そうだ、海に行こう。
くすっと笑えるような、楽しい作品を。
「明日の最高気温は、42度となる見込みです。」
地球はおかしい。
テレビのお天気お姉さんの声を、ぼんやりと聞き流す。
クーラーの効いた涼しい部屋。
キンキンに冷えた冷たいジュースに、外側がじんわりと溶けたカップアイス。
三種の神器を手にした僕は、無敵状態。
学校が夏休みに入り、外への用事のない僕は、暑さとは無縁のこの素晴らしい環境に甘んじて今日一日
をダラダラと過ごしていた。
賢い僕は夏休みの宿題をとっくに終えて、心に大きなゆとりがある。
「そうだわ!海に行きましょう!!」
僕の後ろで、同じようにテレビを見ながらアイスを食べていた長女、ミハル姉さんが突然そう叫んだ。
は?
僕は姉さんの発言の意味を理解することができなかった。
42度という馬鹿みたいに暑い温度を、聞いていなかったんだろうか。
いやいや、落ち着け、僕。
こんな猛暑の中外に行こうなんて、姉さんが言い出すはずがない。
きっと幻聴だ。
幻聴を聞いたんだ。
そろそろと視線を動かせば、口を大きく開けて『信じられない』という顔を貼り付けた長男、タツヒコ
兄さんと目が合った。
うん。
どうやら幻聴じゃなかったみたいだ。
「近頃の地球はおかしいわ。連日続く猛暑に、私は頭がどうにかなってしまいそう!」
姉さんの頭の中は既におかしいです。と、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこむ。
ミハル姉さんを怒らすと、恐ろしい目に合うと身をもって知っているからだ。
「そうよ!今こそ!海でバカンスを楽しむべきなのだわ!!」
僕の顔は今、悟りを開いた菩薩のようになっていることだろう。
姉さんがこんな風に言い出してしまったら、もう僕に逆らう術はない。
これが末っ子の背負った、悲しい宿命なのだ。
ごめんよ、地球。
さっきはおかしいなんて思っちゃってさ。
42度なんてたいしたことないよ。
お風呂の温度だって、それくらいだ。
ミハル姉さんの方がよっぽどおかしかったよ。
「まあ!素敵‼海でバカンスだなんて。さすがお姉さま。発想の仕方が常人とは違いますわぁ!」
……ここにもおかしいのが一人いた。
常人は、猛暑の中外に出るような自殺行為は自ら進んで行わないんだよ。
僕は痛み出した頭をそっと抑えた。
彼女は次女のイチカ姉さん。
ミハル姉さんのストーカーだ。
ミハル姉さんのことなら何でも知っているし、姉さんのいるところには必ずイチカ姉さんがいる。
ミハル姉さんの言動全てを把握し、肯定する、我が姉ながら恐ろしい人物だ。
我が兄弟姉妹には集団行動をするにあたり、多数決制という無慈悲な制度がある。
五人兄弟姉妹である僕らにとって、それはとても合理的な採決法と言える。
が、しかし。
ご覧の通り、ミハル姉さんが言い出したことに、イチカ姉さんは必ず賛同する。
僕とタツヒコ兄さんが反対をする。
そして決定打となる一票は、次男であるカナデ兄さんにゆだねられるのだけど……。
「なんの話?」
ガチャリとリビングに現れたのは、そのカナデ兄さん。
あんまり期待できないけど、万が一を込めて念じておく。
どうかカナデ兄さんが、海は行かないといいますようにっ!
ああでも、無理なんだろうなぁ。
カナデ兄さん、抜けてるからなぁ。
いつものようにイチカ姉さんに誘導されて、姉さんの思う発言をするのだろうなぁ。
「ねえ、カナデ兄さん。」
ああ、やっぱり。
カナデ兄さんに駆け寄るイチカ姉さんを見つめながら、頭の中で海に行くときに持っていく持ち物リストを作り始める。
「海に行こうって話をしててね。」
「海?」
「かき氷に、焼きそばでしょ。フランクフルトに焼きトウモロコシ!」
兄さん。
よく考えるんだよ。
それ、全部食べ物だよ。
海に行かなくても食べれるよ……。
「食べたい!行くっ!!」
だよねー。
うん、知ってた。
兄さん食べ物大好きだもんね。
かき氷って聞いた時から、目をキラキラさせてたもんね。
ふっと勝ち誇った顔をしたイチカ姉さん。
「お姉さま!海へのバカンス行き、決まりましたわ!」
パッと表情を変えてミハル姉さんにすり寄っていく。
「そう。じゃあ早速準備しなくちゃね。イチカ、一緒に水着を選びましょう。」
「はーい!お姉さま!!」
二人の姉さんが去ったあと、僕は不穏なオーラを醸し出しているタツヒコ兄さんを恐る恐るうかがった。
「ふ、ふふふ……。」
「に、兄さん?」
「あいつ、わかっているのか?自分の状況を。今年高三だろ?受験だろ?
受験生にとって夏っていうのは自分の将来かかるほどに大事なものなんじゃないか?」
「そ、そうだね。一般的に高三の夏は天王山!とか言ったりして、大事なものだよ。」
「今年こそは、大人しくしていると思っていたのにっ!!」
ダンっと兄さんは拳をテーブルに叩きつけた。
よく見るとうつむいたその頬には、涙が伝った跡が見える。
泣くほど辛いんだ、兄さん。
わかるよ、僕にもその気持ち。
でもこれはルールだ。
大人になるまで逃れられない、我が家の決まり。
僕の家は、僕を含めた五人兄弟姉妹と普段は海外を飛び回っていてあまり家に帰ってこない父さんと母さんの七人家族だ。
兄弟姉妹は上から、今年高校三年生で受験を控えているミハル姉さん。
中学三年生で同じく受験の学年ではあるものの、中高一貫校のため受験生ではないタツヒコ兄さん。
見事受験合格を果たし、この春からタツヒコ兄さんと同じ中高一貫校に通うことになった一年生の次
男、カナデ兄さん。
受験はしないと公言している、小学六年生の次女、イチカ姉さん。
そしてイチカ姉さんの一つ下で、この前10歳になった五年生、末っ子の僕だ。
家に不在がちの両親は僕たちのことを心配して、大人になるまで破ってはいけないルールをいくつか作ったんだけど、それの一つに、こんなものがある。
『遊びに行くときは、必ず兄弟姉妹全員で。』
多分、年下の僕やイチカ姉さんが家に置いてけぼりにされないようにって配慮なんだろうけど……。
ちなみにルールを破るとお小遣いなしと、用事を細々と言いつけられて自由時間が減らされるという恐
ろしい罰が待っている。
つまり、ミハル姉さんの思い付きの海へのバカンスが決定した今、行かないという選択肢は存在しないのだ。
「兄さん、そんなに落ち込んでどうしたの?悪いものでも食べた?」
うつむいた姿勢のまま動かないタツヒコ兄さんを心配して、カナデ兄さんがそう声をかける。
「いい、カナデ。お前は悪くない。自分の欲望が赴くままに、食べたいと言っただけなんだ。わかってるんだ。カナデが悪くないことはっ!!」
僕は、カナデ兄さんの一票がとどめを刺したんだよ、と心の中でつぶやいておく。
「くうっつ!あと半年だ。半年たって、大学生になれば、あいつは家を出ていくはず!!!」
あと半年、あと半年……。
ぶつぶつと呪文のように唱えながら、兄さんはリビングを出ていった。
タツヒコ兄さんは、イチカ姉さんとの様々な思い出により、姉さんのことが大の苦手になってしまっている。
そうっとしておこう。
……ところで、大学生になったら家を出るなんて、姉さん言ってたかな?
少々の疑問は残りながらも、一連のタツヒコ兄さんの挙動は全て忘れておいてあげることにした。
「兄さん、よっぽどお腹に悪いものを食べたんだね。後で薬持って行ってあげよう。」
食べ物のことしか頭にない、カナデ兄さんのことも一緒に忘れることにして、すっかり溶けてしまったアイスを勢いよくさらえてしまった。