あの日の約束
「「……はぁ」」
湯船に浸かりながら私とゆかりさんは同時にため息を吐く。
「お兄さん、怖かったね……」
「はい……あんなマスター見たことがありません」
私の隣でゆかりさんが震えていた。本当に怖かったらしい。
「まぁ、普段怒らない人が怒ると怖いのは有名な話だし」
「私、マスターに怒られたの初めてです……」
しょんぼりとゆかりさんは落ち込んでいた。
「げ、元気出して……」
そう言う私の声音も震えている。
「従妹……マスターは許してくれるでしょうか?」
涙目になりながらゆかりさん。
「大丈夫だよ……多分」
私自身も怒られたことがないので確証はない。しかし、お兄さんは優しいのでお風呂から上がる頃には許してくれている、と思いたい。
「そう言えば、従妹ってマスターと昔から知り合いでしたっけ?」
「そりゃ、従妹同士だし。数回しか会ったことないけど……」
「昔のマスターってどんな人だったんですか?」
先ほどの涙はどこへ行ったのか、彼女は目をキラキラさせて問いかけて来る。
「え、えっと……」
少しだけ見栄を張ってしまったが、実はお兄さんとは1回しか会っていない。昔のお兄さんを知っていると言っても……。
「? 従妹、どうして顔を紅くしているのですか?」
「な、何でもないッ!!」
あの時のことを思い出してしまった。頬に手を当ててゆかりさんから顔を背ける。
「何かあったのですか?」
「何でもないってば!」
このことは私とお兄さんだけの秘密。ゆかりさんに話すわけにはいかない。
そう、あの時――私がまだ5歳の時に起きた事故。そして、その時に交わした約束。それは私の初恋の話。
13年前。当時、5歳だった私は田舎に住んでいた。買い物するのに1時間ほど車で移動しなければならないほど山の奥に住んでいたのだ。
そんなある日。その日は夏でとても暑かった。
「従兄?」
まだ5歳だった私は幼稚園も夏休みということで暇な日々を過ごしていると突然、両親が出かけることになった。しかし、まだ一人でお留守番させるのは心配だったようで、急遽、子守りとしてお兄さんにここに来るように頼んだそうだ。
「従兄って何?」
母親にそう問いかけると少し考えた後、『アナタのお兄さん的な人よ』と答えた。
(お兄ちゃん!?)
幼稚園でよく友達がお兄ちゃんの話をしていたのでずっと羨ましかったのだ。でも、母親に『お兄ちゃんが欲しい!』と言ったらものすごく困っていた。それを見て『お兄ちゃんはもう出来ないんだ……』とショックを受けたものだ。
「お兄ちゃんが出来るの!?」
一度、諦めた兄がいたと聞いた私は飛び上がって喜んだ。母親は『あ、あら……勘違いしちゃった?』みたいな表情で私を見ていたが、そんなことどうでもよかった。
(お兄ちゃん! お兄ちゃんが出来るんだ!!)
お兄さんの話を聞いた日は寝付けなかった。お兄さんが来るのは2日後だと聞いたが、テンションが上がり過ぎて目を閉じても眠気など一切、襲って来なかったのだ。
待ちに待ったお兄さんが来る日。
「行ってらっしゃーい!」
車に乗り込んだ両親に手を振って私は慌てて家の中に入った。そして、玄関に座布団を持って来てそれに正座しながらお兄さんを待ち続けた。
(まだかな! まだかな!!)
ワクワクしているとチャイムが鳴る。
(来たあああああああ!!)
「はーい!!」
座布団からジャンプして玄関を開けた。
「うおっ!?」
そこには私よりも大きな男の子がいた。その子は目を見開いて私を見ている。そう、お兄さんだ。
「いらっしゃい!」
「え、あ、うん。お邪魔します」
最初は硬直していたお兄さんもいそいそと家の中に入った。
「ん? 座布団?」
まず、お兄さんが疑問に思ったのは玄関に置いてあった座布団だった。それを無視して座布団を抱えて居間に入る。首を傾げながらお兄さんもついて来た。
「はい、座布団どうぞ!」
持っていた座布団をお兄さんに渡す。
「あ、ありがと……」
お兄さんは狼狽えながら座布団を受け取り、床に置いて胡坐を掻いた。すかさず、その上に座る。これに憧れていたのだ。
(ものすごく、座りやすい!!)
予想以上に座り心地がよくてお兄さんの胸に背中を預けた。
「えっと……ゆかりちゃん、だったかな? 今日はよろしくね」
私が座った事に驚いているようだが、そう挨拶してくれる。
「うん! お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん?」
「そうだよ! お母さんが言ってたの! 従兄ってお兄ちゃんみたいな人だって! だから、お兄ちゃん!」
「そ、そっか……うん、わかった。俺はゆかりちゃんのお兄ちゃんね」
「ううん! 私のこと、ゆかりって呼んで!!」
そうお願いするとお兄さんは首を傾げた。
「えっとね! ともちゃんがいつもお兄ちゃんの話をしててね! お兄ちゃんにちゃん付けじゃなくて、名前で呼ばれてるんだって! だから、私もゆかりって呼んで!」
「う、うん。わかったよ、ゆかり」
「うん!!」
苦笑を浮かべているお兄さんを見上げて私は笑顔で頷く。
お昼を一緒に作り、私とお兄さんは居間でお互いに正座しながら見つめ合っていた。
「……ゆかり、本当にやるの?」
「もちろん! これでも私、ケイケンホウフなんだよ!」
「でも……」
「まかせて! お兄ちゃんは何もしなくていいから!」
「……うん、わかった。その、よろしく」
頷いたお兄ちゃんは私のお膝に頭を乗せた。
「じゃあ、行きますよー。動かないでくださいねー」
そう言いながら私は耳かきをお兄さんの耳にそっと入れる。それから、慎重に耳かきを操って掃除して行く。
「あー……気持ちいい」
お兄さんがそう呟く。
「気持ちいい?」
「うん、ゆかりって耳かきが上手なんだね」
「えへへ」
嬉しくってつい手に力が入り、耳かきが勢いよくお兄さんの耳の奥を突いた。
「ぎゃあああああああああああああああ!!」
お兄さんの叫び声が響き渡った。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「い、いや……大丈夫だよ。鼓膜は大丈夫だったから……」
私の頭にポンと手を置いて許してくれるお兄さん。
(こ、これはッ!?)
ともちゃんが言っていた頭なでなでだ。
(心がポカポカする……)
お兄さんの手は暖かい。温もりが伝わって来て、幸せな気分になった。
「それじゃ次は何をしようか?」
しかし、お兄さんの手はすぐに離れてしまう。
「あ……」
名残惜しくて思わず、声が漏れてしまった。
「ん? どうしたの?」
「え、えっとね? その……」
「何かな?」
もじもじしている私に目線を合わせて来るお兄さん。
「そ、その、ね? 頭……撫でて欲しくて」
「頭? こうかな?」
確かめるように私の頭に手を乗せてゆっくりと撫でる。
「えへへ」
自然と笑顔になってしまう。喜びを抑え切れずに声が漏れてしまった。
「これでいいかな?」
「うん! お兄ちゃんの手、気持ちいい!」
「そ、そう?」
それからしばらく、お兄ちゃんに撫でられ続けた。
「お兄ちゃん! 遊びに行こっ!」
時刻はだいたい3時。お兄ちゃんが作ってくれたシュークリームを食べながら私は提案する。
「遊びに? どこに行くの?」
私の口の周りに付いた生クリームをティッシュで拭いながら聞いて来た。
「いつもの場所!」
「いや……いつもの場所って分からないんだけど……」
「えっと、楽しい場所!」
「楽しい場所かぁ。それじゃちょっとだけだよ? 帰りが遅くなったらお父さんとお母さんが心配するからね?」
「うん!!」
この時は知らなかった。まさか、あんなことになるなんて。
「ここだよ!」
家の裏の山を登り続けて私たちは目的の場所に着いた。
「ここは?」
「洞窟!」
この山は昔から石炭が多く取れる。なので、このように採掘現場も数多くあるのだ。
「洞窟って……危ないんじゃないの?」
「大丈夫だよ! いつも入ってるから!」
「いや、でも……」
「お兄ちゃん、早く来て!」
困っているお兄ちゃんを置いて私は採掘現場へ入った。
「あ、待ってよ! ゆかり!!」
慌ててお兄ちゃんもついて来る。
「早く早く!」
私の声が洞窟に反響している。
「待ってって! 転ぶよ!」
「大丈夫大丈夫!」
いつもここで遊んでいるのだ。今日だって大丈夫。
「いつっ……」
その時、背後でお兄さんが頭を抱えて立ち止まった。
「お兄ちゃん?」
吃驚して私も止まる。
「だ、大丈夫……何か、変な頭痛がしただけ……」
その言葉は本当のようでお兄ちゃんはすぐに私の傍に駆け寄った。
「はい、捕まえた」
「あ!?」
そのまま、私を抱っこしてしまう。
「捕まっちゃった……」
「鬼ごっこはおしまい。ここは危ないから早く出よう」
「えええ!? 大丈夫なのに!」
「駄目だよ? ここはものすごく危ないんだから……地震とか来たら――」
そうお兄さんが呟いた瞬間、微かに振動を感じた。
「な、何?」
その振動はどんどん大きくなる。
「ま、まさか……」
顔を青ざめさせたお兄さんは私を降ろす。
「お兄ちゃん、これな――」
『これ何?』と問いかけたかったが、その前に――。
「ゆかりッ!! 伏せて!!」
――お兄さんに押さえつけられた。
その後、凄まじい振動が私たちを襲う。
(な、何!?)
混乱している私はお兄さんの体の隙間から洞窟の天井を見た。そして、それを見てしまう。天井が崩れた瞬間を。
「お兄ちゃんッ!!」
「ッ!」
私の悲鳴を聞いて咄嗟にお兄さんが私を抱えながら前にジャンプ。私を守るためにお兄さんは背中から地面に落ちた。それと同時に先ほどまでいたところに瓦礫が落ちて来る。
「「……」」
しばらくその場で待っていると振動は落ち着いて行く。
「……大丈夫? ゆかり」
「う、うん……お兄ちゃんは?」
「大丈夫だよ。でも……」
立ち上がったお兄さんは振り返る。それに釣られて私もそちらを見た。
「あ、あれ?」
しかし、そこにあるはずの道がない。壁しかなかった。
「……まずいな。帰り道が塞がっちゃった」
「お兄ちゃん? どういうこと?」
不安になってお兄さんの袖を摘まむ。
「えっと……別の出口を探さなくちゃいけないってことかな?」
「え……」
「ゆかり、別の入り口からここに入ったことない?」
「な、ないよ?」
「そっか。なら、手探りで探すしかないか……」
それから私の方へ手を伸ばす。
「ゆかり、必ずここから出よう」
「え、えっと?」
正直、私は何が起きているのかわからなかった。さっきの振動のせいで帰り道が塞がってしまったのはわかるのだが、それ以上のことはわからない。
「お、お兄ちゃん……」
「何?」
「私たち、どうなっちゃうの?」
何だか、どんどん不安が募って恐怖へ変わっていく。目に涙が溜まっていく。
「大丈夫」
私の頭にポンと手を置いてお兄さんが笑う。
「ゆかりのことは俺が守るから」
「……うん!」
私はお兄さんの手を握って歩き始めた。真っ暗な洞窟の先を見ながら。
「……ないな」
歩いてどれほど経っただろう。私とお兄さんは何度か休憩しながら洞窟を彷徨っているが出口は見つからなかった。
「ゴメンね……お兄ちゃん」
「ゆかり?」
「私がここに来ようって言わなかったら……」
それにお兄さんの話を聞いていたらこうなっていなかったはずだ。だから、全ては私の――。
「ゆかりのせいじゃないよ」
「っ……」
「きっと、こういう運命だったんだ。ゆかりのせいじゃないって」
「うん……」
「それに俺たちは助かるよ。だから、安心して、ね?」
そういうお兄さんだったが、幼い私でもわかった。
まるで、お兄さんの言い方が自分に言い聞かせているようなものだったことを。
「お兄ちゃん……」
やはり、お兄さんも不安なのだ。
「大丈夫。ゆかりは俺が絶対に守るから。約束だよ」
ギュッと私を抱きしめてお兄さんが約束してくれる。
「……うん」
それが嬉しかった。
(お兄ちゃん……私の為に)
何だか、胸の奥に違和感を覚えた。今まで感じたことのない感情。
「それじゃ行こうか」
ニッコリと笑ってお兄さん。
「っ……う、うん」
その顔をまともに見られなくて顔を背けてしまう。
(な、何……これ?)
突然の変化に戸惑ってしまう私だったが、その正体を確かめる前にお兄さんが歩き始めてしまった。
「あ、待って!」
慌てて歩き出そうとするも急ぎ過ぎてしまい、転んでしまう。
「ゆかり、大丈夫!?」
転んだ拍子に大きな音がしたのでお兄さんも気付いたようだ。すぐに駆け寄って来てくれる。
「だ、だいじょ――いたっ」
立ち上がろうとするも右足首に激痛が走って尻餅を付いてしまった。
「足、痛いのか?」
「う、うん……」
泣くほど痛いというわけではないが、歩けない。
「ゆかり、捕まって」
私に背を向けてしゃがんだお兄さんはそう言った。
「え?」
「おんぶするから」
「あ、ありがとう……」
恐る恐るお兄さんの背中に掴まる。
「よっと」
すぐにお兄さんが立ち上がった。視界が高くなる。
「う、うぅ……」
何だか、ものすごく恥ずかしくてお兄さんの背中に顔を埋めた。
「ゆかり?」
「な、何でもない!」
駄目だ。まともにお兄さんと会話が出来ない。私はどうなってしまったのだろう。
不思議に思っていると私は小さな揺れを感じた。
「お、お兄ちゃん! 揺れてる!!」
「え!?」
どうやら、揺れが微弱過ぎたようでお兄さんは気付いていなかったようだ。
「ゆかり! 一回、降ろすよ!」
「うん!」
お兄さんの背中から降りてその場にしゃがむ。地震が来た時、こうするといいとテレビで見たのを思い出したのだ。
「大丈夫。すぐ止むから」
しゃがんでいる私をギュッと抱きしめながらお兄さんが言ってくれる。
「うん……」
しかし、揺れは小さくなるどころかどんどん大きくなっていく。さっきよりも強い揺れになった。
「お、お兄ちゃん!!」
怖い。私の心にはそんな感情しかなかった。このまま、私たちは――。
「大丈夫!! 必ず、俺がゆかりを守るから!! 俺を信じてッ!!」
「ッ!?」
その言葉を聞いた瞬間、私の心から恐怖は消え去った。
お兄さんなら私を守ってくれる。
お兄さんと一緒ならここから脱出できる。
そう、信じることが出来た。
「うわっ!?」
揺れがまた大きくなった拍子に私はバランスを崩してしまい、後ろに倒れてしまった。お兄さんも尻餅を付いてしまったので自然と私たちは離れてしまう。
「ゆかり!! 上!!」
その声を聞いて咄嗟に天井を見上げた。
「あ……」
天井が崩れ、私に向かって瓦礫が落ちて来ていた。逃げようとするが、右足に痛みが走って怯んでしまう。その一瞬の怯みでも私にとって致命的なタイムロスになった。気付けば、瓦礫はもうすぐ目の前にある。
「ゆかりいいいいい!!」
瓦礫だらけの視界が真っ暗になった。それと同時に温かいぬくもりを体全体で感じる。
「ガッ……」
そんな短い悲鳴と共に――。
「……あれ?」
どうやら、私は気絶していたようだ。
(体が、動かない?)
体を動かそうとしても上手く動かせなかった。それに重い。私の上に何か乗っているようだ。
「お兄ちゃん?」
そう、私の上に乗っているのはお兄さんだ。お兄さんの匂いもするし、暖かい。
「お兄ちゃん?」
でも、いくら呼びかけても返事はなかった。
「お兄ちゃんってば!!」
大きな声で呼びかける。やっぱり、返事はなかったがその返事の代わりに何かが私の頬に当たった。
(これは?)
当たった物は私の頬をなぞるように落ちていく。液体だと分かった。
「何、これ?」
右腕は動かせるようで頬に手を当てた。その液体は生暖かく、とても鉄臭かった。
「お、兄ちゃん?」
私はこの液体を知っている。何度も見て来た。転んだ時。紙で指を切った時。でも、今日ほどこれを見たくなかった日はなかった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!!」
血。お兄さんから血が流れているのだ。どこか怪我をしているらしい。
「お兄ちゃん!! 返事してよ!!」
いくら呼びかけても答える声はない。それどころか、どんどん温もりが消えて行く。
「お兄ちゃん!!」
「誰かいるのか!!」
その時、誰かのくぐもった声が聞こえた。
「助けて!! お兄ちゃんが! お兄ちゃんが!!」
「おい! あそこの瓦礫の中だ!! 急げ!!」
外で何かを動かす音が何度も聞こえ続ける。
「お兄ちゃん! 助けが来たよ! だから、頑張って!!」
その間、私はずっとお兄さんに話しかけ続けた。
「お願い……お兄ちゃん。目を覚まして」
消えてゆく温もり。滴り落ちて来る血。蝕む恐怖心。
お兄さんがこのまま消えてしまうのではないか? このまま、私たちは一生、話すことが出来ないのではないか? このまま、お兄さんは――。
悪い思考が私の頭を支配する。
「おい! 大丈夫か!!」
声が枯れ、もう諦めかけた時、やっと私たちに一筋の光が降り注いだ。
「っ! やった、お兄ちゃん! やった……よ」
私は見てしまった。
「お兄ちゃんっ」
お兄さんが頭から少なくない量の血を流しながらも私のことをずっと抱きしめ続けてくれていたのを。
――俺を信じてッ!!
「怪我してるぞ! 応援はまだか!?」
外からそんな声が聞こえるが、私はそれどころじゃなかった。
「お兄ちゃん……ありがとう」
約束通り、お兄さんは私を守ってくれた。自分の身を犠牲にして。
「ありがとう……ありがとう……」
お礼を言いながら私は涙を流す。
やっと、わかった。あの時、お兄さんに抱いた感情の正体が。
私は――お兄さんのことが好きになったのだ。初恋だった。
「……ん?」
目を覚ますと私は知らない場所にいた。体を起こそうとするが痛くて上手く起き上がることが出来ない。
「お兄ちゃん?」
首を動かして辺りを見渡してもお兄さんの姿はどこにもなかった。
(ここは……病院?)
「ゆかり!!」
そんな声と共に部屋に入って来たのはお父さんだった。お父さんも頭に包帯を巻いている。
「よかった……お前までいなくなったら……俺は……俺は……」
そう言いながら私を抱きしめた。
「お、とうさん?」
嫌な予感がする。
それからお父さんは全てを話してくれた。
あの地震はとても大きく、被害がとんでもないことになっていること。
両親も地震に巻き込まれたこと。
……そして、その地震でお母さんが死んでしまったこと。
「お母さん……死んじゃったの?」
「……ああ」
「そんな……」
今朝はあんなに元気よく出かけて行ったお母さんがもうこの世にいない。そして、下手したら私もそうなっていたことに恐怖した。それからしばらく、声を上げて泣いた。お父さんと一緒に。
「そうだ! お兄ちゃんは!?」
何とか、落ち着いた私が次に思ったのはお兄さんの安否だった。
「……それが」
お父さんの話ではお兄ちゃんは頭に大きな怪我を負ってしまい、大きな病院へ搬送されたらしい。命に別状はないようだが、頭に瓦礫が当たった衝撃で記憶が一部、なくなっていて当時のことを思い出せない状況、だった。
「そっか……」
それを聞いて私は安心してしまった。あんなことがあったのだ。思い出せない方がいいに決まっている。
「ゆかり、大丈夫か?」
「うん……大丈夫だよ」
私の命はお兄さんに守って貰った。
だから、私は生きなければならない。死んじゃったお母さんの分も生きなければならない。
確かに、とても悲しくて寂しい。でも、それでも私は生きる。
それが私に出来る精一杯の恩返しなのだから――。
そして――。
「ねぇ、お父さん」
事故から数日が経った。まだ怪我が治っておらず、ベッドの上で横になっている私はリンゴの皮を剥いているお父さんに話しかけた。
「ん? 何?」
リンゴからこちらに顔を向けたお父さん。少しだけ顔がやつれていた。
「私、習いたいものがあるの」
習い事をしよう。
今度は私がお兄さんを守ってあげるのだ。
いつになるかわからないけれど。
私はそう、決心したのだった。
「――こ」
「……」
「従妹! 大丈夫ですか?」
「……え?」
気付けば目の前にゆかりさんの顔があった。
「本当に大丈夫なんですか? 急に黙り込んで……のぼせましたか?」
「……ううん。何でもない。そろそろ、上ろうか」
「ええ……本当にマスターは許してくれるのでしょうか?」
「許してくれるよ」
私が断言したのが意外だったのか、ゆかりさんが目を丸くする。
「お兄さんは……優しいからね」
何となくだが、今はそう思えた。
「……そうですね」
ゆかりさんも納得したのか、笑顔で頷く。
ほぼ同時に私たちは立ち上がった。
もう一度、お兄さんに謝るために。
「はぁ、どんだけ心配したと思ってんだよ」
「悪い悪い」
「それにしても記憶が飛ぶほどの衝撃を受けてよく無事だったな」
「俺も吃驚だよ。目を覚ましたら病院だったんだから」
「本当に何も覚えてないのか?」
「……ああ。でも」
「ん?」
「誰かを守らなくちゃって……思ってた。それで、俺はそれを守って怪我を負った。そんな気がするんだ」
「……そっか。まぁ、守れたんならいいじゃねーか。無事で良かったよ。でも、間に合うのか?」
「……無理そうだ。あーあ、頑張ったのにな」
「そりゃ残念だ。応援に行きたかったんだけどな」
「仕方ないさ。何も焦る必要なんてない。まだ中学1年だぜ? 俺たち」
「……逆に中学1年でどうしてあそこまで行けたんだよ」
「日々の鍛練だな」
「ホントにお前は……さて、そろそろ俺、行くよ」
「お見舞いサンキュな」
「気にすんな。俺たち……親友だろ?」
「おう、そうだな」




