第二章 一流への道 5-その赤い糸が紡ぐ先に
とある営業日にトレインがこんな情報を持ってきた。
「聞いてくれよ。どうやら巷で『幻のスパイス』というものが最近売れているらしいんだ。これをNoir L'aubeでも料理で使ってみたらどうだろう?」
「『幻のスパイス』? すごそーじゃねぇか。ダルク、買ってこれるか?」
「わかった、すぐ行ってこよう」
*
『幻のスパイス』とやらが売られているのはどうやら街はずれらしい。
Noir L'aubeから少し距離はあるものの、ダルクにとってそれほど苦にはならず歩いている。
すると路地を右に曲がって住宅街に入ったところで小さな女の子の声が聞こえた。
「あ! 風船が!!」
声の聞こえた方向を見てみると、女の子の持っていたであろう風船が近くの街路樹に引っかかってしまっている。
『助けてあげよう』と思ってダルクがその木に近づいている最中、一足先に近くを歩いていた女性が駆け寄った。
しかし、その女性の身長でも風船は届かない位置にある。
「君の身長でも届かないだろう。少し待っててくれ」
そう言ってダルクが少し背伸びをして風船を取って、女の子に渡す。
「ほら、風船だ。こちらの女性にも礼を言うんだぞ。って……!!?!?」
ダルクは傍らの女性を見て目を疑った。
「あら? もしかしていつぞやの……?」
そこにいた女性は、ダルクが想いを募らせていたロゼである。
「またお会いできて嬉しいです!お元気でしたか? あ、私はロゼと言います!」
「ろ、ろろろロゼさん、ごきげんよう。きょ、今日はどうしてここに?」
ダルクの頭はショート寸前へと追い込まれた。そのことに気づいてないのはロゼだけだ。女の子はダルクの変貌ぶりにドン引きして離れていった。
「私は、えっと、なんでしたっけ……そう! 『幻のスパイス』とやらを買いに行こうとしてまして!」
「奇遇ですね! 私もそれを買いに行くところだったんです! よければご、ごごごご一緒しませんか?」
「よろしいんですか? ぜひともよろしくお願いします!」
『幻のスパイスよ、ありがとう!!』とダルクは心の中で叫んだ。
「ところでそちらはどうして『幻のスパイス』を……? あっ、以前レストランを経営してると仰ってましたものね! ごめんなさい、私あの時あなたのお店を見つけたらうかがうと言っていたのに、見つけられなくて……」
ダルクの目から見るロゼは、どんな仕草も可愛く見える。まるで花が咲くようだ。
「いや、いいんですよ! まだ、た、たたた建てたばかりでしたから……。では、その時はどちらでお食事を?」
「えっと、確かあの時は『ガストロ・ボヌール』でお食事をしたような……」
「『ガストロ・ボヌール』ですか……」
『いつかどんな店か偵察してみようかな』と思案しているダルクに、ロゼはパンッと顔の横で手を合わせながら聞く。
「そんなことよりも! あなたのお店を教えてくださいな!」
「えっ、あぁ、お店! えっと、Noir L'aubeと言います。私はオーナー兼ソムリエの、だ、だだだ、ダルクです」
「ダルクさんと仰るんですね。オーナーもソムリエもやってるなんて、素敵です!」
「い、いやぁ……そそそそれほどでも!」
ロゼに褒められてダルクの顔はでれでれである。『ソムリエの資格取っておいてよかった……っ』と内心ガッツポーズをしている。
街並みが商店街に変わって、ロゼはこんなことを言い出した。
「もしお店のお味に自信があるなら、コンテストとかに出てみたらどうでしょう? 確か来年の十二月三十一日……ニューイヤーズ・イブにアーシェルヴィア中のレストランが集まる大きなコンテストが行われるんです! もし優勝できたら……っくしゅん!」
ロゼは話の途中でくしゃみをした。もう季節は冬に近いので外はだいぶ寒くなってきている。
「大丈夫ですか? 私の上着でよければ……」
そう言ってダルクは自分の着ていた上着をそっとロゼの肩にかけてやった。ロゼはほっと安心したように息をついて、嬉しそうにダルクを見上げる。
「よろしいんですか? ダルクさんが寒くないといいのですけれど……」
「私は大丈夫です」
今の一言が緊張でかみかみにならずに言えたことにダルクも安堵していた。『あぁ、それにしても可愛すぎる!!』とダルクはこれでも内心のたうちまわっている。
そうしているうちに目的の店が見えてきた。
「あ、あそこですね!」
「そ、そそそそうですね!」
*
「いらっしゃいませ」
暗めな店内には所せましと様々なスパイスが並んでいた。腰を丸めた年配の店主が一人、店のカウンターに座っている。
「こんにちは。ここに『幻のスパイス』とやらは売っているか?」
「あぁ、それならこれだよ」
なんと、そこには。あと残りひとつとなった『幻のスパイス』の筒が置いてあった。
「あとひとつだなんて……、店主、もう無いのか?」
「あぁ、次の入荷日はまだ先だね」
「そんな……」
そんなやり取りを横で聞いていたロゼはきゅっと胸元で手を握り締める。
「ダルクさん、どうぞ買っていってください。私は大丈夫ですので」
そう微笑むロゼの顔を見て「ロゼさん……!」とだけ発したダルクだが、内心迷っていた。
レストランも大事だが、目の前のこの女性を喜ばせたい。そう思ってしまうことは悪いことなのだろうか。
「いや、私は大丈夫です。ロゼさんが買ってください」
「でも……!」
「私はシェフを信じてますから」
その言葉を聞いて、ロゼは嬉しさと申し訳なさを表情に見せながら「ではお言葉に甘えて」と言って『幻のスパイス』を購入したのだった。
*
店の外に出ると今年最初の雪が降っていた。
「わぁ、初雪ですね!」
「本当ですね。どうりで寒いわけだ」
「『幻のスパイス』を譲っていただけましたし、初雪をダルクさんと見られて……私とても嬉しいです!」
「そ、そそそそそれは私もです」
『可愛い、可愛すぎる……あなたが女神なんですか!!』とダルクが内心悶えていると、ロゼはそっと着ていたダルクの上着を返しながら。
「これ、ありがとうございました! お屋敷に戻らなければならないので、これで失礼します」
「えっ……と、途中までお送りします!」
「いえ、大丈夫です! 今日は本当にありがとうございました」
そう言いながらロゼはにこっとダルクに笑って見せると、再びズキューーーン!!!とダルクの心は射抜かれた。
「あ、そ、それならお気をつけて……」
*
ダルクは一人、夢見心地のような顔で帰路を歩く。
『幻のスパイス』を手に入れられなかったが、心はほっこりとしていて。
今日の出会いはまるで、美しいけれど溶けて消えてしまう雪のようだ、などとロマンチックなことを考えたりもした。
*
Noir L'aubeの厨房に入るドアを開けてダルクは苦笑しながらこう言った。
「みんな、すまない。売り切れてたよ」