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ゴボキボキボキ男の日々

 ボキ、ボキ、ボキ、ボキ。ゴボキボキボキ男が目を覚ました。ひどい痛みだ。鉄のように固い布団に背中がやられた。足も痙攣してうまく起き上がるのに一苦労だ。時刻は午前五時を回ったところ。こんな寝心地の悪い布団であるから、目覚ましなどなくともいつも早起きだ。顔を洗って、さっそくゴボキボキボキ男は朝食を作る。毎朝忙しいゴボキボキボキボキ男にじっくりと料理を作っている時間はない。朝食はだいたい目玉焼きと食パンだ。

 ゴボキボキボキ男はフライパンから目玉焼きを皿にのっけた。ゴボキボキボキ男は不器用で、何をやってもなかなか上達しない。何度も作っている目玉焼きなのに、いつも形がしなびて垂れ下がった乳房のようになってしまう。彼は四十になろうというのに独り身で、毎朝不味い目玉焼きを食べる度に、自分に美味しい朝食を作ってくれる奥さんがいたらどんなに幸せだろうと考えるものの、それは叶わぬ望みというもの。朝食を済ますと、ゴボキボキボキ男はいそいそとスーツに着替え、家を出た。

 ゴボキボキボキ男の勤める会社は家から遠い。何度も引っ越しを考えたくらいだ。ゴボキボキボキ男は駅まで駆け足で向かった。「今日は間に合うといいが…」と独りごちた。定時の電車に乗っていつも通り二時間で会社に着けば間に合うものの、調子が悪いと三時間かかる。三時間ならちょっとした遅刻ですむものの、四時間、五時間となると大遅刻だ。そんな遅延はこれまで殆ど、いや全くなかったというのに、ここ最近奇妙なことに長い遅延をする事が増えた。二回連続で会社に二時間遅刻したときは、鉄道会社を訴えてやろうと思った程だ。しかし、無論そんなことできようもない。毎日生活に追われているゴボキボキボキ男に裁判などしてる時間もお金もないのだ。

 駅に向かっている途中、ゴボキボキボキ男は突然足を止めた。どうやら道に迷ったらしい。しかし、おかしなことに彼はいつもどうりの道を走ってきただけで、迷うような地点などどこにもなかった。もう何千回と通った道だ。いまさら間違えるわけがない。ゴボキボキボキ男は苛立った。一体どうしたというのだ。いつもどうりの道を、いつもどうり通っていって何故こんなところにでてしまうのか。見たことのない住宅街だ。そこら中同じような、なんの特徴もない家が建ち並んでいる。これではどっちにいけばいつもの通勤路にもどれるのかもわからない。どうしたものか‥

 思案していると、若い女が通りかかった。不思議なことに、その女の顔はピカソの「泣く女」そっくりだった。彼女は黒いドレスを纏い、紅いハイヒールでカツカツと音を立てながら優雅に道を歩いている。ゴボキボキボキ男はこんな妙な人間にそうとう話しかけたくなかったものの、会社に定時に出勤するためとなれば仕方なし、彼女に道を聞くことにした。

 「もしもし。すみません。」

 「はい。」と返事したが女はずいぶん驚いたようすだった。(もっとも、もとの顔が顔であるだけに本当のところはわからないが)

 「どうも道に迷ってしまったみたいでして、どっちに行けばいいのかわからないのです。この辺に駅があると思うんですが、どっちの方向でしょうか?」

 「知りません。すみません。知りません。」女は駆け足でその場を去ってしまった。慌ててゴボキボキボキ男から逃げるような様子だった。全く失礼な話だ。あの顔で自分が男から狙われているとでも思っているのだろうか?これで手がかりが完全になくなってしまった。「くそ!」ゴボキボキボキ男は地団駄を踏んだ。このままでは会社に遅刻してしまう。脳裏に上司の顔が浮かんだ。上司の顔のパーツは全部が中心に寄って集まっていて、何か話すといちいちの表情が不思議なほど厚かましい印象をあたえた。「また君か…。ゴボキボキボキ男くん。君は自分の価値をわきまえているのかな?君は特別優秀な社員じゃないし、器用にものごとをこなすこともできない。君に与えられている仕事はロボットでもできるような簡単なものなんだ。もっともロボットはミスをしないが、君はミスも多い。最近に至っては定められた時間に会社に出勤することすらできないときた。いったいわたしたちはなぜ君を解雇して優秀なロボットを代わりに購入しないのか?君はこれまで真面目に働いてきたおかげで、かろうじて会社からの信用を勝ち得ているわけだ。君、四十になって妻子もいないわけだろう…。この上仕事までなくしちまったらまるで社会からの逸れもんじゃあないか。せいぜい自分が無価値な人間になる前に態度を改めるべきだとおもわないかな?うん?」こんな調子の説教をもう一度受けなければならないのだろうか?いや…もしかしたら事態はより悪い方向に進んでいく可能性すらあるのだ…

 ゴボキボキボキ男が自らの運命のあまりの悲惨さに頭を抱えていると、どこからともなくパタパタと足音がきこえてきた。誰かこちらに来るようだ。ゴボキボキボキ男は足音の方角をまじまじと見張った。こちらに向かって男が二人向かって駆けてくるようだ。見慣れた青い制服姿から、どうやら二人とも警官らしいことがわかった。ゴボキボキボキ男は安堵した。警官なら道に迷っていると言えば駅まで案内してくれるだろう。ゴボキボキボキ男が声をかけようとしたところ、先に警官のほうから話しかけてきた。

 「もしもし。君、この辺で女性と接触しなかった?」

 なるほど、どうもあの女が道に迷っている人がいると警察にしらせてくれたらしい。助かった。時には藁にもすがってみるものだ。

 「はい。ここを通りかかった方に道を聞きました。迷っているんです。出勤の最中で、非常に急いでいます。この辺に駅があると思います。案内してもらえるとありがたいのですが。」ゴボキボキボキ男はいち早く事情を伝えようと非常な早口で話した。警官のうちひとりは首をかしげた。もうひとりの警官が咳払いをすると、厳かな様子で喋りはじめた。

 「残念だが、駅へ案内することはできない。君には私たちと一緒に警察署まできてもらうことになる。ここに不審者がでたと通報があった。事情徴収にすこしばかり付き合ってもらわなければならない。」

 ゴボキボキボキ男は目玉が飛び出るような思いだった。どうもあの女はとんでもないことをしてくれたようだ。本当に、何故あんな化け物じみた顔面をした女がまともな人間であるなどと一瞬でも考えたのだろうか?あんな化け物に関わって百害あって一利なしなどということは、小学生でもわかる話だ!ゴボキボキボキ男は後悔と怒りの念で気が狂いそうだった。

 「いや、わたしは道を聞いただけです。彼女に対してなにかしがいかがわしいことをしたことは全くありません。道を尋ねたのも、会社に急いでいて、必死だったのです。どうも女の方が早とちりしたのかもしれない。とにかく、わたしは法に触れるようなことは全くしていないし、すぐにでも会社の方へ行かなければいけないのです。警察署まで一緒にいくことは出来ません。」こういう窮地のときは、堂々と、毅然としていなければならない。こちらに非は一切ないのだ。のこのこ警察署などにいくわけにはいかない。

「仮に君が法に触れるようなことをしていないとしてもね、通報が入ってしまった以上事情徴収をしないわけにはいかない。私たちも仕事でやっているわけだからね。別に君を疑っているわけじゃないし、困らせようとしているわけじゃない。まあ不運だが、抵抗はしないほうがいい。君が無罪であればこそ、抵抗することは君の立場をますます悪くすることになる。」

警官は相変わらず威圧的な態度で、ゴボキボキボキ男のことを連行しようとしている。ひどい話だ。もし彼等のせいで会社に遅れ、万が一会社をクビにでもなってしまったら、彼等が全ての責任を負ってくれるとでもいうのだろうか?四十になってなんの技能もないゴボキボキボキ男がいま会社をクビになったらどうなるだろう?まともな就職をすることはとても困難だろう。それこそいよいよ犯罪者にでもなるしかないかもしれない…

「さあ、一緒にきてもらおうか。」警官たちはいよいよゴボキボキボキ男を警察署へ連れて行こうとしている。もう一刻の猶予もないのだ、ゴボキボキボキ男は既に決断していた。警官たちの反向かって向かって一目散に駆けだした。ここは逃げるしかない。こちらも生活がかかっている。警察署などに連れて行かれてしまったら、会社にいけないどころか、冤罪の容疑者となり、とても厄介なことになるだろう。

 「待て!」警官もすぐに追いかけてくる。ゴボキボキボキ男は必死に走る。こんなに必死に走ったのはいつ以来だろう。ふと、サッカーボールを追いかけて一生懸命走っていた自分の姿が浮かんだ。 高校生の頃、ゴボキボキボキ男はサッカー部だった。彼はそれなりにサッカーが好きで、真面目に部活に打ち込んでいた。大してスポーツの強い高校ではなく、真面目にやっていれば1年生から地域の大会の試合にでられることもあった。ゴボキボキボキ男も1年生で指名され、とても嬉しかったのを覚えている。チームは敢え無く予選で敗れてしまったが、それでも自分の努力が監督に認められたことは心底誇らしかったものだ。どうもあの頃の輝かしい自分を今の自分と重ねあわせているのだ。なんという皮肉だろう!あのころは栄冠に向けて無我夢中で走っていたというのに、今は警官から逃げるために死に物狂いで走っている。

 ゴボキボキボキ男の息が切れてきた。あの頃から随分太ったものだ。体力もなくなった。あの頃のように溌剌と走ることなんかできやしない。警官たちが迫ってくる。ゴボキボキボキ男はヒューヒュー音を喉から漏らしながら、必死に走っている。喉に痰が絡んできた。脇腹が痛む。限界だ。弛んだからだに鞭打っても、駄馬ほどにも走れやしない!ゴボキボキボキ男はあっさり捕まった。腕をガッチリと掴まれた。警官の力は強く、肩が痛くなった。

 「抵抗しないでもらおう。」もはや、ゴボキボキボキ男のことが犯行人であるかのような扱いだ。強制的に連行されるだろう。ここまでか… 何故会社に向かおうとするだけでこのようなことになるのだろうか。ゴボキボキボキ男はずっと真面目に生きてきたのだ。警察に世話になることなど生涯一度もなかった。それどころか、彼は親や先生の言いつけを破ったことすらなかった。模範的過ぎるほど規律正しく生きてきたのだ。しかしいま冤罪の犯人として捕まり、全てを失いつつある!

 「会社に…会社にいかせてくれ。私が何をした。私は健全なただの市民だ。毎日自分の仕事を必死に努めている。なぜ全てを失わなければならない。離してくれ!離してくれ!」ゴボキボキボキ男は叫んだが、警官たちは僅かにもゴボキボキボキ男の主張に耳を傾けようとしない。

 「暴れさせるな。強く押さえつけろ。」警官のひとりがゴボキボキボキ男の脇に腕を通して肩を固定したまま、ものすごい力でゴボキボキボキ男を持ち上げたために、彼の足は地面から数センチ宙に浮く格好となった。こうなるといよいよゴボキボキボキ男は赤子のように足をバタバタ降って抵抗するほかなくなった。この警官、ずいぶん屈強な男のようだ。ゴボキボキボキ男の蹴りを受けてもびくともしない。もう一人の警官は何やら無線で連絡している様子だ。どうもゴボキボキボキ男を連行する車を手配しているらしい。あと十分もしないで到着するという。絶体絶命だ。ほとんど全てに絶望しながらも、ゴボキボキボキ男は最後の力を振り絞って抵抗した。しかし、相変わらず警官はゴボキボキボキをのことを離してくれそうにない。なんということだ。このまま連行されてしまうのだろう。自分のようななんの取り柄もない人間に与えられた最後の仕事と生活すら、神は取り上げようというのだろうか…

 ボキ、ボキ、ボキ。 ボキ、ボキ、ボキ。 骨の音?何処からか、奇妙な音がした。警察官たちは気を取られている様子だ。これを好機とみて、ゴボキボキボキ男は警官の腕から逃れた。ボキ、ボキ、ボキと音は鳴り続ける。咄嗟にゴボキボキボキ男が走って逃げ出しても警官たちは追ってこなかった。彼らは唖然としてゴボキボキボキ男のほうを見ほうけたまま、立ち尽くしていた。

 何が起こったのかよくわからないものの、とりあえず窮地を乗り切った。警官の姿が全く見えなくなるころ、あの奇妙な音も鳴り止んだ。

 全く災難であった。しかし、まだここで安堵するわけにはいかない。精神と肉体の疲労を癒すために、喫茶でコーヒーでもいただきたいところだが、ゴボキボキボキ男は出勤中なのだ。なんとかしてこの住宅街から抜けだし、駅に行かなければならない。

 


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