貴方の隣に――
「大丈夫?」
そう言いながら私に手を伸ばす。放心しながらも私は彼の手を握った。
「よかった。怪我はなさそうだね。あ、ごめん! 友達待たせてるからこれで!」
私を立ち上がらせた後、彼はそのまま走って行ってしまった。改めて周囲を見ると数人の男が倒れていた。彼が来てくれなければこの男たちにどこかへ連れ込まれていただろう。
「……」
竹刀を持って走って行く彼の背中を見送りながら私は気付いた。
ああ、彼のことが好きになってしまったのだと。
「はぁ……」
柄にもなく私は緊張しているらしい。そりゃそうだろう。今から後輩君の家に行くのだから。一応、携帯には今から行くと連絡したが返信は来ない。何かあったのだろうか。
(それにしても)
道を歩きながら改めて思う。あの日――私と後輩君が初めて会った日。まさかこんな関係になるなんて考えもしなかった。
「確か初めて会った日は……」
そう、私がナンパされてどこかに連れて行かれそうになったところを後輩君に助けて貰ったのだ。あの時の彼はとても格好良かった。それこそ惚れてしまうほどに。
「すぅ……はぁ……」
これから後輩君に3年前の話をする。それがとても怖い。もし、彼に嫌われてしまったらどうしよう。そんなことばかり考えてしまう。だから、せめてスムーズに説明できるように記憶を整理しておこう。
私は歩きながら思い出す。3年前の――いや、後輩君に恋した日から今日までの日々を。
後輩君のことを知ったのは高校に通っていた頃だった。ナンパから助けてくれた彼を見つけるのはすごく簡単だった。
「それじゃ帰るかー」
「今日も練習か?」
「もちろん、すぐに鈍っちゃうからな」
同じクラスだったからだ。帰る準備をしながらチラリと彼に視線を向ける。丁度、彼の親友と一緒に教室から出て行くところだった。
「はぁ……」
おそらく、ナンパから助けたのは私だと後輩君は気付いていなかったと思う。ナンパされた時は眼鏡をかけていなかったし、普段結んでいる髪もおろしていた。当時の彼は剣道と彼の親友にしか興味がなかったのだ。クラスで話したこともない女子など覚えているわけがなかった。きっと助けた私のことも覚えていない。それがとても悲しかった。
(でも、急に話しかけて迷惑に思われたらどうしよう)
そんなことを考え出したら行動に移すと言う選択肢はなかった。彼も親友といつも一緒にいたので話しかけられなかった。
「なぁ、結月ゆかりって知ってるか?」
「結月ゆかり? 何それ」
「最近知ったんだけどボイスロイドって言って家に帰ったら一緒に――」
だから、私は後輩君の背中を見ていることしかできなかった。
それから時は経ち、高校を卒業した。私は一心不乱に勉強して彼と同じ大学に進学した。自分でもストーカーのようだと思ったが、どうしても後輩君のことが忘れられなかったのだ。
しかし、大学内で彼を見つけても話しかけることはできなかった。彼からしたら私は知らない人だし、大学でも彼の親友と一緒にいたから話しかけ辛かったのだ。
そして――運命の日。
あの日は晴れていた。私はいつも通り、自転車で大学に向かった。
――バチッ!
あの日は雨が降っていた。私は仕方なく、歩いて駅に向かった。
駅に着くと後輩君と彼の親友の姿を見つけた。しかし、いつものように仲良さそうに話していない。気になったのでそっと近づいて聞き耳を立てた。
「やめておかねーか? なんか、嫌な予感がする。ほら、徒歩で行こうぜ」
「何でだ? 駅まで来たんだから電車で行けばいいだろ。チャリも駐輪場に停めればいいし」
「いや、駄目だ。歩こう」
「それだと遅刻するって」
「いいから!!」
彼の親友が声を荒げる。周囲にいた人が後輩君たちに視線を向け始めた。
「どうしたんだ? 今日のお前、ちょっとおかしいぞ」
「何とでも言え。でも電車には乗らない」
「……俺は乗るよ。じゃあ、大学でな」
そう言って後輩君は親友を置いて行ってしまう。
「あ、おい……ああ、もう!」
あれだけ電車に乗るのを嫌がっていた彼の親友は髪を掻き毟った後、後輩君の後を追った。私も『どうしたんだろう?』としか思わず、2人と同じ電車に乗った。
そう、あのテロ事件の舞台となる電車に。
「……」
テロ事件が起きてから数日が経った。生き残ったのは私と後輩君だけ。彼の親友は足を撃たれて動けなくなった後輩君を助けるために――亡くなった。そして、後輩君も足の怪我のせいで今までずっと頑張って来た剣道を辞めることになったらしい。事情聴取の時に必死になって刑事さんに頼み込んだら教えてくれた。
「……はぁ」
無傷だった私だが、念のために1週間ほど大学を休むことにした。いや、無傷なんかじゃない。私は後輩君たちの足を引っ張ってしまった。後輩君が撃たれたのも私が狙われてその隙を突かれたからだった。あの場所にいたのがあの2人だけならきっと上手く切り抜けられただろう。私のせいで。私の――。そう思う度に心が痛む。こんなことになるなら後輩君を追いかけなければよかった。そんな後悔が私の心を蝕む。
「……」
自室のベッドに横になりながら天井を見つめる。どうすることもできないもどかしさ。何も出来なかった悔しさ。無力だと自覚したから感じられる空しさ。その全てが私の目を曇らせる。
神様がいるなら私はきっと叫んでしまうだろう。
『私のことなんかどうでもいいから、彼を幸せにしてください』、と。
その願いは神様に届くことはなかった。
大学を卒業し、私は『O&K』という大企業に入社した。後輩君を追いかけるために勉強だけはして来たので何とか内定を勝ち取ることが出来たのだ。いや、ただ運がよかっただけかもしれない。
後輩君は入院していたせいで留年し、もう1年大学に通うことになった。
入社して早くも1年。それなりに仕事にも慣れた頃、先輩の日下部さんに1枚の書類を渡された。
「あの、これは?」
「入社予定の人のプロフィール。多分ほぼ確実に入社するから指導よろしく!」
「え!? でも、私まだ1年しか……日下部さんがやればいいじゃないですか」
「本当はそうなんだけど子供部長様がお前に任せられんって言ってな。代わりの奴を探せって言われて初めにお前が目に入ったから」
「そんな理由で……で、でも! まだ入社試験の時期じゃありませんよ?」
こんな中途半端な時期にすでに入社が決まっている人がいるとは思えなかった。まぁ、本当は指導なんて出来るわけないのでどうにかして断りたいだけなのだが。
「入社試験はまだだけどそいつは『会長推薦』だ」
「『会長推薦』?」
「おう。この会社の会長が気に入った奴を優先的に入社させる制度だ。俺もそうだったし。後、部長の奥さんも貰ってたはず」
「ぇ……日下部さんが?」
あの万年平社員が? 推薦を貰えるほど優秀だとは思えないのだが。しかも、部長が結婚していたなんて初耳だった。見た目は子供にしか見えないのに。
「お前……顔に出てんぞ」
「……はぁ。こんな時期に入社が決まっている理由はわかりました」
「おい、否定しろや」
「ですが、私はまだ入社1年目の新人です。指導なんて出来るとは……ッ!」
断ろうとしながら貰った書類に目を落とし、驚愕する。
(何で……彼が)
そう、『会長推薦』で入社して来るのは――後輩君だった。
「どうした?」
「……いえ、私指導役引き受けます」
無意識の内にそう言っていた。理由は、わからない。
「お? それじゃ頼むわ……おっと、そろそろ行かないと」
私が頷いたのを見て日下部さんは窓から出て行った。それに気付いた部長も日下部さんの名前を叫びながら同じように窓から出て追いかける。最初はその光景に吃驚したが、今ではすっかり慣れてしまった。他の社員たちも楽しそうに2人を見ているし。
(……どうしよう)
追いかけっこを始めた子供部長と万年平社員を見送りながら私は彼の指導役を引き受けたことを少しだけ後悔していた。でも、私は運がいい。また彼と会える機会を得られたのだから。
後輩君の出勤初日、私は緊張で心臓が爆発しそうだった。私を見た瞬間、罵倒されてしまったらどうしよう。親友を思い出して泣いてしまったらどうしよう。この会社を辞めてしまったらどうしよう。そんな不安な気持ちと久しぶりに彼に会える嬉しさ。そして、嬉しく感じている自分に対する嫌悪感で胸が苦しかった。
その時、彼が私の前に来た。部長に私が指導役だと言われて近づいて来たみたいだ。彼ははっきり言うと酷い顔をしていた。目は虚ろで髪はぼさぼさ。新品のスーツが逆に異常に見えるほどボロボロだった。そのせいか他の新入社員たちは彼に近づこうともしなければ話しかけることもない。私だって彼でなかったら話したくないと思うだろう。でも、彼だったから私は息を呑んだ。そんな彼の姿を見てキュッと胸が痛くなる。
「「……」」
私と彼は見つめ合ったまま、沈黙する。周囲では他の新入社員たちと先輩たちが親睦を深めるために楽しそうに話していた。でも、私たちだけはそんな世界から弾かれてしまったかのように黙りこくっている。
「あ、あの……」
そんな沈黙を破ったのは私だった。だが、それ以上言葉が続かなかった。今更何を言えばいいのだろう。『ありがとう』、『ごめんなさい』、『最近どう?』。ふざけるな。そんな安い言葉なんて彼に届くわけがない。言葉を探すほど自分の存在がちっぽけに感じた。
「……初めまして。今日からよろしくお願いします」
「……え?」
しかし、彼の反応は予想外のものだった。私のことを覚えていなかったのだ。
そうだ。そう言う人だった。自分の興味のある物以外はどうでもよくて目にすら入らない人だった。だから剣道と親友以外、目に入っていなかった。今は――何も目に入っていない。興味ある物全て、あの日に失くしてしまったから。
「どうしました?」
私が間抜けな声を漏らしたのが聞えたのか虚ろな目のまま、首を傾げる。それを見て思わず、顔を引き攣らせてしまう。気付いてしまったのだ。もう彼は壊れる寸前なのだと。
『おーい、一緒に帰ろうぜ』。
『剣道頑張れよ』。
『お疲れ。今日も頑張ってたな』。
『あーあ、テストとか面倒臭いなー。そう思うだろ?』。
『結月ゆかりって知ってるか?』。
その時、不意に彼の親友の声が聞こえたような気がした。ああ、そう言うことか。そうすればよかったのか。彼は親友と剣道以外、興味がないから目に入らない。でも、彼にとって私はどうでもいい存在で興味なんか湧くわけがない。ならば――。
「いや、何でもない。これからよろしく、後輩君」
――私が彼の親友の代わりになればいいのだ。興味ある物になる。それが例え、私と言う存在を失くすことになろうと。それが私に出来る精一杯の努力だった。
結果から言うと彼は何も変わらなかった。どんなに彼の親友の真似をしてもそれに気付くことなく黙々と仕事を熟す。不気味なほど正確に、丁寧に、迅速に。そのせいで他の社員から距離を置かれていた。彼に話しかけるのは指導役の私と万年平社員と子供部長ぐらいだった。
そろそろどうにかしなければいつか彼が倒れてしまうと不安に思っていた頃、会社で初めて後輩君が笑った。
「どうしたんだ? 急に笑って」
「あ……いえ、昨日いいことがありまして」
嬉しそうに答える彼の儚げな笑顔を見て私は少しだけドキッとしてしまう。いつも彼の親友と話す時に浮かべる満面の笑みではない。初めて見る顔だった。
「へぇ、何があったんだ?」
だからこそ、気になった。彼を笑顔にしたのは何か。私の問いかけを聞いた後輩君は少しだけ戸惑い、苦笑しながら言った。
「えっと……結月ゆかりって知ってますか?」
「……いや、知らない」
結局、彼を笑顔にできるのは彼の親友だけなのだと、確信した瞬間だった。
「ボイスロイドって言って言葉を話してくれるソフトなんです……たまたま昨日、電器屋で見つけて買ったんです。一応、ボーカロイドの方も買ったんですけどボイスロイドの方をいじってたらハマっちゃって」
「独りで言葉を打ちこんで喋らせてるんだろ? 空しくないのか?」
ちょっとだけ棘のある言い方をしてしまった。でも、今更言い直せない。少しだけ冷や汗を掻いてしまったが彼はそんなことにも気づかずに頬を掻いて目を逸らした。
「俺も最初は……何やってんだろうって思いました。でも……何だか結月ゆかりの声を聞いてると落ち着くんです。昔……一緒に暮らしてた奴が好きだったから」
「ッ……へぇ。そうなのか」
『今、その子はどうしている?』と聞けなかった。私はその真実を知っているから。
「あ、すみません。仕事に戻りますね」
「なぁ、後輩君」
「はい?」
「……よかったな」
「……はい!」
その時に彼が浮かべた笑顔は昔のような笑顔だった。その笑顔は私に向けられたものじゃなかった。
「はぁ……」
とうとう後輩君の家の前まで来てしまった。ドキドキする。携帯を確認していなかったらどうしよう。もし、嫌な顔をされたら? 家に入れて貰えなかったら私は泣いちゃうかもしれない。
「……よし」
でも、行くしかないのだ。それが今まで私が積み重ねてきた罪を償うただ1つの方法。深呼吸をしてインターホンを押した。その瞬間、扉の向こうで物音がする。留守ではないようだ。
「マスター! 従妹!」
しかし、叫びながら扉を開けた人が問題だった。
「ッ……」
紫色の綺麗で独特な髪型。可愛らしいウサ耳パーカー。澄んだ紫色の瞳。それは私もよく知るボイスロイドの姿。
「結月、ゆかり?」
「ぁ……すみません、人違いでした」
私の呟きが聞えたのか顔を引き攣らせた彼女は急いで扉を閉めようとするが、扉に足を挟んで阻止する。
「こんにちは……ちょっとお話を聞いてもいいかな?」
「だ、駄目です! 言うなって言われてるんですから!」
「それは誰にかな?」
「それはマス――いえ、誰にも言われてません。自分で判断したまでです」
何か言いかけそうになった結月ゆかりだったがすぐに言い直した。しかし、それは無駄な足掻きだった。
「実はここに住んでいる人の会社の先輩なんだけど……後輩君は今、どこにいるかわかる?」
「い、今は買い物に出かけています。しばらく戻って来ません。なのでお帰り下さい」
「そうはいかないんだ。私も大事な話があってここまで来たんだから。中で待たせて貰ってもいい?」
「ちょっと部屋が汚いのでまた後日にしてください」
「時間がないんだ。頼む……待たせてくれ……」
思わず、声が震えてしまった。
何で後輩君の家に結月ゆかり似の子がいるのだろう。どうしてその子が後輩君を庇おうとするのだろう。何故、私はそちら側ではないのだろう。
お願いします。教えてください、神様。私はいつになったら後輩君の隣を歩けるのですか?
そんな感情が膨れ上がり、涙となって目から零れた。もう嫌なのだ。足を引っ張るのは。彼が傷つくのが。何も出来ないのが。
悔しくて、情けなくて、空しくて。そんな感情は嫌になるほど抱いて来た。もうあんな思いをするのは御免だ。だから、お願い。私もそちら側に行かせて。彼の隣を歩かせて。それだけで、いいから。彼の今を、守らせて。
「……」
それを見た結月ゆかりは目を見開き、硬直する。無理もない。いきなり泣き始めたのだ。警戒するに決まっている。
「……どうぞ」
だが、彼女は扉を開けた。
「え?」
「……貴女は悪い人ではないと思いました。マスターのことが本当に心配で……何か事情があってここに来たのもわかります。それがマスターのためになることも」
そう言った後、微笑む結月ゆかり。その笑顔はとても優しくてとても綺麗だった。
「……ありがとう」
結月ゆかりにお礼を言って私は後輩君の家に入った。
あんな騒動に巻き込まれるとは知らずに。
「はぁ……はぁ……ご、ごめん。遅くなった」
「ホントに……お前から誘っておいて遅刻するとかありえないぞ」
「色々あったんだよ。それじゃ雨も降って来たしどっか入るか」
「おいおい。遅刻した分際で仕切るとはいい度胸だな。反省してないのか?」
「してるって」
「……いや、その顔は反省してないな」
「えー……じゃあ、どうすれば許してくれるんだ? 俺に出来ることなら何でもするけど」
「ん? 今、何でもするって――」
「――おいバカやめろ」
「冗談冗談。そうだな……別に思い付かないから後でいいよ。俺のお願いを一つ聞くってことで」
「うわぁ……すごいこと要求されそう」
「大丈夫だって。変なこと言わんから」
「……まぁ、別にいいか」
「それで? どこに行くんだ?」
「そうだなー。適当にどっか入って適当にご飯でも食べて帰ろうぜ」
「適当だな。俺たちらしいけど」
「だろ?」
「……なぁ」
「ん?」
「……メリークリスマス」
「おう、メリークリスマス」




