1話
私は王宮の大広間――夜会の真っ最中に婚約解消を告げられた。
ちなみに解消を口にした当の婚約者はこの国の第一王子で王太子殿下だ。煌びやかなジュストコールにクラヴァットの出で立ちだが。傍らには柔らかそうなダークブラウンの髪に榛色の瞳が愛らしい可憐な少女がいる。淡いピンクのドレスを身に纏っている。確か、サリビ子爵家のニーナ嬢じゃなかったかしら。
「……ナタリア・ヒルデガルト侯爵令嬢。あなたとはこの場を以て婚約を解消する!」
「……承知致しました。キーラン王太子殿下」
「私に他に言いたい事はないのか?」
煌びやかに着飾った紳士淑女方が遠目に見る中、私は持っていた良い香りのする扇を広げた。これは東方の島国から父上に頼み込み、取り寄せてもらった特注品だ。何でも竹に特殊な香油を浸して乾燥させ、それを扇骨に使ってある。それで顔を隠しながらそっとため息をつく。
「残念ながら。何にもございません」
「な。泣いて取り縋るとか、嫉妬して怒るとか。そんな事もしないのだな」
「……どうして私がそんな無駄な労力を使わないといけないのですか。もう婚約解消は受け入れたのですから」
「そういうわけにはいかない。ナタリア。私とあなたの仲だろう」
「殿下。私はもう先程からあなたの婚約者ではないんです。もう帰らせていただきますわ」
私は扇を閉じると。今までで一番丁寧にカーテシーを行った。これで顔だけの婚約者から開放される。その一心で辞儀も深々とした。カーテシーから元の姿勢に戻す。くるりと踵を返して夜会に背中を向けたのだった。
たった一人で停車場まで歩いた。ああ、疲れた。確かにキーラン・マーレイ王太子殿下は顔が良い。黄金のサラサラした髪に深みのある青い瞳、すらりとした長身の美男だが。外見だけだ。性格はかなりの傲慢で俺様なヤツだし。何かと私の外見やら所作にケチをつけてくる。細かいわ口うるさいわで取り柄はない。あら、本当にダメンズね。姉に聞いた最近の市井の流行り言葉らしいが。なかなかに言い得て妙ね。一人でブツブツと考えながらいつの間にかわが家の馬車の前まで来ていた。
「……おや。お嬢様。もうお帰りになるのですか?」
「悪いわね。ダン。もう帰るわ」
「わかりました。ちょっとお待ちを」
ダンと呼んだ御者は台から降りるとタラップを準備したりとテキパキと動く。すぐに用意ができると馬車の扉を開けてくれた。ダンに助けられながら乗り込む。
「……もう出してちょうだい」
「はい!」
扉が閉められたら。私はすぐにダンに声をかける。馬車は動き出したのだった。
自邸に戻るとすぐにエントランスホールに向かう。そこにはメイドのアエラとイリア、エリスの3人が並んで待っていた。
「……お帰りなさいませ。お嬢様」
「只今戻ったわ。着替えを終えたら。父上に話があるの。そう今から伝えて」
「かしこまりました。旦那様にお伝えしてきますね」
アエラが言うと小走りで向かう。私は先に自室に戻る。夜会用のドレスから着替えるためだ。イリアやエリスが付いてきた。
足早にエントランスホールを突っ切り階段を上がる。踵の高いヒールを履いているから歩く速さは知れているが。それでも2階に上がり右や左に曲がった。2つか3つ角を曲がると自室のドアの前にたどり着く。イリアが小走りでやってきてドアを開けた。中に入り閉めたら。イリアとエリスが慌てて身につけているアクセサリー類を外していった。
「……お嬢様。お化粧は少し直す程度にしますね」
「時間がないから仕方ないわ。父上の書斎に行くから。デイドレスをお願いね」
「わかりました。ちょっとお待ち下さいね」
イリアが頷くと急いで衣装部屋に行った。エリスは一旦私に寝室の鏡台に行くように言う。頷いて寝室に向かった。
エリスに口紅を塗り直してもらったり白粉もはたき直してもらう。結い上げていた髪につけていたヘアピンやヴァレッタを外し、髪紐で緩く束ねた。イリアが部屋着用のワンピースを持ってこちらにやって来る。
「……お嬢様。とりあえず、ワンピースを持ってきました。こちらでいいですか?」
「見苦しくなければそれでいいわ。髪はおろしたし。お化粧も直したから」
「では。お召し替えをしましょう」
イリアの言葉を合図に鏡台の椅子から立ち上がった。ドレスを脱ぎ、ワンピースに着替える。不意に寝室と居間を繋ぐドアがノックされた。返答をしたらすぐに開かれる。入ってきたのは父上の書斎に行っていたアエラだ。
「……お嬢様。旦那様がお話を聞きたいから書斎に来るようにとおっしゃっています!」
「わかったわ。今、ちょうど身支度は終わったから」
「はい。頑張ってきてください」
私はアエラに頷くと立ち上がり寝室を出る。代わりにエリスとイリアが付いて来てくれた。父上の書斎に向かった。
その後、書斎に着くとイリアがドアをノックした。
「……旦那様。お嬢様をお連れしました」
「……入りなさい」
中から父上の声で返答があった。イリアはドアを開ける。私はするりと身を滑らせるように入った。
ドアが閉められると書斎の執務机の備え付けの椅子に父上が座っていた。私と同じ真っ直ぐな黒髪を短く切り揃えて後ろに流している。厳しく寄せられた眉に鋭い切れ長な目。こちらも私とそっくりで色も淡い藍色だ。
「……それで。ナタリア。話とは何だ?」
「……あの。今日の夜会にてキーラン殿下から婚約を解消するとお言葉がありました。そのことで父上に相談がしたくて」
「な。殿下が?!」
私は頷く。すると父上は眉間を指で揉みながら唸った。
「とうとうあの若造。やらかしたか」
「はあ。そのようですね」
「成程な。陛下には私からも言っておく。ナタリア。お前は今後はどうしたいんだ?」
「……まだはっきりとは決めていません」
「なら。侯爵領――ツェルニー領に戻るか。あちらなら息子達やセレーネもいるし」
父上は仄かに笑いながら言った。ちなみにセレーネは母上で息子達は兄上達の事だが。長兄がサリアスで次兄はショーンという。姉上はスカーレットといった。4人は現在、ツェルニー領――つまりはヒルデガルト侯爵領の本邸にいる。父上と私の2人だけで王都に来ていた。
「……ツェルニーにですか。わかりました。早速、明日にでも荷造りなどを始めますね」
「そうしたらいい。ナタリアも王都にいるよりは領地の方が過ごしやすいだろう」
「ええ。兄上達に姉上や母上に久しぶりに会えますし」
頷くと私は書斎を出ることにした。父上に言うと「もう遅いから早めに休みなさい」と注意される。私は軽くお辞儀をしてから書斎を出た。
自室に戻るとイリアやエリス、アエラに言って湯浴みをした。浴室から出るとネグリジェに着替えて寝室に向かう。そのまま、ベッドに入った。瞼を閉じたらすぐに夢の世界へと旅立ったのだった。