこか陳腐にすら感じられた。
しかし、桜はすぐに自分を納得させた。
「嶺は、協力者であって許嫁でもない。そして、接待ではどこにでもある話なのだ」
彼女は理性で感情をねじ伏せた。
その一方で、嶺の行動に、これまで意識しなかった感情のざわめきを感じている自分にも気づかされていた。
すったもんだのあげく、嶺はあの手この手で幸の機嫌をうかがった。
幸の怒りは根深く、嶺は数日にわたって彼女の機嫌を取り戻すために奔走した。
「幸、頼むから話を聞いてくれ!」
嶺は幸の前に跪き、必死に謝罪の言葉を並べた。
幸はぷいと顔をそむけ、口をきかない。
その時、そばで成り行きを見守っていた桜が、そっと幸に近づいた。
「幸さん、嶺さんも悪気があってしたことではないでしょう。それに、この時代のしきたりというものもあります。もし、嶺さんが本当に幸さんのことを大切に思っていないのなら、こんなに必死に謝ったりしないはずですよ」
桜の言葉は、冷え切っていた幸の心に、そっと温かい光を灯した。
幸は、嶺の必死な姿と、桜の言葉に揺れ動いた。
二日後、ようやく幸の機嫌は治まった。
しかし、この一件は、嶺と幸の関係に小さからぬ変化をもたらした。
それからの幸は、嶺のことを「主任」ではなく、どこか甘えた響きで**「嶺さん」**と呼ぶようになったのだ。
その声には、以前にはなかった、ほんの少しの甘えと、そして確かな信頼が込められているように聞こえた。
嶺は、幸の変化に気づき、密かに喜びを感じていた。
彼は、この時代で、幸というかけがえのない存在と、共に生きていくことを改めて心に誓ったのだった。