第二章 一流への道 3-sugar & bitter
とある休みの日、トレインは行きつけのバーに向かうために路地を歩いていた。
空は夕暮れで、住宅街の家々は夕飯の支度をしているのか路地まで美味しそうな匂いが漂っている。
すると。
「なぁ君、俺らとちょっと遊ばねぇか?」
トレインは路地の先で聞こえてきた声に眉をひそめる。見れば二十歳ほどの女の子が腕っぷしの強そうな男たちに迫られていた。
「あ、お巡りさん良いところに! 女の子が男たちに絡まれてますよー!」
トレインが傍らの道の方を見ながら大声を上げると、男たちは慌ててその場を走り去る。
女の子は男たちが離れるのを確認してホッと胸を撫でおろした。
「大丈夫かい? 怖い思いをしたね。これから夜になるから早くこの通りは抜けた方がいいよ」
「助けていただいてありがとうございました! あの、もしかしてお巡りさんというのは……?」
「あぁ、僕がついた嘘さ。僕は喧嘩はからっきしだからね」
トレインが笑って見せると、女の子もくすっと笑顔を見せる。
「あ、その……私、道に迷ってしまったんです。セルニア通りはどこかお聞きしても?」
「セルニア通り? 僕のレストランがある通りじゃないか! 正確には僕と仲間の、だけどね。よければそこまで案内するよ」
トレインの申し出に女の子はぱぁっと明るい表情になった。
「はい! よろしくお願いします!」
*
「そうだ、お名前を伺ってもいいですか?」
「僕はトレインだよ」
「トレインさん……。素敵なお名前ですね!」
トレインと女の子の会話は弾む。傍から見れば恋人同士のようであった。
話題はNoir L'aubeの話になり、『仲間が女の子に惚れてとっさについてしまった嘘からレストラン経営が始まった』という話は心を掴むのに十分な話題だった。
「へぇ……面白いです! トレインさんはそのお仲間の夢を手伝ってるんですね」
「うん、まぁそんなところ……と言いたいのは山々なんだけどね。もうNoir L'aubeの成功は僕の夢なんだ。最近は楽しくてしょうがないよ」
トレインの優しい表情を見ていた女の子は胸が高鳴る感覚を覚える。そしてうつむき、突然こんなことを聞いた。
「トレインさんって、優しいですよね。恋人は……きっといます、よね?」
「え?」
トレインはこの会話のムードに覚えがあった。これまで何度も体験してきて、わかっている。
「今はいないよ」
「そう、なんですか?」
女の子の表情が明るくなった。
やはりそうだ、とトレインの予感は告げる。しかし、こうも純粋そうな女の子に好意を向けられて思うのは自分のような詐欺師が本当の恋愛を楽しんでいいのか、ということだった。
レストラン経営に携わるようになってからまだ詐欺はしていない。けれど、時と場合が重なれば自分は詐欺を働いてしまうだろう、とトレインは思った。
そうなるといずれ捕まるリスクは増える。犯罪者にとってそれは避けられない運命だ。その時トレインは彼女を悲しませてしまうだろう。
しかし……、まだ肝心の告白の言葉はない。もしその時が来た時はできるだけ優しく、傷つかせないように断ろうとトレインは思ったのだった。
そうこう思案しているうちにNoir L'aubeがあるセルニア通りに着いてしまった。
「ここがセルニア通りだよ。そしてここが僕が働くレストラン、Noir L'aubeさ。今日は休業日だけど、もしよければ今度食べに来てくれないかな? すごく美味しくなったんだ」
「ここが……! わかりました! 次の水曜日にまたこの近くに来る予定があるので、お昼はここで食べることにします!」
「うん、ありがとう」
女の子は嬉しそうに手を振ってトレインの元を離れた。
「……可愛かったなぁ」
ちょっと、断る気持ちが揺らいだ。
***
翌々日。トレインは少し心が落ち着かなかった。今日は水曜日、あの子が来るかもしれないのだ。
ダルクは営業時間が始まる少し前、アレンと何やら話してから皆に発表した。
「皆、今日からアレンにもホールを手伝ってもらうことにする。まだ文字は少ししか書けないから注文はトレインに任せるが、料理を運んだりするのはアレンにも頼もう」
発表があった後、アレンはトレインに質問をする。
「あの、トレインさん。ホールの仕事では何を大切にしてますか?」
「うーん、そうだな……失礼の無いように、ってのは気を付けたいところだけど、もっと言うならお客さんが何かしてしまった時にフォローをするのが大事だと思うよ。ほら、例えばお客さんが料理をこぼしてしまった、ってときは『大丈夫ですよ』って笑顔で対応したり、替えの料理をお出ししたりね」
「なるほど……! ぼく頑張ってみます!」
そう言ってやる気を出すアレンにトレインは微笑んで見せた。
*
お昼の一時頃、Noir L'aubeに先日の女の子が訪れた。
「トレインさん、こんにちは!」
「あ、この前の! 来てくれてありがとう。お客さんに人気の窓側の席を用意するね」
トレインの粋な計らいに女の子は嬉しそうに頬を染める。
そのまま席に誘導された彼女は気持ちよくオーダーをした。
ここのところNoir L'aubeの売り上げは上がってきており、特にお昼頃となると客が多く入る日もあった。この日も例外ではない。
「お待たせいたしました。ナポリタンとオレンジジュースです」
トレインが女の子に料理を出すと、女の子は「ありがとうございます!」と嬉しそうに笑った。
もう少しその余韻に浸っていたいところだったが、他の席からオーダーの呼び鈴が鳴ってトレインはすぐ向かわなければならなかった。
そして女の子が食事を楽しんでいたところ。
「あっ……!」
手が滑り、飲み物をこぼしてしまった。そこにアレンが通りかかり、「大丈夫ですか!」と駆け寄る。
「ごめんなさい、手が滑ってしまって……!」
「大丈夫です、すぐに拭きますね」
アレンがそう優しく笑って丁寧に布巾でジュースをふき取った。
女の子がしゅんとしていると、アレンは自分の手を見せる。
「ぼくの手を見ながら、ぼくが言った通りに唱えてみてください」
「え……?」
「『オレンジジュースが元通りになりますように』」
女の子はその言葉に目を見開き、言われたまま唱える。
「オレンジジュースが、元通りになりますように……」
その瞬間、もう片方のアレンの手が指を鳴らした。
すると女の子が見つめる先の手から小さな花束が出てきて、アレンはそっと女の子にその花束を渡す。
「隣の席をご覧ください」
「えっ……あ!」
そこには女の子に提供される前の状態に戻ったオレンジジュースがあった。アレンはひょいとそのオレンジジュースを女の子の席に置き、「この後もお食事をお楽しみください」と笑ってその場を立ち去る。女の子の心は、そのひと時で奪われた。
*
帰り際、夢見心地な女の子はトレインに声をかける。
「あの、ちょっといいですか……?」
トレインはいよいよ告白かもしれない、と胸を高鳴らせた。しかし。
「あの、ホールにいた男の子のお名前はなんて……?」
「え」
そうして、トレインの密やかな恋心は無残に散ったのであった。