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嗤いの門

掲載日:2020/07/18

 都心の終電は、一つ空気が違う。

 終日擦り切れた気力が、今にも切れそうな線のようになりながら、溜まり混んだ鬱憤と狂気を何とか押さえ込んでいる。

 誰もが心に疲れを背負い、帰路への思いをただ希望として、電車に揺られ続ける。

 今日も暗闇の中、コンクリのホームに終電が到着した。

 これを逃せば家へ帰れない人々が我先にと飛び乗り、駅員が構内で最後の念押しをする。


「ご注意下さい。これ以降の電車はありません」


 俺は何とか乗り込むと、開いた扉とは反対の扉と椅子の間にある隙間に身をすぼめ、発車も待った。

 ドアが閉まる。車内は満員に近い。

 中央には席へ座れなかった会社員が半目開きでゆらゆらと揺れている。

 前にはねじれたネクタイも直さず泥酔した白髪の男性。

 横にはジッとスマホの画面に目を走らせる若い女性。

 皆一様に静かで、ただ首を下に向けている。

 そこには心身のあらゆる疲れが淀み、燻り、いるだけで自分を惨めに思わせる。


 駅を過ぎる瞬間、ドタドタと大きな駆け足の音が聞こえてきた。

 見れば、小太りな40代ほどの男が、丸めた上着と黒いバッグを両手で抱え込み、真っ赤な目を更に血走らせて、階段を登り電車目掛けて駆けてくるところだった。

 その勢いはまるでイノシシが突進するかのようで、俺の立つドアに滑り込もうとしている。

 しかし既にドアは閉まり、電車は動き出していた。駅員も車掌も男に気付くことない。


(かわいそうだが、こんなギリギリの時間に乗るハメにならないよう注意しなかった自分を恨めよ)


 それでも男は諦めが悪く、動き出す電車へ必死に駆け寄ってくる。

 扉の前にいた俺は、窓越しに目が合った。

 男は、ただでさえ疲れで垂れ下がった顔の皮膚に、目と鼻の穴を大きく膨らませ、歯茎をむき出しにしたそれは、豚のように酷い顔だ。

 だが、その時の俺も、無情で酷い考えを浮かべてしまうほどの疲れており、男と同じく酷い顔をしていたのだろう。

 互いの醜悪さが交わったとき、男は目を丸くし、我に返ったのか足をぴたりと止めた。

 次にどんな表情をしていたのか、それを確認する間もなく、電車は加速し、窓の外の風景は一瞬のうちに遙か後ろへと消えていった。

 周囲の人は、今の光景に好奇の目を向け、鼻を鳴らした。

 口元をおさえ、姿が見えなくなると共にニタリと笑いをこぼす者もいた。

 慌てた人間の見せる必死さゆえの滑稽ぶりに、誰もが直接口にはしなくとも、車内ではその笑いを共有しされる。

 だが俺は、間近で見てしまったことで不快感の法が上回っていた。


(今の男は終電を逃して、これからどうするのだろうか。でも、俺はただ目が合っただけで、関係のないことだ)


 達観しながらも、胸の内では悲惨な様子の他人に対して何もせず傍観してしまったと、罪悪感がわいてくる。

 肩が重く、よれたシャツは汗だらけ。目の隈は何日も取れていない。

 こんな俺にこれ以上余計なストレスを背負わすなと、俺は苛立ちが沸いてきた。

 狭い電車の中でなければ、自制心はとっくに壊れて、壁に拳を叩きつけ、喉が枯れるまで叫んでいた。

 電車は再び重苦しい雰囲気に戻り、ガタガタと揺れ続ける。

 あの奇妙な笑いの空間をみたせいか、今日は特段に気味悪さが増していて、俺はあの男のように歯を食いしばり、ひたすらに耐え続け、家の最寄り駅に着いた電車がそのドアを開けた瞬間、一目散にホームへ飛び出した。

 少しでも早くこの気持ち悪い空気を脱ぎ去ろうと、階段を駆け下り、既にボロボロとなった定期入れを取り出す。

 黄ばんだ蛍光灯に照らされた5つの改札口。

 一人分の狭い隙間に、ボロボロとなったタイルの奥で灰色のストッパーが突き出ている。

 俺は真ん中の改札に向かい、定期を青光のタッチポイントに擦りつけ、サッサとこの駅を出ようとした。



 ビィーーー



 耳障りな警告音。

 改札の機械全体に取り付けられた、赤色のライトが発光する。

 俺はストッパーに足をぶつけ、火傷しそうなほどの羞恥心を覚えた。

 こんなに早足で通り抜けようとした矢先に、こんなヘマをしたのだ。

 誰か他の客に見られてないかと振り返る。

 幸いというべきか、俺に追いついた一人目が今階段から姿を現しただけで、他に人はいない。

 だが、駅員は?

 改札の横にはガラスの出入り口で囲まれた駅員の窓口がある。

 見ると、メガネをかけた駅員が丁度あくびをしているところだった。

 何という幸運か。気付かれていなかったのか。


(いや、そもそもこの改札機がちゃんと反応してれば、こんな辱めを受けずに済んだんだ。ふざけやがって)


 俺は三歩戻り、未だ真っ赤に光る改札機から右隣のものへ、今度は丁寧にパネルへ定期をかざした。


 ビィーーー


 また、うるさい機械音が鳴った。

 一度目は恥辱だが、二度目は苛立ちが上回り、強く舌打ちした。

 何だというのだ。こういう気分の悪い日に限って、なぜ不幸な出来事は続くのかと、髪を乱暴に引っかき回した。

 他の客はエラー音を出す改札を避け、次々と外へ出て行く。

 中央の改札も、他の客の定期には正常に反応してゲートを容易に開く。

 あの窓口へ助けを請うか? いやこの失態を見たアイツは、俺を嘲笑あざわらうに違いない。

 だったら、自分で解決してやる。

 そう、反応が悪いのなら、このぼろっちい革の定期入れのせいに違いない。

 初めてあの会社に勤めたときに買ったものだが、結局はこんな時間まで働かせられて、入社時のほんのちょっと夢見ていたような初心なんてありはしない。

 グイッと中から定期のICカードを取り出すと、この役立たずな定期入れはゴミ箱に捨ててやろうと決めた。

 分厚いかわを無理やり二つ折りにして、胸元のポケットに突っ込んでおく。

 もう、俺の横を次々と、他の乗車客が定期を使って改札を通り抜け、駅の向こう側へと消えていく。

 俺もサッサとこの邪魔な板の向こうへ抜けようと、今度は定期カードを直にかざした。

 


 ビィーーー



 だが、再び、不快極まる音。

 俺の額に血管が浮き出し、我慢ならず、ついに声を荒げてしまった。

 改札から離れて、近くの壁に寄りかかり、壁を一つ叩く。

 この定期が何か磁場を浴びて壊れてしまったのか?

 そう思いながらカードをくるりと裏返したとき、定期の利用期限の日付が目に付く。


(そういえば、今日は何日だ・・・・・・?)


 朝から晩まで仕事三昧。よる場所もなく、会社と家の往復を繰り返す思考停止の日々。

 俺は、今日が何日なのか、そもそも曜日が何時だったのかすら思い出せないでいた。

 もはや、普通の人間なら当然なことすら、俺から抜け出ていたのか。


(もう限界だ、明日からあんな会社辞めてやる!! そうすれば、こんな深夜に一人でいらつくこともなくなるんだ!!)


 定期の期限が切れているなら、ICに足りない分の金額をチャージすれば良い。

 冷静に早速近くの券売機に向かい、画面を叩きながら、財布から紙幣を数枚抜き取り、一体いくら入れたのかもわからないほど、急いでチャージを完了させる。

 そう、この券売機がICを正しく読み取っているのなら、このカードは正常なはず。


(俺はサッサと駅から出る!! 俺は、あの終電にすら間に合わず乗り遅れるような間抜けと一緒じゃない!! この定期だって、明日からはオサラバだ!!)


 もう、この駅で降りた客は全員改札を出て行ってしまっている。

 取り残されたのは俺だけ。それを横の窓口から、駅員がジッと見ている。

 俺の眼中にはただ、この改札しか映っていなかった。




 ビィーー




 震える手で、もう一度。




 ビィーーーーーー




 鳴り響き続ける警告音。

 その場で動かず、カードをパネルからどけもしない。

 俺は首を90度横にグルンと曲げ、ラスの向こう側にいる駅員の方を見る。

 奴はジッと、俺の改札を身詰め続けていた。



(一体何なんだ!?)



 俺は、そこで初めて駅員の顔を把握した。

 やつはメガネの背後にある死んだ魚のように虚ろな目で、何も言わず俺を見続ける。

 その得体の知れない視線に怯え、俺の中で苛立ちは不安へと変わった。

 なぜ、あの駅員は、俺の今までの様子を見て、何も言ってこない?

 こんなに警告音が鳴っているのなら、何かしら声をかけるのが普通ではないか。

 ただああして、表情すら変えずに、ずっと俺を見ているんだ?

 俺は駅員から目が離せないまま、よろよろと後ろへ下がった。

 乾いた喉で何とか唾を飲込むと、窓口の方へ向かい、ガラスを叩いて怒鳴りつけた。


「おい、一体どうなってんだ!! この改札は何故俺を外に出さない!!」


 駅員は此方に目くれず、やはり改札を見続けている。

 やがてキョロキョロと周囲を見渡した後、窓口から出て、俺の方へ近づいてきた。

 いや、俺を無視してその改札に向かい、上から下をなめ回すように見る。

 そして口を開いたかと思えば、「おかしいな」「壊れたのか」とボソボソと呟いている。

 なにを今更、俺が困っているのを無視し続けていたくせに。


「だから、そんなことはどうでも良い!! さっさとこの定期を窓口の機械に通して、俺を外に出させろ!!」


 それはもう、叫び声に近かった。

 早くこの場から立ち去りたいという一心だった。

 あまりにも店員がその場を動かないので、俺は改札に定期をかざし、再び警告音を鳴らす。

 すると駅員は驚いたように立ち上がって、後ろを振り向いたが、俺と目は合わず、また改札へと見入ってしまう。

 苛立ちが満ちて、もう一言怒鳴りつけてやろうとしたとき、背後から階段を上がる足音と主に、若い駅員が一人やってきた。


「さっきから音鳴りっぱなしですけど、どうしました?」


「ああ、君にも聞こえたか。どうも調子が悪いらしくてな。誰も触れていないのに、勝手にエラーを起こすんだ。乗客が通るときには、正常に反応するんだがね」


 俺は、何か様子がおかしいことに気付く。

 今来たばかりの男がまっすぐ改札に向かってくるが、ここに立っている俺を見る素振りはない。

 改札の前には俺が立っているにも関わらず、会釈も、避けようともせず走ってくる。

 このままではぶつかる寸前、目と鼻の先の距離にまで接近してから、俺の方が慌てて避けることとなった。

 俺が驚きのあまり開いた口がふさがらなかったが、駅員は構わず改札へ近づき、一方の駅員の側によって会話を続けた。

 

(どういうことなんだ?)


 今、ここに乗客が一人取り残されているというのに、何の関心も示さないとは。

 いやそもそも演技でもなんでもなく、本当に俺の存在に気付いていたのか?



 そんなの、まるで俺が、幽霊だとでもいうみたいじゃないか。




「ふざけるなッ!! てめえ、俺を無視してんじゃねえ!!」



 一つ自分の中で、何かが爆発した。

 もう衝動を抑えることはできなかった。

 俺の両手はグンと伸び、目の前でかがんでいた駅員の首を鷲掴みにしていた。

 喉元に食い込む指。顔色が茹で蛸のように真っ赤になり、わずかに振り向いたその顔は目が飛び出しかけながら口をパクパクとさせる。


(駅から出せ、駅から出せ、駅から出せッ!!)


 苛立ちが消えない。

 脳が黒い塊に犯され尽くして、俺はただただ一層腕に力を込め、青筋が全身に浮かび上がった。

 俺はただ駅から出たいだけなのに、どうしてこんなに惨めで、荒んで、苛立ちに満ちた気分にならなくてはならないんだ。

 そんな気持ちが怒りとなって、濁流のように全身を暴れ回る。


「せ、先輩!? どうしました!?」


 一方の駅員の呼びかけにも、首を絞められた男は応えられない。

 反対に、俺の息は野犬のように荒くなり、目の前の男を苦しめることしか考えられなかった。

 頭の中に激情がひたすら熱くグルグルと渦巻き、もう自分でも止められない。

 ありったけの力をこめて、その首の骨までへし折るまでは。

 だが、そのとき、乱暴に突っ込んでいたせいだろう、胸のポケットにしまった定期入れが、下を向く俺の視界の中へぴょんと飛び出して、地面に落ちた。

 ボロボロの革、それは俺が初めてこの改札を通り抜けてから時間をかけてついていった傷跡。

 そのざらついた表面を撫でるたび、手に馴染んだ感覚を思い出すたび、俺はそこに自分自身を見ているような気がした。


「・・・・・・ハッ、ハッ!!」


 首を絞めていた手が数秒緩み、駅員は呼吸を取り戻した

 その様子を見た俺は、気付くとあれだけ力を込めていた両手を放していた。

 その首には俺の手の跡がべったりと残る。

 俺自身の手もドクドクと青筋がうねり、、まるで別人のようだ。

 全身汗だくとなりしゃがみこんだ駅員に、一方の駅員がかけよって声をかける。

 俺は、その様子を眺め、自分の腕をみて、そして落ちた定期入れをみた。

 そして数秒前の自分が恐ろしくなると、定期入れを引っ掴んで、一目散にホームへの階段の方へ駆けだしていた。


 ホームに行ったとして、その後はどこに行く?

 終電は去った。逃げたとしても、ここから出ることはできない。

 もうじき電気も消え、深夜の闇に全てが溶け込んでしまうだろう。

 あの改札という出口が俺を閉ざす限り、どこへも逃げられやしないのだ。

 俺はこの駅に取り憑かれている。いや、取り憑いているのは俺のほうなのか。

 誰の目にも映らない俺は、本当に今ここに現実として存在しているのかも分からない。

 もしかしたら惨めに駅に繋がれた地縛霊で、存在しない最終電車に乗り続け、出れない駅を彷徨い続け、あのような一時の感情の昂ぶりを持って人を殺してしまっているのではないか。

 あの終電に乗り遅れた男のように、俺の方もまた異常だったのか。

 俺はとっくに、気が狂ってしまっていたのか?

 そんな自分を見失っていく感覚に、ただ震え上がっていた。




 けれど、俺がホームへ向かう途中で、一度だけ後ろを振り向いたとき。

 二人の駅員がニタリと笑って俺の方を見ていたんだ。






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