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「……」
「……」
先輩とのデートから3日後。俺はゆかりと一緒に出掛けていた。向かう先は不明。いや、行き先を聞こうにも何と声をかけていいかわからず、家を出てからずっと沈黙が続いているのだ。ゆかりからデートに誘ってくれたが、まだ心の整理がついていないのだろう。まぁ、先輩のフォローのおかげか、昨日の晩御飯はそれなりに食べてくれたので少しはマシになったようだが。
「あああああ! もう!」
どうしようか悩んでいると唐突に隣を歩いていたゆかりが髪を掻き毟りながら絶叫した。思わず、肩を振るわせて驚いてしまう。
「お兄さん、ごめんなさい」
「え、な、何が?」
そして、いきなりの謝罪。意味が分からず、困惑してしまった。
「ずっと私のこと心配してくれてたでしょ? お兄さんだって不安なはずなのに私、自分のことばかりで……」
「仕方ないよ……だって、ゆかりたちは――」
消えてしまうのだから。その言葉を吐き出す前に何とか飲み込む。しかし、俺が言おうとしたことを察したのか、彼女は首を横に振った。
「実はね。あまり怖くないんだ」
「……え?」
「神様が来た日、私、消されたでしょ? でも、全然実感ないの。本当に一瞬で消えちゃうんだ。まるでテレビの電源を消すみたいに。消されてた間のことも何も覚えてないの。だから、消えて終わる私たちよりも消えた私たちを覚えたまま、生きていくお兄さんの方がずっと辛いに決まってる」
「そんなこと……」
否定したかったが、一昨日のデートで先輩の覚悟を目の当たりにしたせいでできなかった。今、否定してしまったら先輩の想いを踏み躙ってしまうことになるから。
「私がね……一番悩んだのはどうやってお兄さんを元気付けようかってことなの」
「俺を、元気付ける?」
「うん。守るって誓ったのに私のせいでお兄さんは苦しんでる。それが許せなくて……どうにかしなくちゃって思って。でも、どうにもできなくて……気持ちがぐちゃぐちゃになって。だから――」
そこで言葉を区切ったゆかりは立ち止まった。つられるように俺も歩みを止める。そして、視線を前に移すと少しだけ古ぼけた道場が目に入った。
「――戦おう、お兄さん」
その言葉に驚き、またゆかりを見ると真剣な眼差しをこちらに向けて笑った。
「……なぁ。本当にやるのか?」
「もちろん。何のためにこの道場を貸し切ったと思うの? 私でも結構、渋られたんだから」
畳特有の匂いが漂う室内で俺は準備運動をしながら再度、ゆかりに確認した。どうやら、この道場はゆかりが小さい頃通っていた道場らしい。彼女が小さい頃住んでいた地域には道場などなかったようでここまで遠出していたそうだ。今も暇を見つけては訪れ、後輩たちをボコボコにしているらしい。彼女の新しい一面を垣間見て思わず、顔を引き攣らせてしまったのは数分前のことである。
「これでよし。それじゃ始めよう」
胴着の帯をギュッと締めながらゆかりが立ち上がる。その目はやる気に満ちていた。
「いや、でも……こっちは武器持ってるし」
いつの間にかこの道場に運んでいたようで俺の手には愛刀たちが握られていた。昨日、ここの師範に道場を一日貸して欲しいとお願いしたついでに置いてきたそうな。確かに今日、出かける前に『竹刀持参』とか言われたら何をするか察していただろう。
「いいの。この道場、空手だけじゃなくて剣道とか色々教えてるから」
「……つまり、竹刀を持った相手に素手で挑んだのか」
もはや総合格闘技である。俺自身、剣道の役に立つかもしれないと色々なジムや道場を見学したことがあるので人のことは言えないが。
「当たり前のこと言うけどさ。痛いぞ?」
「打たれると痛いけどさ。当たらなきゃ痛くないんだよ」
「何その、『当たらなければどうということはない』理論」
紅い彗星とか呼ばれていそうだ。まぁ、しょうがない。先輩にもデートに誘われたら行くと言ってしまった。ここはわざと負けて――。
「ハッ!」
不意にゆかりがその場で正拳突きを放つ。そして、俺の髪が揺れた。数メートル離れている先に届くほどの風圧が彼女の拳から放たれたのである。もはや人を殺せるほどの威力を持った一撃を見せられた俺は背中が凍りついた。
「いつもはセーブしてるんだけどね。今日は本気で行こうかなって……お兄さん、防具でも付ける?」
「……いや、やめておく」
そう言えば、遊園地で防弾チョッキを着ていたテロリストを一撃で沈めていた。防具を付けていたところで粉々にされる未来しか見えない。それに重い防具を付ければ回避し辛くなってしまう。ならば、最初から身軽なままの方がいい。
「うん、わかった。ルールは……3本勝負でどう?」
「先に2勝した方が勝ち?」
「ううん、3勝した方」
それは3本勝負とは言わない。
「了解。他には?」
「この部屋の中ならどこに行っても大丈夫だよ。ただ壊すのだけは駄目。私が怒られちゃうから」
壊す可能性があるのはゆかりだけである。俺は反射神経がいいだけで威力は人間のそれと同等なのだから。
「勝ち負けの判定は?」
「背中か片膝、両膝が床に付く。降参、気絶。気絶しちゃったら起きるまで休憩ね」
彼女の一撃を受けて気絶で済むのだろうか。救急車とか呼ぶことになりそうで怖い。
「竹刀を床に付けるのは?」
「竹刀を? どう言うこと?」
「膝を付く前に竹刀を支えにするってこと」
「セーフ。他に確認することは?」
「ない……かな」
正直言ってこの勝負、俺が不利である。剣道は面や胴、小手を決めればそこで終わりだが、この戦いにはそれがない。武器を持っているからと言って有利とは限らないのだ。また、俺は左足に傷を負っている。試合が長引けば満足に走ることすらできなくなるだろう。
「それじゃ、準備はいい?」
「……ああ」
2本の竹刀を構えて深呼吸をする。よし、行ける。まずは1勝。ゆかりには申し訳ないが、顎を殴って脳震盪を起こそう。
「百円玉を上に投げるからそれが床に落ちた瞬間からスタートね」
そう言った後、ゆかりは百円玉を真上に投げる。クルクルとコインが回転し、床に落ちた。
「ッ――」
その瞬間、俺はゆかりに突進する。だが、すぐに目を見開いた。彼女は“右足を大きく振り上げていた”のだから。
(まずいっ!)
「せいッ!」
彼女の思惑には気付いたが、突進したせいですぐに体を動かせなかった。その隙にドシン、と力任せに右足を床に叩きつける。
「うわっ」
震脚。足で地面を強く踏み付ける動作のことを言い、日本では踏み鳴りと呼ばれている。よく創作などで出て来る八極拳の技法の1つだ。震脚を用いた独特の重心移動を伴う急激な展開動作などから放たれる一撃は必殺と言われている。しかし、ゆかりの震脚は震脚であって震脚ではない。彼女は先ほども見たようにどういうわけか腕力や脚力が人の何倍もある。そんな脚力で放った震脚は床を揺らす。ゆかりに接近するために走っていた俺は大きくバランスを崩し、片膝を付いてしまった。
「……まずは1勝」
「やられた……」
ニヤリと笑ったゆかりを見て奥歯を噛み締める。俺が速攻で片を付けに来ることを予測していたのだろう。
「お兄さんは剣道やってたんでしょ? 基本は大切だよ」
「……」
剣道は基本的に重心を一定に保ったまま、移動する。しかし、俺はそれを忘れて走ってしまった。何年も剣道から離れていたとは言え、無様としか言いようのないミス。焦っていたのだろう。
「駄目だよ、お兄さん。武道は力じゃない。心で戦うんだから」
「……そう、だな」
年下の――しかも、女の子にそれを教えられるとは大人として、男として恥ずかしい。落ち着け。思い出せ。俺は、いつも何を想って戦って来た?
――頑張れよ。応援してるからな。
「……すぅ。はぁ」
そうだった。いつもあいつが応援しに来てくれた。だから、俺は頑張れた。
「少しはいい眼になった、かな。それじゃ2本目、行くよ」
嬉しそうに笑ったゆかりはまた百円玉を投げ、再びコインが床に落ちる。その瞬間、俺は左手に持っていた竹刀を思い切り投げた。
「――ッ!?」
まさか竹刀を投げるとは思わなかったようで彼女は目を丸くし、慌てて竹刀を躱す。その隙に俺はゆかりに接近した。体勢を立て直したゆかりが回し蹴りを放つ。それを紙一重で回避。そのまま、短い竹刀を振り上げ、彼女の顎を狙う。迫る竹刀を何とか体を仰け反らせて躱したゆかり。そこへ振り上げた勢いのまま、体を開き、強引に左肩からタックルをかます。さすがにこれは捌き切れなかったようでもろにタックルを受けたゆかりは尻餅を付く。そして、竹刀を彼女の喉元へ突き付けた。
「……降参、です」
その言葉を聞いてそっと息を吐き、すぐに投げた竹刀を拾ってスタート地点に戻る。
――本当に……お前ってすごいな。どんな反射神経してんだよ。
――お祝いしようぜ! なんてったって世界一になったんだからな!
「次」
「っ! わかった」
頷いたゆかりはまたコインを投げる。
「……」
「……」
しかし、コインが床に落ちたのにも関わらず、俺たちは動かなかった。お互いに隙がなく、様子を窺っているのだ。だが、このままでは埒が明かない。きっかけを作るために右足を前に少しだけ出した。
「ッ!」
それが合図となり、ゆかりが突っ込んで来る。よし、釣れた。息を吐き、彼女の動向を観察する。誘いに乗ってしまったことに気付いたのか彼女は顔を歪ませているが、前に進むのを止めない。ここで動きを止めてしまったら大きな隙ができるとわかっているのだ。俺の目の前まで来たゆかりは正拳突きを繰り出す。
「――」
咄嗟に首を傾けてそれを躱し、彼女の拳から放たれた風圧で俺の前髪が揺れた。後ろにジャンプして距離を取ろうとするが、ゆかりも前に出てそれを阻止する。彼女は腕力も凄まじいが、反応速度も侮れない。俺の動きについて来るだけでなく、少しでも隙が生まれたら攻撃して来るのだ。それに比べ、俺は反射神経しか取り柄がない。武器によるリーチの差も彼女の攻撃力の前では無力。竹刀で受け止めた時、愛刀は真っ二つに折れてしまうだろう。だが、唯一の取り柄が戦況を左右する。
「……?」
もう何度目かわからない正拳突きを放とうとした彼女は目を細めた。ひたすらゆかりの攻撃を躱し続けていた俺が不意に両手の竹刀をクロスするように構え、重心を低くしたのだから。ゆかりも俺が回避しかできないことを理解している。だからこそ、怪しんだ。しかし、怪しんだだけで攻撃の手は止めなかった。
(ここっ)
ゆかりの右拳が竹刀に当たる直前、ぐいっと体を左向きに回転させる。それと同時にクロスした竹刀を一瞬だけ下に下げて彼女の拳を躱す。竹刀の真上を拳が通り過ぎたのを視て勢いよくクロスした竹刀を真上に突き上げ、拳の軌道をずらした。それだけではない。左向きに回転させた体を強引に動かして姿勢を低くし、竹刀を後ろに向かって投げた。ちょっと変わった万歳のような恰好になった俺は竹刀に突き上げられたあげく竹刀を後ろに投げたことでそれに引っ張られるように前につんのめっているゆかりの胸元に右腕を当て、彼女の突っ張っている右手首を左手で掴んだ。そのまま、一気に低くしていた体を起こし、右腕を彼女の体を持ち上げるように振り上げ、左腕を上から下に向かって振り下ろす。その途中でタイミングを計り、ゆかりの右手首から手を放して“投げた”。投げられた彼女はどうすることもできず、1秒もない飛行を行い、背中から畳に叩きつけられる。武道をやっているからかきちんと受け身を取ったゆかりだったが数秒ほど呆然とした後、体を起こしてこちらを見上げた。
「……え、何? 何されたの私?」
「投げられたんだよ」
一本背負い――のような技だ。いや、もはや技とすら言えないだろう。竹刀によって拳を前に――俺の後方へ無理矢理引っ張られた彼女を体を左に捻った状態で右腕を彼女の胸元に当て、持ち上げる。それと並行して竹刀を投げたその手でゆかりの右手首を掴み、振り下ろす。とどめに体を起こしてゆかりの体を浮かせ、投げたのだ。
「……お兄さんって剣道しかやってなかったんだよね?」
それを聞いたゆかりは訝しげな表情で問いかけて来る。確かに俺は本格的にやっていたのは剣道だけだ。しかし、色々な武道を見学した際、体の動かし方や技のかけ方などを“視て”、家で何度も反復練習していた。そのおかげで試合では使えないが、今のような何でもありの模擬戦で大いに役に立ってくれている。これがなければ3年前のテロ事件で俺はすぐに殺されていただろう。それにタイミングがシビアな動きでも俺なら確実にタイミングを合わせられる。だからこそあんな出鱈目なこともできるのだ。
「そんなことより、そっち、もう後はないけどいいのか?」
「そう言っていられるのも今の内だよ」
畳に転がっていた竹刀を拾い、構えた。ゆかりもそれに倣うように構える。そして、すぐにコインが宙を舞い、床に落ちた。
「ッ……」
気付けばゆかりが目の前にいた。おそらく化物染みた脚力を駆使して1回の跳躍でここまで跳んで来たのだろう。すぐにバックステップで距離を取る。何とか彼女の拳を躱すことはできたものの、ゆかりの攻撃はまだ終わっていなかった。今度は足が向かって来る。竹刀で受け止めた瞬間、粉々になってしまうほどの威力。ここは――。
(――いなす)
右の短い竹刀を左から右へ払い、ゆかりの足首に当て、軽く後ろに流す。正面からではなく側面から攻撃の軌道をずらしたのだ。俺の右頬を彼女の足が掠り、一瞬だけ痛みが走る。どうやら、あまりにも鋭い蹴りだったようで頬が切れてしまったらしい。微かに頬から血の流れる感覚を覚えながらしゃがんで左に転がるように跳んだ。背中と膝がつかないようにゴロゴロと転がった後、立ち上がる。
「……」
「……」
束の間の静寂。頬の血を袖で拭い、再び構えた。一瞬の油断が命取り。いや、油断してなくても判断ミス一つで勝負が決まってしまうだろう。
「……強いな、ゆかり」
「……お兄さんこそ」
お互いに褒め合った後、すぐに彼女が突っ込んで来た。その顔は笑っている。とても楽しそうに。この先に待っている絶望など忘れてしまっているかのように。だから俺は――一瞬だけ体を硬直させてしまった。理由はわからない。しかし、確実に俺はその笑顔に動揺してしまった。
「ッ――」
迫り来る拳。反応が少しだけ遅れてしまった俺は咄嗟に竹刀でいなしてやり過ごす。しかし、ゆかりが仕掛けて来たのは『インファイト』。相手の懐に潜り込み、怒涛のラッシュで追い込む技だ。本来、インファイトは防御せずにひたすら攻撃する諸刃の技だが、ゆかりの場合、一撃でも当たればノックアウト確実。更にこちらの防御を突破して来るため、躱し続けるしか出来ない。こちらは攻撃することも防御することもできないのに対し、ゆかりは一撃当てるだけで勝てる。その結果は武道に触れたことのない素人でもわかるだろう。
「がっ……」
案の定、俺の集中力が切れた一瞬の隙を突かれ、竹刀と竹刀の隙間を刺すような一撃をお腹にまともに受けてしまった。一瞬の浮遊感を覚え、後方へ吹き飛ばされる。そのまま、畳を転がり、背中から壁に叩きつけられてしまった。全身に広がる痛みで呻き声が漏れる。手から竹刀が零れ落ちた。
懐に潜り込まれた時点で俺の負けは決まっていた。そうさせないように動くべきだった。しかし、俺はゆかりの笑顔を見て動きを止めてしまった。その理由はわからない。だが――。
「……壁はセーフにする? アウトにする?」
――それが今の試合で目の前で俺を見下ろしているゆかりに勝てなかった理由だと思う。
「アウトで、いい」
よろよろと立ち上がって竹刀を拾った。それにしてもどうしてデートに来たはずなのに俺たちは戦っているのだろう。何故、後数日で消えてしまうゆかりは笑っていられるのだろう。わからない。
(ああ、そうだ)
俺は何もわかっていない。何も知らない。先輩とデートした日、彼女がどんな気持ちで俺に2回目の告白をしたのかも。今、目の前にいるゆかりが何を考え、感じて、想っているのかも。家で俺たちの帰りを待っているゆかりさんの心も。でも、これだけはわかる。これだけは知っている。
「来い」
俺はゆかりに負けたくない。そんな“自分の気持ち”だけはわかっているつもりだ。大人としての意地なのか、男としての見栄なのか。理由は色々あるけれど、やっぱり――。
――なぁ、何で負けたのに笑ってるんだ? 悔しくないのか?
まだ、俺が弱かった頃、試合で負けた帰り道に隣を歩いていたあいつからの質問。悔しかったに決まっている。でも、それ以上に俺よりも強い奴がいたということがわかって嬉しかった。
(――強い奴に勝ちたいって気持ちはいつまで経っても変わらない)
「……行くよ」
構えた俺を見つめていたゆかりは最後のコイントスを行う。くるくるとコインが回り、床に落ちて跳ねた。それと同時に第1試合と同様、俺は全速力でゆかりへ突っ込む。懐に潜り込まれた時点で負けが決まっているならば、こちらがゆかりの懐に潜り込んで攻撃される前に倒す。それしか方法はない。
「ッ――」
だが、俺はすぐに目を丸くした。ゆかりは笑いながら手を広げていたのだから。まずい。このまま突っ込めばゆかりと正面から激突してしまう。でも、最初と同じように急には止まれない。とにかく怪我だけはさせないようにしなければ。両手の竹刀を放したところでゆかりの胸に飛び込んでしまった。それと同時に俺を抱きしめた彼女はゆっくりと膝を折る。俺の体もそれにつられるように下がって“二人同時に両膝が畳に付いた”。
「お兄さんはやっぱり優しいね」
呆然としているとゆかりは笑ってそう言った。意味が分からず、首を傾げる。610
「無防備だったのに私を傷つけないように竹刀を捨てて……」
「それは!」
無抵抗な人を殴れるわけがない。それがゆかりならなおさらのこと。そう言おうとしたが、彼女の顔を見て言葉を飲み込んでしまう。とても嬉しそうにしていたから。
「さっきまでの格好いいお兄さんもいいけど、私はやっぱり優しいお兄さんが好きだよ」
「ゆかり……」
「でもね、お兄さん。お兄さんの優しさが人を傷つけることだってあるんだよ」
優しさが人を傷つける? それは一体どういう意味なのだろう。
「神様が来てからお兄さん、ずっと苦しんでた。自分のせいで私たちが消されちゃうって嘆いてた。優しいお兄さんは他人の悲しみも自分のことのように背負っちゃうから。それを見てるのがすごく辛かった。守るって決めたのに私のせいでお兄さんが苦しんでる。それが何より嫌だった」
ギュッとゆかりの腕に力が入り、自然と俺の顔がゆかりの胸に当たる。ゆかりの鼓動が聞こえた。確かに今、彼女は生きている。それがたまらなく嬉しかった。
「ねぇ、お兄さん。どうして私が空手を習い始めたか話したよね?」
「……俺を、守るため」
「そう。私はお兄さんに助けて貰った。だから、今度は私がお兄さんを守ってあげようって。まだ幼かった私が初めて持った夢。それがこの前、叶っちゃった」
そう言いながら笑うゆかり。俺はその笑みに見覚えがあった。この前、デートの時に見せた先輩の笑顔と同じだったのだ。
「ゆかり、お前……」
「私は……お兄さんがどんな選択をしても笑顔で頷くよ。私が泣いちゃったらお兄さん、また悲しんじゃうもんね」
『まぁ、もうやり残したことはないんだけど』と彼女は呟き、俺から離れて立ち上がってこちらに背を向けた。その姿はとても綺麗で、勇ましかった。まるでこれから戦場へ行く戦士のような背中。
「お兄さん、さっきの気持ち、忘れないでね。最後まで優しくて格好いいお兄さんでいてね。どんなに苦しい状況でも諦めず、足掻いて。後悔しないで」
きっとゆかりはこれを伝えたかったのだろう。だから腑抜けている俺と戦った。『最後まで諦めない強い心』。それが彼女の強さ。最期にゆかりが俺に教えて――いや、思い出して欲しかったこと。
「……ああ。忘れない。ずっと、覚えてる。必ず」
「……うん! それでこそ私の大好きなお兄さんだ!」
くるりと俺の方へ振り返った彼女は向日葵のような笑顔を向けてくれた。それを見て俺はまたズキリと心が痛んだ。だが、この痛みは俺にとってとても大切な痛み。俺を強くしてくれる痛み。だからだろうか。立ち上がった俺は自然と笑って彼女に言っていた。
「今回の試合は引き分けだったからさ……またやろう。今度は完全試合で勝ってやる」
「ッ……えへへ、私だってそう簡単に負けないんだからね」
目を丸くした後、照れくさそうにはにかんだ向日葵は花びらから一粒の朝露を零した。
「ん?」
ゆかりの着替えを待ちながら頬に絆創膏を貼っていると不意に鞄の中にしまっていた携帯が鳴った。この着信音は先輩。でも、デート中はよほどのことがない限り、連絡はしないと言っていたのにどうして?
「っ! まさか!」
慌てて鞄へ駆け寄り、携帯を取り出して電話に出た。
『後輩君、デート中すまない! 緊急事態だ!』
電話の向こうから焦った先輩の声が聞こえる。やはり何かあったのだ。もしかして待ちきれなくなった神様が何か仕掛けて来たのだろうか?
「何があったんですか!?」
『ゆかりさんが……倒れた』
「……え?」




