7
神様が来た日から1週間。今の時刻は午後8時50分。神様との約束の時間までもう少しだ。
「「「「……」」」」
やはりと言うべきか部屋の空気は重々しかった。特にゆかりさんは昨日のこともあり、昨夜から今の今まで先輩の部屋に引きこもっていたのだ。ゆかりさんが部屋を出て行った後、ゆかりと先輩には彼女のフォローをするように頼んでいたので何とか約束の時間の少し前に来てくれた。まぁ、顔は合わせてくれないけれど。こちらも色々調べていたから助かったが。
「お待たせいたしました」
そっとため息を吐いていると何もない場所から神様が現れた。着地した時に大きく胸が揺れ、思わず、生唾を飲んでしまう。
「もう、貴方様ったら……そんなに見つめられたら濡れてしまいます」
「……なぁ、本当に選ばなきゃ駄目なのか?」
ふざけたことを言っている神様を無視してもう一度確認する。この1週間で考えが変わってくれていたら一番いいのだが。
「別に無理して選ぶ必要はありません。新しい候補を探しますので」
「それは、つまり」
「ええ、選ばれなかったら消えて貰います。その方が真剣に悩むでしょう?」
だが、神様の考えは変わっていなかった。しょうがない。やるしかないようだ。
「さてさて……私にとって人生――いえ、神生の中で最も長い1週間でした。それでいてとっても楽しい1週間でした。皆さんはどうでした? 最期に思い出を作ることができましたか?」
「覗いてたんじゃないのか?」
ジト目で先輩が神様に聞くと彼女は微笑んで首を横に振る。
「いいえ、覗いていません。覗いたら誰が選ばれるかわかっちゃうじゃないですか。まぁ……皆さんの様子を見るに少々こじれてしまったようですが」
神様の言葉にビクッと肩を震わせるゆかりさん。先輩もゆかりもそんなゆかりさんを心配そうに見ていた。
「さぁ、お喋りもここまでにしておきましょうか。ふふ、楽しみです。私は一体、誰になるのでしょうか。では、貴方様……運命の時です。自らの手で運命を……最も愛する者を選んでください」
神様は本当に楽しそうに笑って両手を広げた。俺はゆっくりと神様から視線を外し、ゆかりさん、ゆかり、先輩の方を向く。先輩とゆかりは真っ直ぐ俺を見つめ返したが、ゆかりさんだけは苦しそうに目を逸らした。
「……」
そんな彼女たちを見据えながらゆっくりと右腕を上げ、人差し指を立て、俺は選択する。
ゆかりはずっと俺を守りたいと想ってくれていた。
先輩は今を守ると約束してくれた。
ゆかりさんは死んでいた俺の手を引いて未来を魅せてくれた。
この中の3人から1人を選べ? ふざけるのも大概にして欲しい。選べるわけがない。俺が選ぶわけがない。選んだ時点で彼女たちの未来は消滅するのだから。
だから、俺は――選ばない。選択しないことを選択する。
「……へ?」
沈黙を破ったのはこの事件の首謀者である神様だった。無理もない。俺の選択は彼女にとって予想外のものだったのだから。
「俺は、お前を選ぶよ。“神様”」
そう言って指を差した人物――神様に笑ってみせた。ああ、そうだ。俺は掴んでみせる。彼女たちが笑って過ごせる未来を。
「貴方様? 一体、何を言って……」
マスターに指を差された神様は戸惑っているようで声を震わせていました。いつもニコニコ笑っていた神様の驚いた顔は初めて見ます。
「だから、俺は神様を選ぶって言ったの」
混乱している神様に対し、マスターははっきりとそう言いました。一体、何が起きているのでしょうか。私は思わず、従妹と先輩に視線を向けてしまいます。しかし、彼女たちも状況を飲み込めていないようで眉を顰めていました。
「え、えっと……ゆかりさんたちの中から選んで欲しいのですが……あ、いえ! 選んでいただけたことはとっても光栄なのです! しかし、私は神様。人間の身である貴方様とは結ばれない。いえ、結ばれるためには貴方様が苦しまなくてはなりません」
「ああ、構わない」
そう断言するマスター。何故でしょう。胸が……もやもやします。
「構ってください! 私と結ばれるためには貴方様も神様になる必要があるのです! しかし、人間から神様になるのはとても大変なことなのです! ですから、お願いします。彼女たちの中から選んでください」
「お前じゃなきゃ駄目だ」
目に涙を浮かべて懇願する神様でしたが、マスターは首を振り、そっと神様を抱きしめました。いや、何ですかこれ。完全に私たち蚊帳の外じゃないですか。
「あ、貴方様……」
「お前じゃなきゃ、駄目なんだよ」
「きゅん」
マスターに耳元で囁かれて神様は顔を真っ赤にしています。気のせいでしょうか。神様の目にハートが浮いているように見えます。私にはあんなことしてくれたことなかったのに。
「い、いけません! 神様と人間の禁断の恋なんてそんなっ!」
「それはお前から始めたんだろ?」
「はぅ……」
マスターに顎をクイッとされて慌てています。これはあの伝説の顎クイ。まさかマスターがそんなことを知っているとは思いませんでした。
「あの……どうして私なのですか? 貴方様は絶対……」
神様はそう言ってこちらを見ます。きっと、マスターは私のことを選ぶと思っていたのでしょう。ですが、買い被りすぎです。私はもう――。
「……ごめん」
「え?」
「俺、ずっと気付かなかった……いや、気付かない振りしてたんだ。でも、この1週間でわかったんだ。選ぶならお前だって」
「……理由は、何なのですか?」
「それは――」
マスターは神様から体を離し――。
「――おっぱいだ」
――神様の胸を鷲掴みにしました。
「「「え、えええええええ!?」」」
「俺、神様のおっぱいを触った時からこの胸の虜なんだ……眠る度に夢に出て来るんだよッ!」
悔しそうにマスターが叫びます。もちろん、私たちは唖然としてしまいました。何が起きているのかもうわかりません。
「そんな……私の胸に惹かれたと?」
そして、神様は胸を掴まれた状態で聞き返します。さすがの神様もこれには怒っているようです。
「ああ、お前のおっぱいが好きだ」
「そんな……嬉しい。ですが、恥ずかしいです」
「え、えぇ……」
先輩が声を漏らしました。何故、私たちはここにいるのでしょう。少し前まで消されると思っていたのに。どうして胸の話になっているのでしょうか。
「ですが、それが本当の理由なのですか? そんなにこの胸が?」
「お前はおっぱいの凄さをわかっていない」
呆れたようにため息を吐くマスターは神様から目を離し、こちらを見ました。
「見てみろよ。あの絶壁とまな板と丘……どこに母性を感じる?」
「……ああ」
マスターの説明に神様が納得したように声を漏らします。そして、私たちは思わず、ムッとしてしまいました。何ですか、その目。胸が小さいのは駄目なんですか?
「それに比べ、神様のおっぱいは母性に溢れてて……いつまでも触っていたい。包まれたいって思って……駄目、かな?」
「いいえッ! 全然ウェルカムです!! さぁ、思いっきりやっちゃってください!」
テンションの上がった神様がマスターを抱きしめながら叫びました。さすがに苦しいのかマスターは手をじたばたさせています。いっそのことそのまま窒息死してしまえばいいんです。
「あぁ……まさか貴方様が私を選んでくださるなんて。もう幸せすぎて死んでしまいそうです。あ、そうでした。あなたたちは選ばれなかったので消させていただきますね」
「「「ッ……」」」
そうでした。選ばれなかった人は消滅させられる。それが神様の計画です。私たちの間に緊張が走ります。
「まぁまぁ、少し待ってよ。神様」
「貴方様?」
しかし、そこでマスターが神様の肩に手を置いて止めました。
「多分、ゆかりさんたちを消滅させるのに多少、力を使うんだろう?」
「ええ、願いの力をキャンセルしますので少々使用しますが……」
「別にいいんじゃないかな? だって、あの子たちを消滅させる理由って俺が真剣に選ぶようにするためだったんでしょ?」
「そう、ですね」
「なら、もういいじゃん。関係ないのに力を使うなんて勿体ない。なら、俺たちのためになるようなことに使った方がいいよ。例えば――」
そう言ってマスターは神様に何か耳打ちします。興味深そうに聞いていた神様ですが、いきなり顔を真っ赤にして慌て始めました。
「そ、そんな早すぎます! まだ貴方様は人間の身! そういったことはきちんと神様になってから――」
「今すぐじゃないと嫌だな、俺」
「は、はぃ……貴方様ぁ」
神様は傍から見てもわかるほどマスターにメロメロにされています。これテレビで見たことあります。あれですよね、男性に慣れていない女の子を騙す結婚詐欺師です。ああ、私の知っているマスターは一体どこに。
「ありがとう、神様」
「いえ……お礼を言われるようなことでは……後、神様ではなく神ちゃんと呼んでください」
「……神ちゃん」
「はい、貴方様! では、さっそく行きましょう!」
幸せそうな笑顔でマスターの腕に抱き着いた神様は右腕を軽く振るいます。すると、マスターと神様の背後に真っ白な扉が出現しました。
「これは?」
「神界へと繋がる扉です。貴方様には神様になって貰うために神界にご案内いたします。辛い修行が待っていると思います。ですが、私が支えますので頑張ってください」
「修行か……ああ、頑張るよ」
「はい!」
ちょっと、待ってください。待って。マスター、あなたはまさか――。
「ま、待ってくれ!」
今にも歩き出そうとしていた2人を先輩が止めました。
「こ、後輩君! 君は……自分の身を犠牲にして私たちを――」
「何言ってるんですか?」
振り返ったマスターの目には何も映っていませんでした。目の前にいるはずの私たちなど興味なさそうに見ていました。初めて見るマスターの姿に私は体を硬直させてしまいます。
「ッ……その、目は」
先輩はその目に見覚えがあったのか目を見開き、半歩だけ後ずさりしました。昨日、先輩が言っていました。マスターは興味のあるものしか目に入れない人だと。だから、きっと私の過ちを許してくれると。そして、私は悟りました。とうとう、私たちは彼の目に入らなくなってしまったのだと。私たちはもう、彼の視界には入れないのだと。
「神様、最後にあの子たちに言いたいことがあるので先に行っててください」
「……」
「神様?」
「……」
「神ちゃん」
「はい、では、扉の向こうでお待ちしていますね。ちゃんと来てくださいね? じゃないと皆消しちゃいますから」
神様は笑って言うと扉の向こうへ消えて行きました。部屋には私たちとマスターしかいません。数歩歩けば届く距離なのにとても遠く感じました。ですが、すでに彼の目に入っていない私たちに言いたいこととは何なのでしょう? きっと、マスターのことですから何か意味のあることを――。
「ゆかり」
「な、何?」
「ずっと思ってたんだけどさ……お前、ストーカーじゃね?」
「ぐはッ!?」
どうやら、公開処刑のようです。いえ、まぁ、私も薄々思っていたことでしたけれど。ストーカー扱いされた従妹はその場に崩れ落ちました。先輩の顔も引き攣っています。
「先輩」
「な、何かな?」
「はっきり言います……愛が重いっす」
「くっ……」
「さすがに自分の命ぐらい大切にしてくださいよ。俺が弱いって知っているでしょう? 罪悪感で潰れる前に先輩の愛に押し潰されそうです。後――」
「もう、止めてぇ……」
あの先輩も泣きそうになりながら膝を付きました。そして、マスターは私を見ました。何を言われるのでしょう。いっそのこと“何も言わずに行って欲しかった”と思うのは私の我儘なのでしょうか。
「ゆかりさん」
「は、はい!」
「……」
「……マスター?」
「ちょっとこっち来て」
ちょいちょいと手招きするマスター。行かなきゃ駄目なのでしょうか。い、いえ、きっとこれが私に対する罰なのでしょう。甘んじて受けることにします。おそるおそるマスターの前に立つと彼は私の耳元に顔を近づけ――。
「今日の月は……綺麗なんだってさ」
――そう、言いました。どういう意味なのか聞こうとしましたが、トンと両肩を押されバランスを崩してしまいます。
(駄目ッ!)
このまま彼を行かせてはならない。そんな何の根拠もない直感に従い、必死に手を伸ばしますが、マスターはこちらを振り返ることなく扉に歩み寄ります。
「マスター!」
彼が扉を潜る直前、絶叫すると彼はチラリと私を見て――。
「さようなら」
――別れを告げ、扉の向こうに消えて行きました。そして、突然、真っ白な扉が光り輝き、その光を目の当たりにした私の意識は何かに奪われるように失われたのです。
真っ白な空間。真っ白な景色。真っ白な階段。そんな白に埋め尽くされた世界で唯一色を持つ俺と神様はひたすら長い階段を登っていた。手すりはないので足を滑らせて階段から落ちたらやばそうだ。
「ふふ、ふふふ」
俺の隣いる神様は本当に幸せそうに笑っていた。それほど俺に選ばれたのが嬉しいらしい。
「あぁ、本当に素晴らしい日です。こんなにも幸福に思ったことなど一度も……あ、いえ、貴方様に対する恋心に気付いた日以来です」
「……」
「どうしましょう。幸せすぎて今にも世界を滅ぼしてしまいそうです。貴方様、どうしたらいいのでしょうか」
「……いつかきっと違うことに力を使う日が来るから溜めておけばいいんじゃない?」
「まぁ、それってさっきのことですか? ふふ、貴方様ったらエッチなんですからぁ!」
いや、普通に一緒に暮らすための場所を作る時に使えばいいのでは、と言っただけなのだが。この子の頭の中ではどのような公式が立てられ、計算されたのだろう。絶対、藪蛇になるから聞かないけど。そもそも――。
「なぁ、神様」
「もう、何度言ったらわかるのですか? これから私たちは夫婦となりますので是非、神ちゃんと……貴方様?」
――こいつの思い通りにさせるつもりなど最初からない。
俺が立ち止まっていることに気付いたのか神様は不思議そうに俺を見下ろしていた。ずっと考えていた。どうすればゆかりさんたちを救えるのか。そして、どうすればこいつが一番傷つくのか。ゆかりさんたちに酷いことをしたこいつに罰を与えるにはどうすればいいのか。そして、すぐに思いついた。ものすごく簡単なことだった。
「確か神様の力って俺に効かないんだよな?」
「え、ええ……レジストされてしまいますから通用しません。凄まじい神力を叩き付ければわかりませんが」
最初は躊躇した。本当にそれでいいのか、と。その選択は正しいのか、と。でも、俺は間違っていた。正しいだとか、間違いだとかではない。大切なのは“俺がしたいか、したくないか”だと。
「神様の力を利用して作られた願いの力もレジストしちゃうんだよな?」
「そうですね。そのためにあの駄天使に頼んで天使の力で願いの力を作って貰いました」
俺はこいつを許せない。一矢報いたい。そんな気持ちだけが心を支配した。だから、俺は後悔しない。これが俺のしたいことだから。
「……そっか。じゃあ――」
力の使い方は何となくわかっている。願えばいい。簡単だ。まぁ、今回の願いは普通の人なら絶対に願えない願いだが、俺にはできる。何故なら――。
「――さようなら」
――この世界で一番嫌いな人間の消滅を願えばいいのだから。
「ッ!? いけません!」
俺が能力を使用したのがわかったのか神様は目を見開き、力を使った。おそらく普通の人ならばこれで終わっていたのだろう。
――バチッ!
だが、俺には通用しない。能力を弾かれた彼女は唖然とした後、すぐに階段を駆け降りて来る。それを見た俺はすぐに横に飛んで真っ白な空間に身を投げた。どんどん神様が遠くなる。
「駄目っ……駄目ええええええええええええ!!」
何度も力を使う神様は絶叫しながら俺に手を伸ばす。あーあ、涙なんか流しちゃって。本当に俺のことが好きだったんだな。でも、ごめんな。今回ばかりは自業自得って奴だ。俺はお前を許せない。ゆかりさんを――皆を傷つけたお前だけは。
「貴方様ぁあああああああああああ!!」
――バチッッッ!!
金槌で頭を殴られたと錯覚してしまうほどの激しい頭痛のせいか、それとも最期の願いが叶ったのか。目の前が真っ暗になった。




