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後半


「おはようございまーす」

 僕は言った。コンクールへの出品を終えた僕は、バーテンのバイトを再開したのだ。

「光、久しぶりやなぁ。この前はありがとうなぁ」 

 徹さんは言った。少し見ない間に随分と痩せていた。

「いえいえ、なんか徹さん、痩せました?」

「あ、やっぱわかるやんなぁ。なんか、最近、食欲ないねん」

「大丈夫ですか?」

「ありがとうなぁ。大丈夫やで」

 徹さんは言った。そう言いながら、細めた目にも力がなかった。

「ライブ、どうやった?」

 徹さんが続けて聞いた。

「あ、良かったです。かっこよかったですよ」

 僕は言った。僕の心に響かなかっただけで、他の人の心には響き渡っているかもしれない。

「ありがとうなぁ」

「いえいえ。いい彼女さんですね。なんか、うらやましくなりましたよ」

 僕は言った。

「・・・・・・千春と別れたんや」

 徹さんは言った。頬がこけていて、顔に大きな影が出来ていた。

「え、そうなんですか・・・?」

 僕は聞いた。徹さんが歌う姿を見つめる千春さんの切ない表情が頭に浮かんだ。

「ちゃんと就職せんのんやったら、別れるって言われてな。ちゃんと就職するっていうのは、俺に夢をあきらめろって事なんや。音楽辞めろってことやろ。俺から音楽とったら何が残るねん。ほんまに腹たつわ」

 徹さんはグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。僕は初めて徹さんの強がっている姿を見た。

「そうなんですか・・・」

 僕は言った。千春さんを非難する気にはなれなかった。そして、僕は瑠璃子とさよならした日を思い出した。「もう光にはついていけないわ」と窓から遠くを見ながら、静かに言った瑠璃子。

「あんな女、どうでもええわ」

「・・・」

「あいつが、前から俺のライブ見ながら、そんなん考えてたんかって思ったら、ほんま腹たつねん」

 徹さんはグラスにウイスキーを注ぎ、また、一気に飲み干した。  

「はい・・・」

「あいつは、心ん中では俺のこと、馬鹿にしとったんやで」

「いや・・・」

 徹さんが千春さんを罵れば罵るほど、徹さんの千春さんへの未練が伝わってきた。男はなんて弱い生き物なのだろうか。

 この日の徹さんは仕事中もずっと、ウイスキーを飲み続けていた。客が話しかけても、めんどくさそうに返事をするだけだった。客のグラスが空いていても、声をかけることなく、自分のグラスにウイスキーを注ぎ飲み続けていた。

 仕事が終わると、いつもと同じように、日の出を眺めながら、僕らは煙草を吸った。どんな日でも、太陽は昇ってくる。僕も徹さんも無言で煙草を吸った。僕は、徹さんに何か言葉をかけようと思ったが、言葉が浮かばなかった。千春さんだって辛いのだろう。あの日の千春さんの切ない表情。今日の徹さんの退廃的な姿。幸せと不幸せはいつでも隣り合わせ。徹さんを見て、元気づけたいと思いながらも、どこかほっとしている僕の中の小さな僕がいた。僕はだいぶ汚れていた。

 薄暗かった空が、明るくなっていた。僕らも空のように、暗から明へ当たり前のように変わっていくことができるのだろうか。


 

 僕が、マンションの扉を開けると、ぴょんたんが小屋の中で、早く出せとばかりにくるくる回りだした。

「ただいまぁ、ぴょんたん」

 僕はそう言いながら、小屋の鍵を開けた。ぴょんたんは一目散に小屋から飛び出すと、僕の元にかけよってきた。僕が乾燥イチゴに手を伸ばすとぴょんたんは鼻息を荒くして、早くくれとばかりに僕を見た。ぴょんたんは幸せそうに、乾燥イチゴを食べた。

僕は徹さんの姿を思い出した。徹さんの幸せは何なのだろうか。

ぴょんたんは、乾燥イチゴを食べ終えると、もっと欲しいんですけどというような顔で僕を見た。僕がそれを無視していると、じゃかわりに撫でてくれますかというように、僕の横に寝そべった。僕はぴょんたんの頭を撫でながら、これからの僕の道について考えた。父親の言葉が頭をぐるぐると回った。

「光の人生は、光の道だ。光が歩む道だ」

 そういえば僕の名前は「光」だった。

 気持ち良さそうにしているぴょんたんを見ながら、将来の事を考えなくていいぴょんたんと少しだけ変わりたいと思った。

 僕は本当に、限りなく僕を中心にして生きていた。


 

 個展の前日、朝から僕と裕也は、会場を見学にいった。

立派な額縁に入った僕の絵が何枚も並んでいた。額縁の隅には、数字の書かれた小さなシールが貼られていた。僕の絵が商品として並んでいた。

学生の頃、裕也と一緒に路上で絵を売った事があった。一枚千円に満たないくらいで、絵の具代が取り戻せるかどうかぐらいの値段だった。今回の僕の絵には一万円から三万円くらいの値段がつけられていた。裕也の絵は二万円から五万円くらいの値段がつけられていた。

「こんな高くて売れるんかな?」

 僕は聞いた。

「大丈夫だよ。自分の絵にはそれだけの価値がある、いや、それ以上の価値があるって思わないと。こんなの安すぎるくらいだよ」

 裕也は言った。

「あぁ、それはそうだな」

 僕は言った。

「芸術は不確かなものだから。価値があると思わせなくてはいけないんだ。そのためには自信を持った方がいいよ」

 裕也は自分の絵を見ながら、言った。

「あぁ、自信ね」

 僕は言った。

「うん、自信。正確に言えば、自信があるように見せればいんだよ」

 裕也は言った。瞳の奥は曇っていた。

「・・・そうだよな」

 僕は言った。

「僕の事、変わったって思う?」

 裕也は聞いた。

「うん」

「僕は、今の僕が嫌いだよ。だけど、僕はどうしても絵を描き続けたいんだ。本当はこんな絵、描きたくないんだ」

 裕也はそう言いながら、自分の絵を軽蔑するような眼差しで見つめた。

「・・・」

 僕は何も言えなかった。裕也の苦しさが痛い程に伝わってきた。だけど、それが裕也の選んだ道なのだ。  

「僕が、描きたいのはこんな絵じゃない」

 裕也は呟くように言った。

「うん」

 僕は小さく相槌をうった。

「僕はこんな絵が描きたい訳じゃないんだ」

 裕也は自分の絵に向かってもう一度、呟いた。裕也の描いたあたたかい絵の前に、苦しそうな裕也がいた。

「なぁ、裕也・・・大丈夫か」

 僕は静かに言った。

「・・・」

 裕也は何も答えなかったので、僕は続けて話した。

「前にさ、裕也が、軽蔑する?って俺に聞いたじゃん」

「うん」

 裕也が小さく頷いた。

「俺、軽蔑しないから」

 裕也は無言で頷いた。

「頑張ろうよ。個展」

 僕は言った。

「うん」

「頑張ろう」

 僕は僕の絵に向かって言った。

「僕さ、綾香と別れたんだ」

 裕也は言った。

「うん」

「僕が、別れようって言ったら、綾香・・・バケツ一杯分くらい泣いたんだ。理由は何?って聞かれたから、正直に話した。正直に話す事がいいのかわからなかったけど、わからなかったから正直に全部話したんだ。綾香は僕の事、最低だ、軽蔑するって言ったよ。僕は黙って聞いていた。綾香の気がすむまで、僕は聞くべきだと思ったし、そのくらいしか僕にできることはなかったから。泣き続ける綾香を見ながら、本当に僕は最低だと思った。だけど、もう一回やり直せるとしても、僕は同じ道を選ぶと思う」

 裕也は淡々と話した。

「うん、じゃあ今は美術商の娘と?」

 僕は聞いた。

「あぁ、付き合いはじめたよ」

 裕也はどうでもよさそうに言った。まるで、自分とは関係のない二人が付き合いだしたような言い方だった。

「そっか」

 僕も裕也のように、どうでもよさそうに言った。

「あぁ、でもだめなんだ」

 裕也は下を向いた。

「何が?」

「たたないんだ」

 裕也は下を向いたまま言った。まるで、床に話しかけているようだった。

「そっか」

 また、僕はどうでもいい事のように言った。

「抱いてって言われたから、交わろうとしたんだ。だけどさ、たたないんだ。どうしても・・・。それでも彼女は抱いてって言うんだ。私の事抱いて、強く抱いてってさ。彼女が抱いてって言いながら、僕を見るあの目が、どうしてもだめなんだ」

「疲れてるんだよ。きっとさ」

 僕は窓を開け、煙草に火をつけた。

窓から、生ゴミを漁るカラスが見えた。太った女性がカラスを見つけ、嫌な顔をしながら追い払った。カラスは近くの電柱まで飛んでいき、様子を見ていた。女性が離れると、カラスはまた戻ってきて生ゴミを漁り始めた。僕らもカラスのように強くしたたかに生きていかなくてはいけないのだろうか。

「小牧ちゃんと何かあった?」

 突然、裕也が聞いた。

「あぁ、小牧ちゃんから聞いた?」

 僕は聞いた。

「うん。光に遊ばれたって言ってた。今さら、遊ぶとか遊ばれるとかそういう関係でもない気がするけど」

 裕也はどうでもよさそうに言った。

「まぁね。でも小牧ちゃんには悪い事したと思う。しかもさ、俺、あれから小牧ちゃんの事、さけてるんだ」

 僕は言った。裕也には全て正直に話すつもりだった。三人の平和なアトリエを壊してしまった、せめてもの償いに。ただ、裕也は本当にどうでもよさそうだった。裕也にとって、アトリエは既に過去の場所なのだろう。

「うん」

 裕也は小さく頷いた。

「小牧ちゃんと寝た日の朝、瑠璃子から電話があったんだ」

「うん」

「何だろうと思ったらさ、お見合いするのって言われてさ」

「うん」

「あ、もしかして知ってた?」

「うん。相談された時、ちょっとだけ聞いた」

「そっか・・・」

「ごめん、黙ってて」

 裕也は申し訳なさそうに俯いた。

「いや、いいよ。でさ、瑠璃子にお見合いに行くなって言ってって言われたんだ。言えるわけないじゃん。俺・・・」

 僕はあの日の事を思い出した。頭が強く絞られたかのようにギュッと痛んだ。

「瑠璃子さんは、光の事を本当に愛してた」

 裕也は僕の目を見て言った。僕の心の奥に語りかけてきた。

「え?」

「だからさ、瑠璃子さんは、光の事を本当に愛してたんだ」

「・・・でも別れた方がいいって?」

「うん。光は瑠璃子さんよりも、絵を愛してるんだ」

 裕也は言った。その瞳が真っ直ぐすぎて、恐ろしかった。急に人間からロボットにでもなってしまったのではないかと思わせるような不気味さだった。

「・・・」

 僕は何も言えなかった。僕は瑠璃子より絵を愛していたのだろうか。

「僕は、何よりも絵を愛してるんだ」

 裕也は言った。その言葉に迷いはなかった。裕也の瞳の奥がギラギラとしていた。

「あ、うん」

 僕はとりあえず頷いた。

「あ、小牧ちゃんの話だったね」

 裕也が言った。いつもの裕也に戻っていた。ロボットからまた人間に戻ったようだった。

「うん」

 僕は訳がわからず、またとりあえず頷いた。

「小牧ちゃんは実家に帰るみたいだよ」

 裕也は言った。

「え?実家に?」

 僕は聞いた。驚きつつも、内心ほっとしていた。

「うん、実家に帰って、小さな会社の事務とかして、いい人見つけて、幸せな結婚したいって言ってた」

「そっか」

「うん、小牧ちゃんにはそういうのがあってるよ」

 裕也が言った。

「あぁ」

 僕は頷いた。そして続けて言った。

「俺ら、汚れてきたよな」

「うん」

 裕也は言った。

「俺、三十歳になったんだよ」

 僕は言った。

「うん」

「俺、三十歳になったのかぁ」

 僕はもう一度、三十歳と言葉に出してみた。三十歳って何なのだろう。何故、僕は三十歳を折り返し地点だと考えていたのだろうか。この日、僕と裕也は久しぶりに二人で飲みに出かけた。昔のように無茶苦茶な夢を語ることはなかった。

 


 個展は、朝からたくさんの人で賑わっていた。

美術商の娘さんの力だという事がすぐにわかるような顔ぶれだったが、僕の絵をたくさんの人に見てもらえるという事は単純に嬉しかった。いちよ裕也の彼女である美術商の娘さんは、色白で面長、細い目をしており、まるで狐のお面のような顔だった。笑うと目がなくなり、何も見えてないのではないかと思わせる程だった。娘さんはずっと裕也と腕をくんでいた。裕也は無表情で、たまに僕の方をちらっと見ていた。

この個展で僕は完全に裕也のおまけだったので、かなり暇だった。僕は隅の椅子に座り、会場の様子をぼんやりと眺めていた。

 皆、綺麗に着飾っている人ばかりで、この人達にとっては絵もアクセサリーの一つに過ぎないのだろうと思った。僕にとって絵は何なのだろうと・・・また深い森に迷い込みそうになっていたら、急にお婆さんに話しかけられた。

「あなたが光さんですか?」

 上品な萌黄色のスーツを着た、優しそうな可愛らしいお婆さんだった。

「あ、はい。大森光と申します」

 僕は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「あらあら。ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたね」

 お婆さんはゆっくりと穏やかに言った。

「いえいえ。ぼーっとしていたので。すいませんでした」

「あなたの絵、素敵ですね」

 お婆さんは穏やかに言った。

「ありがとうございます」

「ただ、あなたの絵に描かれている人は、皆どこか悲しそうにみえるわ。笑っていても悲しそうですね」

 お婆さんは僕の絵をじっと見ながら言った。

「はい」

 僕は何と答えたらよいかわからず、ただ頷いた。

「だけど、本当にとっても素敵だわ」

 お婆さんは僕の絵を近づいたり見たり、離れて見たりしながら言った。

「ありがとうございます」

「ねぇ、お願いがあるの。いいかしら?」

 お婆さんは小さく横に首を傾げ、僕に向かって微笑んだ。

「はい。何でしょうか?」

「私の絵を描いて頂けないかしら?」

 お婆さんは僕を見つめながら言った。

「あ、はい」

 僕は訳のわからぬまま、頷いた。

「いいかしら?」

「はい」

「まぁ、嬉しい。ありがとうございます」

 お婆さんは笑顔でそう言うと、僕に握手を求めた。僕とお婆さんは会場の隅で握手をした。僕は不思議な気持ちだった。正確に言うと、嬉しい不思議な気持ち。 

「では、写真など頂けますか?」

 僕は聞いた。

「あら、うちにいらして。お忙しいかしら?」

「あ、いえ。では最初だけお伺いして、後は一人で仕上げます」

「いいのよ。何度来てくれても。ひとりぼっちですから。それに私はいつでも暇にしていますからね」

 お婆さんは小さく舌を出した。 

「わかりました」

 僕は言った。

「ねぇ、この小さな女の子の絵、頂いてもいいかしら?」

 お婆さんは言った。お土産物を売る小さな女の子の絵だった。僕がベトナムを旅行した際に出会った女の子だった。女の子は象の置物を売っていた。僕は置物を買うつもりはなかったのだが、この女の子は他の子供達に比べると、押しが弱いのか全く売ることができておらず、悲しい顔をして、僕に懇願してきたため、僕は小さな象を三つ買った。しかし、その後しばらく、その女の子を見ていて、僕は気がついてしまった。女の子が演じているという事に。この女の子は、自分が悲しそうに困った顔をして、懇願すればお土産が売れるとわかっていたのだ。まだ五、六歳程の小さな女の子だった。 

「ありがとうございます」

 僕は女の子の事を思い出しながら、頭を下げた。彼女は、今もあの暑い中、お土産を売っているのだろうか。

「お代金は先に払っておくわね。絵を描いてもらうのはおいくらかしら?」

「いや、えっと、こういうのは始めてなんで。気に入っていただけるかもわかりませんので、僕が描いた作品を見て、気に入っていただけたらお金を頂こうと思います」

 僕は慌てて言った。

「あら・・・わかったわ。それではこの女の子の絵のお代金だけ、先に払っておくわね」

 お婆さんは少し困った顔で言った。  

「ありがとうございます。ではあちらのスタッフが、絵の販売を受付していますので、宜しくお願いします」

 僕は頭を下げた。

「あなたはとっても礼儀正しいのね。ではお時間がある時にここに連絡を下さい。私は本当にいつでも暇にしてますから、あなたの時間に合わせますからね」

 お婆さんは嬉しそうにそう言うと、僕に名刺を渡し、スタッフの方へ向かっていった。

「はい、近いうちに、必ず連絡します」

 僕はお婆さんの後姿に向かって言った。するとお婆さんは振り向いて、僕に小さく手を振った。名刺には、コウメとあり、電話番号が書いてあった。文字はそれだけで、残りの部分には、桃色の和紙で形どられた梅の花が三つ。そして甘酸っぱい匂いがした。

 そして僕はまた暇になり、椅子に座り、ぼんやりとしていた。

お婆さんに続いて、僕に話しかけてくれる人はおらず、結局ぼんやりとしているまま初日が終わっていった。

 この日、裕也の絵は五枚売れ、僕の絵は一枚売れた。


次の日も僕は同じ椅子に座りぼんやりしていた。たまに僕の絵を真剣に眺めている人がおり、そういう時は少し話しかけてみたりした。二日目には裕也の絵が三枚売れ、僕の絵が二枚売れた。裕福そうな夫婦が二枚まとめて買ってくれたのだった。僕の絵の前に立ち、夫婦で何やら話していたので、話しかけてみたら「では、いただこうかしら」と奥さんが柔らかな笑顔で言った。僕が感謝の言葉を述べ、頭を下げると「じゃ、これとこれ、いただくわ」とまるで八百屋でトマトとキュウリを買うような口調で奥さんは言った。

最終日は、僕は椅子に座らず、会場内をうろうろと歩き回っていた。僕の絵は、残り五枚あった。昨日の出来事に味をしめた僕は、思いがけず五枚全て売れて、僕の絵は完売なんて事にならないだろうかと期待していたのだが、最終日は一枚も売れなかった。裕也の絵は最終日に八枚売れた。

完売とはいかず、五枚残ってしまったが、僕は満足していた。僕の絵は三枚売れた訳だし、お婆さんからの依頼もあった。

裕也の絵は合計で十六枚も売れたため、残りは四枚になっていた。残りの絵は全て、娘さんが買い取っていた。なので、まぁ完売ということになるのだろうか。ただ、裕也は全く嬉しそうではなかった。裕也は、皆に対して笑顔で、気をつかっていたが、僕には造花のような笑顔にみえた。裕也が、娘さんの知り合いへの挨拶で忙しそうにしていたので、僕は片付けを終えると、一人で会場を後にした。外は雨だった。



世の中はゴールデンウィーク前で浮かれていた。

僕は相変わらず、昼間はペットショップでのバイト、夜はバーテンのバイト、そしてバイトのない日はアトリエで絵を描くという生活を続けていた。 

僕は三十歳になったけれど、何も変わっていなかった。そもそも、何故、三十歳になる頃には何かが変わっている、人生の折り返し地点だなどと考えていたのかすら、よくわからなくなっていた。

ペットショップでは相変わらず店長につきまとわれるし、夜は夜でアル中気味の徹さんの話を聞かされた。

徹さんは、千春さんと別れてから、人が変わってしまった。僕が尊敬していた徹さんはもういない。もうそんな面影すらなかった。

 そしてアトリエは僕専用のアトリエと化していた。

小牧ちゃんは実家に帰り、裕也は美術商の娘さんの自宅で絵を描いているようだった。僕一人ではアトリエを借りるためのお金を払う事ができないので、契約解除の手続きをしたため、このアトリエで絵が描けるのは今月までだった。

僕はこのアトリエでの最後の作品はコウメさんの絵に決めていた。

個展の最終日の三日後に僕はコウメさんに電話をかけた。そして約束通り、僕はコウメさんの家を訪れた。コウメさんの家は小さな小屋のような家だった。家の周りには花がたくさんあり、手入れもしっかりされていたので、あたたかな雰囲気であったが、家自体は古く、今にも壊れそうだった。

僕は、コウメさんの家は大きなお屋敷だと思い込んでいたので驚いた。あの日の身なりや言動からして、お金持ちのお婆さんだと思い込んでいた。しかし、実際の所、コウメさんの家は今にも壊れそうな小屋のようだし、身なりも到底、お金持ちであるとは思えないような質素な格好だった。その日のコウメさんは、色褪せた紫色のカーディガンに、グレーと黒のギンガムチェックのスカートをあわせていた。スカートの裾からはほつれた糸が二本出ていて、コウメさんが動くと糸がひらひらと揺れた。

僕がお土産の羊羹を渡すと、コウメさんは子供のように無邪気に喜んだ。コウメさんは「お茶を淹れるわね」と言うと、小さな台所に向かった。その台所はまるで、裕也の絵から飛び出してきたような雰囲気だった。コウメさんは昆布茶を淹れてくれた。心の奥があったまるような優しい味だった。僕とコウメさんは、昆布茶を飲みながら、羊羹を食べ、少し世間話をした。正確に言うと、僕がコウメさんの話を聞いた。

近所の野良猫に赤ちゃんが産まれたこと。コウメさんの育てている花の名前や育て方。最近、初めてラ・フランスを食べたこと。折紙を折るのが得意だということ。固いチーズは苦手だけど、とろけるチーズは好きで、更にチーズケーキは大好物だということ。

そんな話をコウメさんは僕に嬉しそうに話した。たまに俯いて照れたように笑い「こんな話、どうでもいいわよね」と言った。僕が「そんなことないです。面白いですよ」と言うと、嬉しそうに話を続けた。

その後、僕はコウメさんの絵を描いた。どんな雰囲気の絵がいいかと聞いても、コウメさんは「おまかせします」と言うだけだった。コウメさんは、僕の前に、ちょこんと座った。正座だと足が疲れるからと僕が言っても、正座を崩そうとはしなかった。僕は、途中でトイレに行ったり、昆布茶を飲んだりはしたが、ほとんど続けて五時間、コウメさんの絵を描き続けた。

トイレには、僕の描いた女の子の絵が飾ってあった。その話をした所、コウメさんが「この家には、絵を飾る場所がトイレぐらいしかなかったのよ。ごめんなさいね」と申し訳なさそうに言った。僕は申し訳ない事なんてないのだという事と強く主張し、僕の絵が自分の家以外に飾ってあるのを見て、とても嬉しいという事を伝えた。コウメさんは嬉しそうに頷いていた。

コウメさんは、透き通るような白い肌で、実際に血管が透き通って顔や首、腕に細い群青色の線が細い枝のように何本もあった。顔全体には深いしわがたくさんあった。瞳の色は薄く、光にあたると緑色のように見えた。白い睫毛、髪の毛は淡い紫色・・・。首には珊瑚でできた小さな梅の花のついたネックレスをつけていた。コウメさんと合わさると、全てが神秘的で儚い色にみえた。コウメさんは生きている。だけど、もうすぐ終わりを迎えるのだろうと感じさせた。コウメさんの不思議な美しさは散る間際の花のような、そんな美しさだった。

 夕方になり、僕はコウメさんの写真を一枚貰い、コウメさんの家を後にした。

コウメさんは「また、いつでも来てくださいね。今日は本当にありがとう」と何度も頭を下げた。嬉しそうにしていたが、とても疲れている様子だった。

僕は、今月中に完成させると約束した。コウメさんは「急がなくていいのよ。私はいつでもいいですから」と言ってくれたが、僕は絶対に今月中に絵を仕上げようと思った。

コウメさんは僕が見えなくなるまで、ずっと家の前に立っていた。僕が振り返ると、深く頭を下げた。僕も同じように頭を下げ、手を振った。コウメさんの後ろで、太陽が沈んでいた。僕はその姿を見て、迷路の出口が見えたような気がした。僕が迷い続けている、人間という迷路。

だけど、やはり僕は迷い続けているようだ。

一人、僕はアトリエでコウメさんの絵と向き合っていた。絵はほぼ完成していた。だけど、何かが足りなかった。あの日、僕が見えたような気がした何かが足りなかった。

僕はコウメさんの絵と一時間程、向き合い、答えを出せないまま家に帰った。

 


「ただいま、ぴょんたん」

 僕がそう言いながら、家に戻ると、ぴょんたんはいつも通り、くるくると回りながら、早く出せとアピールをしてきた。

「はいはい、ごめんね。どうぞどうぞ」

 僕はぴょんたんを外に出し、乾燥イチゴをあげた。ぴょんたんは夢中で食べ始めた。

「ぴょんたんは、偉いね。いつでもぴょんたんだもんね」

 僕は言った。ぴょんたんはそんな僕にはおかまいなしに、夢中で乾燥イチゴを食べ続けていた。

 僕は洗面台に立ち、僕の顔を見つめた。そこには三十歳になった僕がいた。僕の心は僕が思ったように成長してはいないが、僕の体は確実に終わりに向かって進み続けている。僕は冷たい水で顔を洗った。何度も何度も顔を洗った。何度、顔を洗っても、そこに映っているのは、三十歳の僕だった。

 僕は冷蔵庫の中を見て、ベーコンと人参と玉葱と卵だけの簡単なチャーハンを作った。十分で簡単なチャーハンは出来上がり、僕はそれを五分で食べ終えた。そして僕は夜のバイトへと向かった。



「おはよーございまーす」

 僕はつとめて明るい声で言った。

「あぁ、おはよーさん」

 徹さんは僕の気遣いを無視し、暗い声でぼそっと言った。

「体調はどうですか?」

 僕は聞いた。

「なぁ、光。俺、音楽辞めるわ」

 徹さんは、また僕の気遣いを無視し、言った。 

「・・・・・・辞める?」

 沈黙の後、僕は聞いた。

「あぁ、俺、辞めるねん。音楽」

 徹さんは言った。

「はい」

 僕は、何と言っていいかわからず、とりあえず頷いた。

「就職するわ、俺」

「就職?」

「おっきいちゃんとした会社に就職するねん。毎月、同じだけ給料もらえて、ボーナスもあって、保険とかもちゃんとついた会社に就職するわ」

 徹さんは言った。

僕は徹さんを見た。その顔から髭がなくなっていた。髪の毛も短くなっていた。

「・・・」

 僕は徹さんが僕に求めている答えを考え、結局何も言えなかった。

「俺な、就職して、千春にプロポーズするわ」 

「はい」

 僕は頷いた。

「俺、今月でここも辞めるんや」

「・・・そうなんですか?」

「あぁ、俺、本気で就職活動するからな」

「はい」

「俺、就職活動とかしたことないねん。俺は音楽で生きていくって決めとったし。迷いもなかった。俺はサラリーマンを馬鹿にしとった。毎朝、ギュウギュウの電車乗って、会社では上司や取引先にヘコヘコしてな。安い居酒屋でまずい酒飲んで、愚痴って、ストレス発散させて。そんな毎日の繰り返しやろ。そんなん何がおもろいんやろうって。それにいつでも変わりはおるやろ。誰でもいいんやで、会社にとったらさ。兵隊みたいやろ、なんかサラリーマンって。だけどな・・・・・・俺・・・サラリーマンになるねん」

 徹さんは言った。

「・・・はい」 

三十四歳。職歴はアルバイトのみ。音楽への夢をずっと追いかけてきた徹さんの就職活動は、大変厳しく、どれだけ頑張っても報われない可能性の方が高いだろうと思いながら、僕は言った。

この社会で、夢を追って頑張ってきた事を評価してくれる会社はあるのだろうか。「夢を追って頑張りましたが、報われませんでした。なので御社で頑張りたいと思います」とでも言うのだろうか。

 僕は、徹さんの事を思いながら、僕自身について考えた。

長い沈黙の後、徹さんが小さな声で呟いた。

「俺、やっぱりな、千春がおらんかったら、あかんわ・・・」

「はい」

 僕は頷いた。

「俺、就職できるんかな・・・」

 徹さんは不安そうに言った。

「・・・はい」

 僕は「はい」という言葉を選んだ。「はい」の後に続く言葉は何なのだろうか。「はい、頑張ってください」「はい、無理だと思います」「はい、音楽を諦めないで下さい」はい、はい・・・。

 徹さんが今にも泣き出しそうな顔で、煙草に火をつけた。火がなかなかつかず、ライターのカチッカチッという音だけが響いていた。

 僕は無言で開店準備を始めた。汚れた床をモップで強く磨いた。汚れは面白いぐらいに、どんどんと落ち、床はピカピカになった。僕が磨けば、綺麗になる。人生もこんなに明解だったら、僕らは悩む事なく、楽しく生きていけるのだろうか。それとも、僕ら人間は、悩みのない人生に退屈し、また何か新たな悩みを無理矢理にでも作り出すのだろうか。

徹さんは何もせず、たた煙草を吸っていた。僕は開店準備をしながら、何度も徹さんをちらちらと見た。徹さんの周りだけ時間が止まってしまったかのように、徹さんはただただ煙草を吸い続けていた。まるで、煙草を吸う事しかできない人形のようだった。

開店しても、徹さんの様子は変わらなかった。僕は一人で働いた。客と世間話をし、カクテルを作った。

まだ知り合ったばかりであろうと思われる男女が入ってきた。僕の予想では、男が今日勝負をしようとしているだろうという雰囲気だった。

「いらっしゃいませ」

 僕は控えめな声で言った。

「何がいい?」

 男は僕の存在を無視し、女に優しく聞いた。

「んー、飲みやすいのってどれかなぁ?」

 女は鼻にかかるような声で言った。

「飲みやすいのかぁ。甘いのがいいかな?」

「うん」

「じゃあ、ベリーニなんかどうかな?桃が入ってるからピンク色で愛華ちゃんにぴったりじゃないかな」

 男が言った。

ベリーニはワインベースのカクテルで桃のピューレを使うため、淡いピンク色のカクテルだ。

「わぁ、桃大好き。じゃあ、えっとベリーニ?にする!」

「うん、ベリーニね」

 男は優しく、女に笑いかけた。そして僕に事務的に言った。

「ベリーニとジントニック」

「かしこまりました」

 僕はそう言い、カクテルを作り始めた。

「愛華ちゃん、料理得意なんだよね」

 男が言った。

「うん、得意かわかんないけど、お料理するの大好きなの」

 女が手で髪の毛を触りながら言った。

「料理好きっていいよね。でね、これ、はいプレゼントだよ」

 男がそう言いながら、ピンク色のリボンのかかった箱を女に渡した。

「えーっ、何!嬉しい。ねぇ開けてもいい?」

 女が手を合わせて喜んだ。

「うん」

「わぁーっ。可愛いっ」

 僕は中身が気になり、さりげなく男女を見た。そのプレゼントは柄の部分が透明で、そこにスワロフスキーのような色とりどりの石が無数についた、キラキラとした包丁だった。

「愛華ちゃんにぴったりだなぁと思ってさ」

 男は言った。

「わぁー、嬉しい。ほんとありがとぉ」

 女は言った。

 僕はその会話を聞きながら、この包丁がぴったりだというのは果たして褒め言葉なのだろうかと思った。

「愛華ちゃんは、こうキラキラしたイメージだからさ。包丁とかもこういうのが似合うかなぁと思ってね」

「えーほんとぉ。でも愛華、こんなの欲しかったんだぁ。もっとお料理が好きになっちゃいそう」

「今度、食べたいな。愛華ちゃんの手料理」

「えへへ」

 女は笑った。どちらともとれない笑顔だった。

「お待たせしました」

 僕はそう言いながら、カクテルを出した。

「わぁー可愛い」

 女はベリーニを見て、言った。

「うん、このカクテルも愛華ちゃんにぴったりだね」

 男は言った。

「えー、ほんと嬉しいな」

「ちょっと、トイレ行ってくるね」

 男はそう言うと、席を立った。すると女が小さな声で僕に話しかけてきた。

「すいません、私に出すカクテル、全部ノンアルコールで作ってもらってもいいですか?」

「はい、かしこまりました」

「ごめんなさいね。わからないようにお願いします」

「かしこまりました」

 僕は急に気分が晴れた。この男女の会話を聞きながら、イライラしていたのだ。僕の心はだいぶ曲がってきているのかもしれない。

「お待たせ」

 男が戻ってきた。トイレで髪の毛をセットしてきたのか、先程と少し髪型が変わっていた。

「大丈夫だよ」

「愛華ちゃん、本当に可愛いよね」

「そんなことないよ」

 今日、この男の思いが報われることはないだろう。僕はそう思いながら、この後、この男女に三杯ずつカクテルを作った。もちろん女のカクテルはノンアルコールだ。

 僕が歪んだ優越感に浸りながら、カクテルを作る間も、徹さんはずっと客から見えない店の中の方で、ただ煙草を吸い、酒を飲んでいた。

 この日、僕は女の強さと男の弱さを改めて学んだ。



 アトリエの契約解除日まで、残り五日間となっていた。

 僕はコウメさんの絵に足りないものを、未だに見つけることができていなかった。僕はアトリエでコウメさんの絵と一時間程向き合った後、コウメさんの家を訪ねることにした。

 コウメさんの家は相変わらず古い小さな小屋のようだった。

僕はその家を見て、何故か、ほっとした気持ちになった。そして裕也の言葉が頭に浮かんだ。

「これからの時代には、僕の絵みたいなのが必要とされていると思ったから」

 僕も裕也の絵を必要としている一人なのだろうか。

 僕はコウメさんの育てている植物を眺めた。一つ一つに手書きで、植物の名前と、コウメさんの家にやってきた日が書いてあった。

 僕はひときわ目立っていた深紅色の花に目をやった。

【オリエンタルポピーさん・家族になった日・九月八日】

 小さな家の横で、オリエンタルポピーは咲いていた。今にも壊れそうな小屋のような家の横で、吸い込まれるような真紅色の花が美しく咲いていた。

 気がついたら、僕はその花を見つめながら、泣いていた。僕の目に溜まった涙のせいか、花がキラキラと輝いて見えた。

 夏が近づいている事を感じさせる強い太陽の光、どこまでも青い空、真紅色の花、そして今にも壊れそうな小屋のような家。

 僕が花を見つめながら立っていたら、優しい声がした。

「あら、こんにちは」

「あ、こんにちは。急に申し訳ありません」

 僕は目に手をやり、涙が乾いている事を確認しながら言った。

「いいのよ。いつでも遊びに来て頂戴って言ったでしょ。ねぇ、このお花、綺麗な赤色でしょ」

 コウメさんが言った。

「はい、本当に綺麗です。久しぶりにこんなに美しい真紅色を見ました」

「このお花ね。オリエンタルポピーっていう名前なの。ねぇ、メリー・ポピンズっていう映画知ってるかしら?」

 コウメさんが嬉しそうに聞いた。

「はい、えっとディズニーの映画ですかね?」

「そうよ、そうそう。私ね、あの映画をね、観た後にこのお花と出会ったのよ。私ったら、笑っちゃうけど、映画の名前をメリー・ポピーだと思いこんじゃってたのよ。それでね、あの映画を観た後に鼻歌なんか歌いながらお花屋さんに行って、この子に出会ったの。あらポピーちゃんじゃない!今日出会ったのは運命だわなんて思っちゃったのよ。おかしいわよね。私ったら」

 コウメさんは無邪気な笑顔で言った。 

「いや、素敵なお話ですよ。映画はよく観られるんですか?」

 僕は言った。

「そうね。時間だけはたっぷりあるから」

 コウメさんははにかんだ笑顔で答えた。

「僕も映画は好きで、よく一人で観にいくんです」

「あら、そうなのね。私は映画館にはしばらく行ってないわ。こうお婆さんになっちゃうと、一人ではなかなか行きにくいのよね」

 コウメさんは少しだけ悲しそうな顔をして言った。

「もし良かったら、今度、一緒に映画を観に行きませんか?」

 僕は言った。  

「あら、本当に?」

 コウメさんの顔がパッと花が開いたように笑顔に変わった。

「もちろん」

 僕は深く頷きながら言った。

「是非、行きたいわ」

「僕も、是非、ご一緒したいです」

「私はいつでもいいですからね。あなたに合わせますからね」

 コウメさんが言った。

「近いうちに必ず連絡します」

 僕は言った。

「えぇ、楽しみにしてるわ。そうそう、せっかく遊びに来てくださったのだから、どうぞ中にあがって頂戴ね」

「いえ、今日はこのままアトリエに戻ります」

「遠慮しなくていいのよ。私はいつでも大歓迎ですから」

 コウメさんは言った。

「いえ、あの・・・実は僕が今日ここに来たのは、コウメさんの絵を描く事に行き詰ってしまったからなんです。ただ、えっと、上手く説明できないんですけど、今なら描ける気がするんです。だから今すぐアトリエに戻って、僕はコウメさんの絵を描きたいんです」

「ありがとうございます」

 コウメさんは深く頭を下げた。

「いえ、感謝するのは僕の方です。ありがとうございます」

 僕も深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 コウメさんはもう一度、深く頭を下げた。

「いえいえ、最後に一つだけ聞いてもいいですか?」

 僕は言った。

「はい」

「僕に絵を描いて欲しいと言ってくださったのは何故ですか?」

 僕はまっすぐコウメさんを見つめ、聞いた。

「それは、あなたの絵の中の人に生きた心を感じたからです。美しいだけではない生きた心をね。生きている私の姿を描いてもらうにはあなたしかいないと思いました」

 コウメさんはまっすぐに僕を見ながら、言った。

「ありがとうございます」

 僕はこれ以上ない程に、深く頭を下げた。僕の心で凝り固まっていた何かが崩れ始めたような気がした。

「楽しみにしていますよ。絵も映画もね」

 コウメさんは優しい笑顔で言った。

「ありがとうございます」

 僕はまた深く深く頭を下げた。そしてアトリエへと向かった。

 やはり、前と同じようにコウメさんは僕が見えなくなるまで、ずっと家の前に立っていた。僕は二度振り返り、頭を下げた。コウメさんも同じように二度、僕に向かって頭を下げ、手を振ってくれた。

 僕はコウメさんの家から、僕の姿が見えなくなる所まで歩き、そこから、アトリエに向かって全力で走った。アトリエからコウメさんの家までは電車で二駅分あったが、僕は電車に乗ることなく、全力で走った。普段走っていないせいか、息がきれ、苦しかった。三十歳になった僕の体は走る事を拒んでいた。だけど僕の心が走る事を必要としていた。

 アトリエに着くと、僕は休む事なく、すぐにコウメさんの絵の前に座った。

 一心不乱に絵を描いた。何も考える事なく、僕は心で絵を描いた。

 僕は十七歳の時の僕に戻っていた。

 コウメさんの絵が完成したのは、朝方だった。そこには生きたコウメさんがいた。僕は屋上へ向かった。空を見ると、夜から朝へ変わる所だった。暗と明。こうやってどんな日も、朝はやってくる。僕は煙草に火をつけ、深く吸った。そして僕は太陽が昇るのずっと眺めていた。

 

 

 僕は家に戻り、三時間程、睡眠をとり、ペットショップのバイトへと向かった。いつも通り、店長につきまとわれ、佐藤さんからは面白がられ、子犬の糞の片付けをし、客にたくさんあるドックフードの違いについて説明し、レジを打ち、おねんね枕の発注をした。

 おねんね枕はよく売れていた。ただ僕の選んだブルーよりも、後から追加注文をかけたオレンジの方がよく売れていた。この目の覚めるようなオレンジ色のおねんね枕で、本当に安眠できるのだろうか。快眠コーナーは拡大され【ワンちゃんに質の良い眠りを】と派手なポップが至る所に貼り付けられていた。

 どんな日だって朝がやってくるように、どんな日だってバイトに行けば、僕に仕事はやってくる。僕が何を思ったとしても、ここにいる僕はペットショップの店員でしかない。客にペットの快眠について問われれば、一通り説明し、僕はおねんね枕を薦める。オレンジかブルー、どちらがいいかと問われれば、僕はブルーを薦めるだろう。ペットショップの店員である僕に与えられる自由はこの程度だ。

「光ちゃん、ちょっと来てぇ」

 店長が鼻にかかった声で店の奥に僕を呼んだ。

「はい」

「ねぇねぇ、お話があるの」

 店長は言った。

「はい、何でしょうか?」

「光ちゃん、ここの店で正社員にならない?」

 店長はじっと僕を見つめた。  

「正社員・・・ですか?」

 僕は驚いた。

「そう、光ちゃん。私が推薦するわ。ねぇ、一緒に頑張ってみない?」

 店長は身を乗り出し、言った。

「ありがとうございます。ただ今すぐに答えは出せません。少し時間を頂けますか?」

 僕は言った。

「もちろん、だけど光ちゃん、私はね、光ちゃんの事が心配なのよぉ。光ちゃん、三十歳でしょ。そろそろちゃんと働いた方がいいと思うの。私は光ちゃんの事を考えてるのよ」

 店長は何度も小さく頷きながら、言った。

「・・・はい。ありがとうございます」

「前向きに考えてね。ねっ光ちゃん」

 店長はそう言うと、僕の肩をたたいた。

「はい」

 僕は言い、すぐに仕事へ戻った。

 アイドル犬のチワワ君の糞を片付けながら、僕はチワワ君の夢について考えた。

 お金持ちの家に引き取られ、フカフカのベッドと美味しい食事を与えられ、休日にはブランドの洋服を着せてもらい、皆に可愛がられたいのかい。

 それとも、こんな狭い所、早く脱け出して、大草原の中で走り回りたいのかい。

 チワワ君は潤んだ大きな黒い目で僕を見つめた。僕にはその目が裕也の目と重なって見えた。



 二日後、夜中に携帯電話が鳴った。しんと静まり返った中に、大きな電子音が響き渡った。

「もしもし・・・」

 僕は電話をとりながら、半分眠りの中にいた。

「光、お父さんが脳卒中で倒れました」

 母の声がした。聞きなれた優しい母の声ではなく、緊迫感の漂う声だった。

「えっ・・・倒れたって?」

 母の言葉により、急に眠りから覚めた僕は言った。

「今、緊急手術中です。光、すぐに来れる?西本病院よ。わかる?」

 母は言った。僕は悲しみをこらえ気丈に振舞っている母の姿が目に浮かんだ。

「うん。すぐに行く。えっと今から用意して、朝一番の新幹線で行くよ。母さん・・・父さんは大丈夫なの?」

 僕は母の気持ちを考えることなく、聞いた。

「わかりません」

 母はかすれるような小さな声で言った。

「・・・」

 僕が黙っていると、母は続けて言った。

「とりあえず、他の人にも連絡をしないといけないので、切るから。急いで来なさい」

「うん」

 僕がそう言うのと同時に、電話が切られた。

 僕は部屋の電気をつけた。ぴょんたんがいつも通りに小屋から出せとくるくると回った。

「ぴょんたん・・・ごめん。ぴょんたん、ごめん・・・」

 僕はぴょんたんに謝りながら、その場に崩れ落ちた。ぴょんたんはそんな僕にかまうことなく、くるくると回り、そしてしばらくして諦めたのかおとなしくなった。

 しばらくの間、僕は動く事ができなかった。僕の全てが止まってしまった。何も考える事が出来ず、体を動かす事もできなかった。僕はただ座り込み、小動物のように丸くなって震えていた。

 時計を見ると、四時を示していた。

僕は慌てて立ち上がった。冷たい水で顔を洗い、服を着替え、ぴょんたんにラビットフードをあげた。ぴょんたんはいつも通り、美味しそうに食べ、綺麗に平らげた。僕は必要最低限の荷物を旅行鞄につめ、ぴょんたんをペット用ケースに入れた。ぴょんたんは少し嫌がったが、乾燥イチゴを入れるとおとなしくしてくれた。

 そして僕は駅に向かい、朝一番の新幹線で、西本病院へ向かった。

 僕は新幹線の中で、何度も父の言葉を思い出した。

「光の人生は、光の道だ。光が歩む道だ」

 僕は父の言葉に甘えていた。三十歳にもなって、親孝行と呼べるような事を何一つしていなかった。

 父は小さな和菓子屋を営んでいる。みたらし団子が美味しいと評判で、客足が途絶える事のない人気店だ。利益よりも、皆に喜んでもらう事を大切に考えているため、材料が値上がりしても、今まで、一切値上げした事はない。そのせいか、人気店だけれども、あまり利益は上がっていない。父は、普通に生活するために必要なお金だけ稼ぐ事が出来ればそれでいいといつも言っていた。何より、皆の喜ぶ顔が嬉しいのだと。

 僕は今まで一度も、父を手伝う事なく、ただ自分の道を進んできた。父の言葉に甘え、自分の事だけを考えてきた。だけど実際の僕は三十歳にもなって、まだスタート地点のすぐそばにいる。自分の事だけを考え、走ってきたのに・・・。

 新幹線の窓から外を見ると、日が昇り、朝になっていた。やはり、こんな日だって、僕にも朝はやってきた。

 ぼんやりと外を眺めていると、急に吐き気が襲ってきた。僕は新幹線のトイレの中で吐いた。何も食べていなかったため、酸っぱい胃液が僕の口から出た。何度吐いても、吐き気が僕を襲い、胃液が僕の口から出た。

僕は何をやっているのだろうか・・・。新幹線の殺風景なトイレで便器の前にしゃがみこみながら、僕は思った。

 

駅につき、僕はタクシーで西本病院へ向かった。時間外受付で場所を確認し、静まりかえった病院の中を走った。

 集中治療室の前で、母は背筋を真っ直ぐに伸ばし、足をきちんと揃え、座っていた。

「母さん・・・」

 僕はかけより、声をかけた。

「光・・・」

 母は小さな声でそう言い、深く頷いた。

「父さんは・・・?」

 僕は声にならない微かな声で、聞いた。

「この中にいるわ」

 母はもう一度、深く頷いた。

「手術は?」

 僕は母を見つめ、聞いた。

「えぇ、手術は無事に終わりました」

 母は静かに言った。

「父さんは・・・大丈夫なの?」

「はい。命に別状はありません。ただ後遺症が残るかもしれません」

「・・・」

 僕が黙っていると、母は続けた。

「脳に障害が残るかもしれません。それに伴って顔面麻痺や半身不随などの可能性もあるという事でした」

 母は台詞のように淡々と言った。母のその姿は、辛さの裏返しであるという事が痛い程に伝わってきた。気丈な態度を崩し、一粒でも涙を流したら、母はそのまま泣き崩れてしまうのだろう。

「・・・そっか。父さんと面会できないの?」

 僕は聞いた。

「あと何時間かたてば面会できます。それまで待ちなさい」

 母ははっきりと言った。

「うん。わかった。ねぇ母さん・・・俺、店手伝うよ」

 僕は父の姿を思い浮かべながら言った。

「それは、お父さんと話し合いなさい。私はわからないわ。私は光に手伝ってほしいと思うけど、お父さんはそうは思っていないような気がします。お店はしばらくの間、臨時休業することにしてきたから」

 母は真面目な顔で言った。

「・・・そっか」

「光、ありがとう」

 母は小さな声で呟くように言った。

「・・・」

 僕は何も言えなかった。母もそれ以上、何も言わなかった。

 僕らは、無言で、集中治療室の前の長椅子に座っていた。静まり返った廊下に、たまにゴソゴソと動くぴょんたんの音だけが小さく響いていた。僕は、病院にぴょんたんを連れてきてよかったのかと思い、よいわけないとすぐに思った。だけど、ぴょんたんの事を母は何も言わなかったし、僕もどうすることもできないので、考えない事にした。

 長い長い沈黙の後、僕は言った。

「俺、三十歳になったんだよ」

「えぇ」

 母は小さく頷いた。

「三十歳って、何なんだろうね」

 僕は病院の薄汚れた天井を眺めながら、呟くように言った。

「私からしたら、三十歳はまだ子供です」

 母はすぐに答えた。

「三十年間、ありがとう」

 僕は小さく頭を下げた。

「光、頑張りなさい」 

 母は僕を見つめ言った。強い目だった。

「うん」

 僕は母の強い目を見ながら、深く頷いた。

「頑張る事が出来るのは幸せな事です。光は頑張る機会に恵まれています。結果が伴っても、伴わなくても、前を向いて頑張りなさい。頑張る事を諦めるような人にはなってはいけません。どんな時でも前を向いて、頑張りなさい」 

 硬い表情で、母は言った。強い目は優しい目に変わっていた。僕に言うと同時に、自分に言い聞かせているようだった。

「うん、頑張るよ」

 僕は言った。

母の言葉に対し、頭の中で色々な言葉が浮かんだが、僕はその言葉を口に出さなかった。

「そう、頑張りなさい」

 母は強く言った。

 僕は母の言葉を聞きながら、頑張る意味について考えた。

人間は何故、頑張るのだろうか。頑張れば、必ず報われるなんて事はない。頑張れば、強くなれるのだろうか。頑張れば、優しくなれるのだろうか・・・。

 再び、僕と母は無言になった。

僕は、母の横顔に老いを感じた。皺は深くなり、頬はたるみ、しみが増え、目尻や口元は下がっていた。体も以前と比べて、一回り小さくなっていた。僕が三十歳になったという事は、母が僕を産んでから三十年たったという事なのだ。僕は胸がいっぱいになった。

しかし、僕は、胸に溢れてきた感謝の気持ちを言葉に出すことができなかった。

何と表現したら良いかわからず、また頭の中で言葉にしてみても、どうも嘘くさいホームドラマの台詞のようになってしまい、結局何も言えなかった。

 


父と面会できる時間がやってきた。面会時間は五分以内と決められていた。

僕は一人で父のいる集中治療室に向かった。身体を消毒し、マスク、手袋などを装着し、僕は中に入った。

たくさんのチューブに繋がれた父が、無機質なベッドに横たわっていた。隣には、大きな機械があり、ピッピッピッと父の心臓の音に合わせて電子音が鳴っていた。父はしっかり目を開け、僕を見つめた。だいぶやつれた様子だったが、その目は以前と変わらず、真っ直ぐで力強く、優しかった。

昔から、僕は父にだけは嘘がつけなかった。どれだけ完成度の高い嘘を考えていても、父を前にし、この目で見つめられると、僕は嘘をつくことができなかった。

「父さん。俺だよ。わかる?」

 僕は静かに言った。

「あぁ、わかるよ」

 父ははっきりとした声で言った。

「父さん・・・」

 僕は胸が熱くなり、溢れ出しそうになる涙をこらえた。涙をこらえるのに必死で、父さんと呼びかけたきり、何も言葉をかけることができなかった。ピッピッピッという電子音だけが、静かな部屋の中に響いていた。

「迷惑だからな」

 僕が黙っていると、父ははっきりとした声で言った。

「・・・迷惑?」

 僕は父を見つめ、聞いた。

「光の道は、光の道だ」

 さらにはっきりとした声で、僕をしっかりと見つめ、父は言った。

「俺の道?」

 僕は父を真っ直ぐ見つめ、聞いた。

「あぁ、自分の道を進め」

 父はそう言うと、深く頷いた。

「・・・」

 僕は何も言えなかった。

「俺のために、自分の道を変えるな」

 父は厳しい表情で言った。

父は僕の考えている事が全てわかっていたのだ。僕は父の仕事を手伝いたいと告げるつもりだった。

「はい」

 僕は深く頷いた。

「自分を見失うな」

 父は優しい目をして、厳しい声で言った。

「・・・父さん・・・ありがとう・・・」

 僕は言った。再び、胸が熱くなり、潤んだ目からは涙が零れ落ちそうだった。父は何も言わず、小さく頷いた。父は、あたたかく優しい顔をしていた。

「父さん・・・ありがとう」

 僕の目から涙が零れ落ち、頬を伝っていった。

僕は何度もありがとうと言った。その度に父は無言で頷いた。

 そして面会時間が終わった。

 その後、僕は、母と少し話をして、僕の家へと帰った。



父の言葉が頭から離れなかった。

 【僕は僕の道を進む】

 そのために僕は、家へ帰った。家に着き、ぴょんたんを小屋に入れ、すぐに僕はアトリエへ向かった。

 アトリエは明日で契約解除日を向かえる。

 がらんとしたアトリエの中に、コウメさんの絵だけが寂しそうにぽつんと置いてあった。僕はその絵を持ち、急いで、コウメさんの家へ向かった。コウメさんは水色のワンピースを着て、コウメさんの家族達に水をあげていた。

「こんにちは」

 僕は言った。

「あら、こんにちは」

 コウメさんは、驚いた様子で目を大きくして言った。

「急にすいません」

 僕は頭を下げた。

「いいのよ。私はいつでも暇にしていますから」

 コウメさんは優しい声で言った。

「絵が完成しました」

 僕は言った。

「あら・・・ありがとうございます」

 コウメさんはそう言うと、深く頭を下げた。

「いえ、気に入っていただけるといいのですが・・・」

「では、早速見せてもらえますか?あ、お水だけあげてもいいかしら?」

 コウメさんは嬉しそうに言った。

「はい、もちろんです」

「ありがとう」

 コウメさんはそう言うと、丁寧に植物に水を与え始めた。

「これは、向日葵ですか?」

 僕は聞いた。

「えぇ、向日葵ですよ。あと二ヶ月くらいで花が咲きますよ。向日葵はお日様に向かって、真っ直ぐに大きな花を咲かせるの。私は向日葵を見ているとね、元気になれるの。向日葵は、元気をくれるお花なのね」

 コウメさんはキラキラと輝くような笑顔で言った。僕にはその顔が、向日葵のように見えた。

「見に来てもいいですか?」

 僕は聞いた。

「え・・・?」

 コウメさんは不思議そうな顔で首をかしげた。

「向日葵が咲く頃、見に来てもいいですか?」

 僕は聞いた。

「えぇ、もちろんですよ」

 コウメさんはパッと笑顔になり、嬉しそうに言った。

「ありがとうございます」

 僕は笑顔で言った。

 コウメさんは笑顔で頷くと、残りの植物に丁寧に水を与えた。

「では、そうね。ここじゃなんですから、中でゆっくり見せてもらえますか?」

 コウメさんは真面目な顔で聞いた。

「はい」

 僕は頷いた。

 そして僕らはコウメさんの家に入った。コウメさんはハーブティーを淹れてくれた。

「ねぇ、このお茶、あんまり美味しくないでしょ」

 コウメさんは笑いながら言った。 

「いえ・・・」

 僕も正直、あまり美味しいと思っていなかったが、曖昧に返事をした。

「いいのよ。正直に言ってくれて。私が育てたハーブで初めて作ってみたのだけど、あんまり上手にできなかったのよ。慣れない事はするもんじゃないわね」

 そう言いながら、コウメさんは笑った。

「いえ、美味しいですよ」

 僕は言った。

「あなたは、本当に優しいのね。ねぇ、見せてもらってもいいかしら?」

 コウメさんは優しい声で言った。

「はい」

 僕は、鞄から絵を取り出した。

 コウメさんは無言で絵を見つめた。真っ直ぐに瞬きもせずに、僕の絵を見つめた。

 僕は緊張していた。父の言葉が頭の中で繰り返されていた。 

 【僕は僕の道を進む】

 コウメさんの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。その涙は、今まで僕が目にした涙の中で、一番美しかった。

「ありがとうございます」

 コウメさんはきちっと正座として、僕に深く頭を下げた。

「いえいえ、頭を上げてください」

 僕は慌てて言った。  

「気に入っていただけましたでしょうか?」

 僕は続けて聞いた。

「はい」

 コウメさんは真面目な顔で言った。

「ありがとうございます」

 今度は僕が深く頭を下げた。

「あなたにお願いして、本当に良かったです」

 コウメさんは大粒の涙を流しながら、言った。

「いえ、そんな・・・ありがとうございます」

 僕は潰れそうなくらいに胸がいっぱいになった。少しでも気を緩めたら、泣き崩れてしまいそうだった。だけど、不思議とだんだんに心は軽くなっていた。僕の心の奥で絡まっていた糸がするすると解かれていくようだった。

「本当にありがとうございます」

 コウメさんは何度も頭を下げた。そして頭を上げると、僕の絵をじっと見つめた。その繰り返しだった。

僕らのこの姿を、他人が見たら笑うかもしれない。売れない画家に自画像を描いてもらって、涙して喜ぶ老婆。その姿を見て、潰れそうなくらいに胸をいっぱいにする売れない画家。だけど、僕はこの日、僕の道を進んだ。僕の僕にしか進むことのできない道。

コウメさんは僕にお金を支払おうとしたが、僕は断った。僕が断っても、コウメさんは払いたいといって譲らなかった。だけど僕は断った。僕の頑固さにコウメさんが負け、映画に行った際に全ての支払いをコウメさんがするという事で落ち着いた。

 僕はアトリエの片付けをしなくてはいけない事を思い出し、コウメさんの家を後にした。コウメさんは何度も何度も、僕に感謝の言葉を述べ、頭を下げた。僕も何度も何度も頭を下げた。

 


 僕は一人でアトリエの片付けをした。

がらんとしたアトリエの中にはもう作品は何もなく、僕の画材道具や、お茶を飲むためのマグカップ、賞味期限の切れたお菓子、何年か前にそれぞれの目標をたてようといって勢いで作った僕と裕也と小牧ちゃんの目標が書かれた木製のボード、綾香姫の暇つぶしのための雑誌やマニュキアなどがぽつんぽつんと空しく残っていた。

 僕はそれを、燃えるゴミと燃えないゴミに分け、ゴミ袋へと入れた。最後に目標の書かれたボードを叩き割り、燃えないゴミの袋へ捨てた。

僕らが夢を見ながら作品をつくっていたアトリエは、もうなくなっていた。小牧ちゃんは幸せな結婚をするために実家に戻った。裕也は絵を描き続けるために、美術商の娘を選んだ。

僕は、僕の道を進む。

ゴミを片付けると、アトリエには何もなくなった。片隅に僕の画材道具が置かれ、後は本当に何もなかった。

僕は屋上に向かい、夕暮れの茜色に色づいた空を眺めながら煙草を吸った。もうこの屋上で煙草を吸うこともないのだと思うと、淋しい気持ちになった。しかし、淋しいと同時に、僕はほっとしていた。

僕は孤独感と安堵感に包まれながら、空が暗くなるのを、ただ眺めていた。

僕は、僕の道を進まなくてはいけない。

僕が屋上からアトリエへ戻ると、そこに裕也がいた。

「裕也、いたんだ」

 僕は声をかけた。

「うん、今日で最後だからね」

 裕也は静かに言った。

「ありがと」

 僕は何もなくなったアトリエを見渡しながら、言った。

「いや、何も手伝えなくてごめん」

「いいよ、特にやることなかったし。ほとんど俺の物ばっかりだったしさ」

「ありがとう」

「いいよ。最近、どうなの?」

 僕は聞いた。

「光、僕さ、病院に通い始めたんだ」

裕也は小さな声で呟くように言った。

「病院?裕也、どっか悪いの?」

 僕は裕也を見て、言った。

「いや・・・前さ、たたないって言ったじゃん」

 裕也は言った。

「うん」

 僕は頷いた。

「彼女から、病院に行けって言われたんだ。ED・・・勃起障害・・・これは病気なんだから病院に行って、ちゃんと治療する必要があるって」

 裕也は無表情な顔で淡々と言った。

「うん」

 僕は頷くことしかできなかった。

「僕は病院でカウンセリングを受け、EDの治療薬を飲んでるんだ。僕は自分で一体、何がしたいのかよくわからなくなってきたよ」

裕也は言った。

「うん。もう・・・」

 僕はそれ以上、何も言えなかった。

「彼女からは、毎晩、抱いてって言われるんだ」

 裕也は苦しそうに言った。

「うん」

「僕には無理なのかもしれない・・・」

「裕也・・・頑張れよ」

 僕はそう言い、裕也を見離した。残酷かもしれないが、僕に裕也を救う事はできない。

「うん」

 裕也は頷いた。

 それから僕も裕也もしばらく、黙っていた。何もなくがらんとした暗いアトリエの中で二人は黙って立っていた。その時間は数分だったが、僕には長い長い時間に感じた。裕也の苦しみは痛い程に伝わってきた。だけど、僕はどうすることもできないし、それに裕也だって、僕に救いを求めている訳ではないだろう。

「帰ろう」

僕は沈黙を破り、そう言った。

「そうだね」

 裕也はそう言うと、僕に笑顔を見せた。

 僕と裕也は途中まで帰り道が一緒だったが、僕は用事があると言い、アトリエの入ったビルの前で別れた。 本当は用事なんてなかった。僕はこれ以上、裕也と一緒にいる気にどうしてもなれなかった。僕は本屋に立ち寄り、文庫本を二冊買った。その後、CDショップに立ち寄り、CDを一枚買った。そして、古びた喫茶店でコーヒーを一杯飲み、煙草を三本吸い、家に帰った。

 


 疲れていたのか、僕は久しぶりに十時間も眠った。寝すぎたせいか、ぼんやりとした頭を抱えたまま、急いで用意をして、僕はペットショップへと向かった。

外に出ると、太陽が眩しかった。あたたかくて、早足で歩いていると汗ばんでくる程だった。僕は、夏が近くまでやってきていることを感じた。

店へ向かう途中、母に電話をかけた。父の状態は安定しているという事を聞き、僕は安心した。電話では直接、確認できないので、定かではないが、声色から察すると、母も安心している様子で、声も柔らかだった。

僕はバイトの休みを調整し、なるべく早く、様子を見に行くと告げ、電話を切った。

店につくと、新しい小犬達がおり、バイトの女の人達はその子達を囲み、キャーキャーとはしゃいでいた。

僕は急いで準備をし、店へ出た。すると早速、店長が僕を見つけ、足早にやってきた。

「おはよー。光ちゃんっ。今日は暑いわねぇ」

 店長は手で顔をパタパタ仰ぐ真似をしながら言った。

「おはようございます」

 僕は言った。

「ねぇ、あの話、考えてくれた?」

 店長は目をパチパチとさせながら、小声で聞いた。

「はい」

 僕は頷いた。

「ほんとっ。良かったわぁ。じゃあ早速、色々とお話しなきゃねぇ」

 店長が嬉しそうに言った。

「いえ、折角ですが、お断りします」

 僕ははっきりと言った。

「え・・・どうして?光ちゃん、理由を聞かせてくれる?」

 店長は驚いた様子で言った。

「はい」

 僕は頷いた。

「あ、えっとぉ、ちょっと待って。ここじゃね、えっとあれだから、そうだ、お昼一緒にどうかしら?今日、光ちゃんお昼何時?」

 店長は言った。少し動揺していた。

「今日の昼休憩は、確か・・・二時だったと思います」

 僕は言った。

「二時ね。二時。わかったわ。じゃあ、今日のお昼は二人でどこか食べにいきましょ。ねっ?」

 店長は僕を見つめた。

「はい」

 僕は渋々、頷いた。

「じゃあ、後でね。光ちゃんっ」

 店長はそう言うと、笑顔で僕を見つめた。

「はい。では」

 僕は小さく頷き、仕事に戻った。

 僕が商品の品だしをしていると、佐藤さんが話しかけてきた。

「ねぇ、ここの社員になるの?」

「え・・・」

 僕は驚いた。

「店長から聞いたよぉ。すっごく嬉しそうだったけど」

 佐藤さんはニヤニヤしながら言った。

「いや、僕は断りますよ。っていうか今、断りましたけど」

 僕は言った。

「えぇっ。そうなの?」

 佐藤さんは、驚いた様子で聞いた。

「はい」

 僕は冷たく頷いた。

「なんかねぇ。店長の話だと、もう決まったみたいに言ってたよ。喜んで引き受けてくれたみたいにね」

 佐藤さんは少し困惑した表情で言った。

「・・・いや、断りますし、一度も引き受けるなんて言ってないですけどね、僕」

 僕は店長にあきれつつ、言った。

「そうなんだぁ・・・そうだよね」

「はい」

「そうだよね。ごめん。忘れて。私が話したこと」

 佐藤さんはそう言うと、小走りでレジへ向かっていった。

僕は重たい嫌な気分になった。店長は三十歳フリーターの僕が正社員の話を断る訳ないと思っていたのだろう。この社会の常識で考えれば店長の意見が正しいのかもしれない。

だけど、僕は僕の道を進むのだ。

品出しや接客、掃除などを淡々とこなしていたら、いつの間にか昼休憩の時間になった。僕は店長と近くの蕎麦屋へ向かった。


「ねぇ、光ちゃん、どうしてなの?私には理解できないんだけど。これは光ちゃんにとって、とってもいいお話だと思うのよ」

 店長は僕を見つめ、言った。

「はい。ありがとうございます。ただ僕は、前もお話した事があると思いますが、画家を目指しています。ただ、現時点でまだ僕は絵を描くことだけで食べていける状態ではありません。そのため、アルバイトをしながら、絵を描いています。僕は画家の夢を諦めるつもりはありません。ですので、このお店で正社員になるつもりもありません」

僕は言った。

「ねぇ、光ちゃん。世の中は光ちゃんが思ってる程、甘くないと思うの。光ちゃんはもう三十歳でしょ。そろそろ、夢を追いかけるのもいいけど、ちゃんと安定した仕事に就かないといけない歳なんじゃないかしら」

 店長は諭すように言った。

「はい。店長がおっしゃることはよくわかります。ただ僕はこのお話を受けるつもりはありません」

 僕ははっきりと言った。

「光ちゃん。何をそんなに頑固になってるの?私は夢を諦めなさいなんて言ってないじゃない。それにね、私もよくわからないけど、画家なんて、数え切れない程の人が目指していて、本当に画家で食べていける人なんて、ほんのちょっとでしょ。光ちゃん、もう少し現実を見た方がいいんじゃないかしら」

 店長は言った。

 僕は何も言わなかった。僕らが無言でいると、気まずそうに店員が蕎麦を運んできた。

 僕はかけ蕎麦にかやくご飯のついた、かけ蕎麦定食。店長は天ぷら盛り合わせと小鉢とざる蕎麦のついた、天ぷら定食を頼んでいた。まるで、僕らの経済状態の差を表しているようだった。だけど、僕は夢を諦めてまで、天ぷらを食べたいとは思わない。たとえ、かなわない夢だったとしても、夢を追いかけ続けながら、かけ蕎麦を食べ続けたいと思う。

「ねぇ、光ちゃん、何で黙ってるの?」

 店長が僕を見つめながら言った。

「いや、お断りする理由は全てお話しましたので。これ以上、何を話していいのかわからないので黙ってるんです」 

 僕は言った。

「光ちゃん、理由ってさっき話してくれた事だけなの?本当に?」

 店長は首をかしげながら言った。

「はい」

 僕は頷いた。

「私は光ちゃんの事を心配してるのよ。だって、光ちゃん、画家目指してるっていうけど、絵でどれだけお金を稼ぐことができてるの?本当に才能があるんだったら、もう夢はかなってるんじゃないのかしら?」

 店長は言った。

 僕は冷静を装っていたが、このまま机を蹴飛ばして、店を出たいくらいに腹が立っていた。そして、こんな事で、腹を立てる自分に対しても、腹が立った。結局、店長が言っている事を、僕は理解できるのだ。だから腹が立つ。僕の中の弱気な僕が、このまま正社員になってしまった方が、この先、楽なのじゃないかと言っている。だけど、僕は、やっと見えかけた、僕の僕だけの道を進む事を決めたのだ。僕は、父と母の言葉を思い出した。そして、心の底から父と母の間に産まれた事を幸せに思った。 

「心配していただいて、ありがとうございます。店長のおっしゃることはよくわかります。だけど、僕は何と言われようと、画家を目指します」

 僕は淡々と言った。

「ほんとに、光ちゃんは頑固者ねぇ。こんないい話、なかなかないわよ。だいたい、光ちゃんを心配して、私が正社員の話を本部に持ちかけてあげたのよ。これで私の顔も丸つぶれだわ。私は、光ちゃんはもっとしっかり人生とか考える事が出来る人だと思ってたのになぁ」

 店長はそう言うと、大きな溜息をついた。

 僕は、心の中で、それ以上の大きな溜息をついた後、店長を真っ直ぐ見つめ、言った。

「ご期待に沿えず、申し訳ございませんでした」

「いいのよ、もう仕方ないわ。アルバイトは続けてくれるわよね?」

 店長は言った。

「はい」

 僕は少し考た後、頷いた。

 正直な所、ここまで言われて、アルバイトを続けたいとは思わなかった。だけど、ここまで言われたからこそ、続けようと思った。ここで辞めてしまうのは簡単だけど、後から後悔するような気がした。

「じゃあ、そろそろ行く?あっここは私が奢るわ」

 店長は言った。

「いえ、僕の分は自分で払います」

 僕は言った。

「いいのよ、お金ないでしょ。大変でしょ。フリーターって」

 店長は嫌味の篭った笑顔で言った。

 僕は意地でも自分の分を払おうかを思ったが、財布を鞄の中にしまった。

 その後、僕は最後まで悶々をしたまま、黙々と仕事を続けた。

会計の際に見た、店長の嫌な笑顔が、頭から消えなかった。僕の頼んだかけ蕎麦定食は六百二十円で、店長の頼んだ天ぷら定食は千五十円だった。たった四百三十円の差。その差に、何の意味があるのだろうか。

 僕の絵が売れるようになり、僕が天ぷら定食を頼めるようになったら、店長は僕に才能があると思うのだろうか。

 僕はそんな事を考えながら、途中で馬鹿馬鹿しくなった。そして自分の弱い心を責めた。



 ペットショップでのバイトを終えると、僕は家に戻り、ぴょんたんと幸せな一時を過ごし、カップラーメンを急いで食べ、夜のバイトへと向かった。

「おはようございまーす」

 僕はそう言いながら、店へ入った。

「おはよーさん」

 徹さんが言った。久しぶりに見た徹さんは、顔色が良く元気そうだった。

「徹さん、何か、元気そうですね」

 僕は言った。

「ほんまに?わかる?俺なぁ、仕事決まりそうやわぁ」

 徹さんは嬉しそうに言った。

「えっそうなんですか!すごいじゃないですか!」

 僕は驚いた。こんなに早く、徹さんに仕事が見つかるとは思っていなかった。

「そんな、驚くなやぁ」

 徹さんは照れながら言った。

「いや、すごいですよ。何の会社ですか?」

 僕は聞いた。

「あんまおっきくないんやけどなぁ、なんか色んな物を売ってる会社でなぁ。商店街とかで、人集めて、物を売るらしいねん。俺も詳しい事、あんまよくわからんのやけど、給料もいいし、いいかなって思ってるねん。面接とかは終わって、後は社長と話するだけやねん」

 徹さんは嬉しそうに言った。

「そうなんですね、おめでとうございます」

 僕は笑顔で言った。しかし、本当はとても嫌な予感がしていた。だけど、僕の考えすぎかもしれないしと思い、口には出さなかった。それに、もし僕の考えすぎではないと確信を持ったとしても、僕は口に出さなかっただろう。

「ありがとうなぁ」

 徹さんは笑顔で言った。

「おめでとうございます」

 僕は笑顔で言った。

「実はこのバイトなぁ、今日までやねん」

 徹さんは申し訳なさそうな顔をして言った。

「そうなんですか?」

 僕は聞いた。

「あぁ、新しい仕事な、すぐに働いてほしいって言われるからなぁ。オーナーに相談して、今日までって事になったんや。俺の後は決まってるんかわからんけどな。まぁ一人でも出来るような仕事やもんな」

 徹さんは言った。

「そうですね。まぁ、確かに・・・ここは一人でも大丈夫ですよね。新しい仕事、もうすぐに始めるんですか?」

 僕は聞いた。

「そうやねん。まぁ、早い方がいいやろ。俺、頑張るわ」

 徹さんは笑顔で言った。

「はい、頑張ってください」

 僕はそう言いながら、お年寄りなどを集め、高額の商品を売る徹さんを想像していた。大人になるという事はこういう事なのだろうか。本当は徹さんに思った事を言えばよいのかもしれない。だけど、僕の口から出たのは、おめでとうございますや、頑張ってください等、無責任な言葉ばかりだった。

 それに徹さんも、本当は気がついているのかもしれないし、気がつかないふりをしているだけかもしれない。僕には徹さんの真意がわからなかった。

 だけど、この日の徹さんは、終始、機嫌が良く、嬉しそうだった。 

 仕事を終えた僕らは、朝日を見ながら、煙草を吸った。徹さんはやっぱり嬉しそうだった。僕らは思い出話に花を咲かせ、たくさん笑った。僕は無意識の内に、徹さん笑顔に含まれた影を探していた。だけど、徹さんの笑顔から影は見つからなかった。

 僕はこれで良かったのだと無理矢理に思うことにした。僕の道を店長が理解できないように、僕が徹さんの道を理解できないのも仕方がない事なのだろう。

 徹さんは徹さんの道を進むのだ。



 それから、昼はペットショップ、夜はバーテンのバイトという日を僕は何日間か繰り返した。まるで同じ日が何回も繰り返されているようだった。

 父の様子を見に行くために数日間のまとまった休みを取る必要があった僕は、ペットショップでバイト仲間に頼みこみ、出勤日を変わってもらった。そのため休みが全くない日が続いた。バーテンのバイトは、僕が休みをとりたいとオーナーに電話をした所、あっさり「いいよ」と言われた。従業員は徹さんと僕、後はオーナーや、オーナーの息子がたまに出てくるぐらいだったので、徹さんが辞めた今、僕が休むと店が回らなくなるのではないかと少し心配したのだが「臨時休業にするからいいよ」と言われた。

 ペットショップでは、店長につきまとわれる事がなくなった。その代わりといっては何だが、今まで店長のお気に入りという事でか免除されていた駅前でのちらし配り当番表に僕の名前があった。

 どれだけの意味があるのかは、定かではないが、月に二回、しかも休日の昼間に、犬の着ぐるみを着て、駅前でちらしを配るという決まりがあった。僕は、駅前でのちらし配りぐらい、喜んで引き受けようと思った。犬の着ぐるみを着て、小さな子供に囲まれている自分を想像すると笑えた。

 佐藤さんは、僕に同情したのか、以前のように僕をニヤニヤと嬉しそうに見る事がなくなった。それ所か、急に優しく話しかけてきてくれるようになった。話してみて、僕は、佐藤さんとはわりと気が合いそうだと感じた。佐藤さんも同じように感じたのか、それとも僕に同情しているだけなのか、そこはわからないが、僕らは色々な話をした。意外と言ったら失礼だが、佐藤さんの趣味は美術館に行く事だった。そんな共通点もあり、僕らは仲良くなった。

 そんな訳で、店長とは険悪なムードが漂ったままであったが、僕はわりと楽しく働いた。

 三日間の連休の前の日に、僕は佐藤さんにぴょんたんを預けた。 

 

?


 翌日、僕は新幹線に乗り、西本病院へと向かった。

僕はコーヒーとサンドイッチを買った。

父が和菓子屋を営んでいるため、家族旅行の思い出は、数える程しかない。そのためか、僕は家族で旅行に行った時の事をよく覚えている。

僕が小学生の頃、夏休みに一泊二日で、家族で京都を訪れた事があった。朝早く、家を出て、新幹線の中でサンドイッチを買って食べた。母はサンドイッチの具が少ない割に、値段が高いと文句を言っていた。父は嫌いなキュウリを丁寧に取り出し、無言で食べていた。僕は家族で旅行が出来る事が嬉しくてはしゃいでいたため、サンドイッチを床に落としてしまった。母はそんな僕を注意し、父はその光景を見て笑っていた。母は僕を注意した後、僕に自分の分のサンドイッチを差し出した。

僕はそんな事を思い出しながら、サンドイッチを食べた。乾いた薄いパンに、ハムやキュウリがはさまれただけの、質素なサンドイッチだったが、僕にはとても美味しく感じられた。

新幹線から外の景色を見た。父が倒れたと連絡を受けた日と同じ景色であるはずなのに、全く違う景色に見えた。一面に田んぼが広がっており、古い家がぽつんぽつんと建っていた。家の横には洗濯物が吊るされており、風が吹くと気持ち良さそうに揺れていた。農道を古い軽トラックがゆっくりと走っていた。

僕はコーヒーを飲み、音楽を聴きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。そして、いつの間にか、僕は眠ってしまっていた。

夢の中で、僕は父と母と手を繋いで、海辺を歩いていた。太陽のあたたかな光に溢れ、砂浜はキラキラと星のように輝いていた。そして赤い大きな花が咲いていた。その花は僕よりずっと背が高く、太陽に向かって真っ直ぐに咲いていた。

 とても気持ちのよい夢だった。僕は目が覚めてからも、幸せな気持ちに浸っていた。

三十歳の男が、家族三人で手を繋ぎながら、海辺を歩く夢を見て、幸せな気持ちになり、嬉しそうにしている姿は、おそらく気持ちが悪いであろう。だけど、僕は幸せに浸っていた。

新幹線が駅についた。僕は駅前で丸いショートケーキを買った。誕生日に蝋燭をたてて、皆で食べるような、赤い苺がのった生クリームたっぷりの大きなショートケーキを買った。

父は和菓子屋を営んでいるのだが、昔からショートケーキが好きだった。何かある度に、商店街の洋菓子店で大きなショートケーキを買ってきた。家族三人で食べるには大きすぎて、必ず余るので、僕は翌朝もケーキを食べ、そしておやつにもケーキを食べる事が出来た。

僕はケーキを持ち、タクシーで病院へと向かった。そして病院の受付で確認し、父の病室へ向かった。

 父は六人部屋の角にいた。父の横に母が座っていた。母は父に何やら話しかけ、少し笑っていた。

「ただいま」

 僕は何と声をかけてよいかわからず、ただいまと言ってしまった。

「あら、光。電話してくれれば良かったのに」

 母がにこやかな表情で言った。

「父さん、具合はどう?」

「あぁ、大丈夫だ。ありがとう」

 父は言った。点滴を打ち続けているせいか痣だらけになっている腕が痛々しかった。

「良かった。本当に良かった・・・。あ、そうだ・・・ケーキ買ってきたよ」

 僕はケーキの箱を持ち上げて、言った。

「あら、お父さん、食べますか?」

 母は嬉しそうに言った。

「あぁ、食べよう」

 父は深く頷いた。

「じゃあ、皆で頂きましょう。丁度、三時のおやつの時間ね」

 母は嬉しそうに、そう言うと、箱を開け「あら、大きいのね」と目を丸くさせながら小さな声で呟き、ケーキを切り分けた。

「懐かしいわね、苺のショートケーキ。光がいなくなってから、食べる機会もなかったものね」

 母はケーキを眺めながら言った。

「あぁ、昔はよく買ってたもんな」

 父も嬉しそうにケーキを眺めながら言った。

「父さん、ショートケーキ好きだったなと思い出してさ」

 僕は言った。

「あぁ」

 父はそう言うと、ケーキを口に運んだ。そして小さな声で呟くように言った。

「うまい」

「美味しいわね」

 母もケーキを口に運び、嬉しそうに言った。

 僕ら三人は、口々にうまい、美味しいと言いながら、ケーキを食べた。ケーキを食べながら、色々な話をした。

 母は、最近はまっているというドラマの話をした。そのドラマの日には、早めに風呂に入り、五分前には二人揃ってテレビの前に座るのだと嬉しそうに話し、いつも感動して、たくさん泣いてしまうから、ティッシュの箱がすぐに空になってしまって困ると笑いながら言った。

 父は、最近、小さな女の子に、みたらし団子を一本サービスしてあげたら、感謝の手紙を貰ったのだと嬉しそうに話した。

 僕は父と母の話を聞き、改めて二人の子供として産まれてきた事を幸せに思った。


 ケーキを食べ終え、僕と母は病院の庭を散歩した。

「父さん、本当に大丈夫なの?」

 僕は聞いた。

「えぇ、今の所、大丈夫よ。手術を終えた後、色々な検査をしたのよ。お父さんの話だと、馬鹿にされているんじゃないかっていうような簡単な質問をたくさんされたって言ってたわ。それだけ、大きな後遺症が残る可能性のある病気ってことよね。お医者さんの話だと、大きな後遺症が見られないのは奇跡的だとの事だったわ。私もずっとお父さんと一緒にいて、色々な話をしたりしているけど、お父さんはしゃんとしてるわ。本当に強い人・・・」

 母はそう言うと、急に泣き出した。

「母さん・・・」

 僕は母の背中をさすった。母は両手で顔を覆い、声をあげて泣いた。

「母さん・・・ごめん。辛かったよね。ごめん・・・」

 僕が声をかけると、更に大きな声をあげて母は泣いた。僕は母を人気のない所にあるベンチに座らせ、僕もその横に座った。

 病院の庭は緑色の芝生が広がり、その周りに規則正しく、花壇が作られていた。中央には噴水があった。噴水の横のベンチに、パジャマを着た小さな男の子と母親とみられる女性が座っていた。男の子は噴水に向かってシャボン玉を吹き続けていた。空に向かって吹き上がる水とシャボン玉がキラキラと光っていた。

 母はしばらくの間、ずっと顔を覆い、泣き続けた。

僕はその姿を見て、胸が苦しくなった。母は今まで必死で我慢していたのだ。僕はわかっていたのに、何もしてあげられなかった。心の中で何度もごめんと繰り返した。

「ごめんね。光・・・」

 母は泣き止むと、赤くなった目で僕を見つめ、照れたように笑った。

「いや、ごめん。母さん」

「ありがとう」

 母は笑顔で言った。

 僕らは立ち上がり、散歩を続けた。子供の頃と影の大きさが反対になっていた。

 昔、僕は、よく母の夕飯の買い物に、着いていった。夕陽に照らされ、出来た大きく伸びた影を見て、僕は「早く、このくらい大きくなりたい」と言った。母はそんな僕に「牛乳を飲みなさい」と言った。母は僕が大きくなりたいと言うと、必ず牛乳を勧めた。その時に出来ていた影は、母の方が大きく、僕の方が小さかった。

「そろそろ、父さんの所に戻る?」

 僕は聞いた。

「そうね」

 母は小さな声でそう言うと、病棟に向かってゆっくりと歩きだした。僕もそれに続いた。

 父は眠っていた。顔はやつれた様子ではあったが、表情は穏やかだった。僕らは父を起こさないように、そっとベッドの横に座った。しばらくすると父が起きたので、僕らは少し話をし、その後、母と家に帰った。

「夜は何が食べたい?」

 母は聞いた。

「何か食べて帰ろうよ。母さん、疲れてるでしょ」

「いいのよ。何か作らせてよ。何が食べたい?」

「んー、じゃあ、コロッケがいいな」

 僕は言った。

 母のコロッケは、僕の一番好きなメニューだった。

夕方、家に帰ってきて、母がコロッケを作っている事がわかると、僕はガッツポーズを決め、急いでランドセルを部屋に起き、母の元へ向かった。中学生くらいになると、さすがにガッツポーズを実際に決める事はなくなったが、心の中でガッツポーズを決めていた。

「コロッケね。光、コロッケ好きだったもんね」

母は嬉しそうに言った。

「うん」

 僕は、少し照れながら頷いた。

 その夜、僕らは二人でコロッケを丸め、揚げたてを頬張った。僕は調子に乗って、コロッケを四個も食べた。そのせいか、しっかり翌日、お腹を壊した。そして、また自分が三十歳になったのだという事を実感した。

 朝起き、用意をして、父に会いに病院に行き、買い物をし、家に帰り、母と夜御飯を食べるという日が三日間続いた。そして四日目の昼に僕は新幹線に乗り、僕の家へ帰った。

僕にとっては、同じような日々だったが、父は一日毎に元気になっていっていた。よく話すようになり、眠っている時間が減った。担当医からは、驚くべき回復力だと言われた。

僕にとって父は元々、偉大な存在であったが、更に偉大な存在になった。父は僕に、一度も弱さを見せなかった。僕は自分の器の小ささを痛感し、そして父のようになりたいと強く思った。母が言った、本当に強い人という言葉が頭から離れなかった。

 


 コウメさんと映画デートの日がやってきた。僕はコウメさんの家に迎えに行った。とても暑い日だったので、僕は半袖の白いTシャツとデニムで出掛けた。

 外に出ると、太陽の光が眩しく、思わず目を閉じた。閉じた瞼からも強い光は感じられ、僕の前に不思議な明るいオレンジ色の世界が広がった。オレンジ色の世界の中心に光源があり、そこから四方八方に光が広がっていた。光は生きているかのように、力強く広がり、そして優しく世界に溶け込んでいく。僕はゆっくりと目を開けた。一瞬、僕の目の前は真っ暗になり、その後、あまりの光の強さに眩暈がした。もう一度、目を閉じると、やはりオレンジ色の世界が広がっていた。だけど、さっきの世界とは何かが違う。何が違うのか、考えてもわからなかったが、何か違った。こうして、僕は数秒前の世界を忘れていく。写真にする事の出来ない僕だけの世界。だけど僕は僕だけの世界を忘れていく。 

 僕は背中にじっとりとした汗を感じた。夏はもうそこまでやってきている。僕はもう一度、目を閉じ、夏の訪れを感じた。

 コウメさんは今日も植物に水を与えていた。優しい眼差しで愛おしそうに植物を見つめるコウメさんがいた。

「こんにちは」

 僕がそう言うと、コウメさんは振り返り、満面の笑みを浮かべた。

「こんにちは」

「今日は、暑いですね」

 僕は言った。

「本当に、暑くなりましたね。ちょっと待ってね。すぐに準備しますから」

「いいですよ。ゆっくりで。向日葵、だいぶ大きくなりましたね」

 僕は、だいぶ大きくなった向日葵を見ながら言った。

「えぇ、本当に。この子達からは毎日、元気をもらっていますよ」

 コウメさんは愛おしそうに向日葵を見つめながら言った。そして、急にはっとした表情になり、慌てて言った。

「あらあら、私ったら、急がなきゃね。ちょっと待ってて下さいね」 

「いいですよ。ゆっくりで」

 僕は言った。

しかし、コウメさんは急いで、家の中に入っていった。そして五分程で、また急いで、家から出てきた。コウメさんは、麻のワンピースに、くすんだ黄色の麦藁帽子を被っていた。

「そのワンピース、素敵ですね。よくお似合いです」

 僕は言った。

「一張羅ですから」

 コウメさんは照れ笑いを浮かべながら、嬉しそうに言った。

 

僕らは街へ出て、まず映画のチケットを買った。僕が何を観たいかと聞くと、コウメさんは恥ずかしそうにラブストーリーが観たいと言った。僕らは【この夏、一番の愛の物語】というキャッチフレーズのついたラブストーリー映画を観る事にした。

丁度、昼時で、映画の時間まで、一時間程あったので、何か食べようという事になり、僕はコウメさんに何が食べたいかと聞いた。コウメさんは、また恥ずかしそうに、ハンバーガーが食べてみたいと言った。僕らは近くのファーストフード店に入った。

「いらっしゃいませ、こんにちは。ご注文がお決まりでしたらどうぞ」

「えっと、照り焼きバーガーセットと・・・コウメさんは何がいいですか?」

 僕は聞いた。

コウメさんは、メニューを真剣に見ながら、恥ずかしそうに指をさした。

「それと、スパイシートマトクリームバーガーセット」

 僕は言った。

「かしこまりました。お飲み物は何になさいますか?」

「僕は、アイスコーヒーで。コウメさんはどうしますか?」

「お茶をお願いします」

 コウメさんは緊張した様子で、小さな声で言った。

「じゃあ、アイスコーヒーとウーロン茶で」

 僕は店員に言った。

「かしこまりました。アイスコーヒーとウーロン茶でございますね。ではお会計が千百五十五円でございます」

「はい」

 僕は頷きながら、お金をトレイに乗せた。

「あ、私が払いますよ」

 コウメさんはそう言うと、慌てて財布を出した。

「いいですよ。このくらい、僕に奢らせて下さい。デートですから」

 僕は言った。

 店員は、お金をレジにしまいながら、デートという言葉が出た瞬間、僕をまじまじと見つめた。 

「約束・・・」

 コウメさんは小さな声で言った。

「いいですよ」

 僕は笑顔で言った。コウメさんは申し訳なさそうに俯いた。

 店員からお釣りとハンバーガーセットを受け取り、僕らは窓際の席へ座った。店員は、マニュアルの笑顔を崩さなかったが、その目は珍しいものでも見るように僕らの事を不思議そうに見つめていた。

「約束ですから、お金・・・」

 コウメさんは言った。

「いいですよ。デートですから、このくらい僕に奢らせて下さい」

 僕は言った。

「ありがとうございます」

 コウメさんは小さく頭を下げた。

「いえ、ところで、何でハンバーガーなんですか?」

「あ・・・えっとね。毎日、テレビを見ていると、このトマトクリーミー・・・えっと・・・」

 コウメさんは可愛らしく首をかしげた。

「あ、スパイシートマトクリームバーガーでしたっけ?」

 僕は言った。

「そう、そのこのハンバーガーのコマーシャルが毎日流れていてね。小さな男の子が嬉しそうにこのハンバーガーを食べるのだけど、本当に美味しそうに食べるのですよ。それでずっと食べたくてね」

 コウメさんは恥ずかしそうに言った。

「そうなんですね。確かに、ハンバーガーのコマーシャルって、見てたら食べたくなりますよね」

「はい。それにね、ハンバーガーのコマーシャルって本当にたくさん流れているのですよ。もう一日に何回も見ますからね」

 コウメさんはそう言うと、少し笑った。

「そうですよね。何回も見てたら、更に食べたくなりますよね」

「えぇ、でもなかなか一人で食べに行く訳にも行かないですから。いつも食べてみたいなと思っているうちに、また新しいハンバーガーのコマーシャルに変わるのよね」

 コウメさんは言った。

「そうですね。すぐ新メニューが出ますもんね」

「えぇ、本当に。私は置いてかれっぱなしですから」

 コウメさんはそう言うと、小さく笑った。

「いや、僕もですよ」

 僕はそう言うと、コウメさんにハンバーガーとポテト、ウーロン茶を渡した。

「ありがとう。いただきます」

 コウメさんは嬉しそうにそう言うと、包みをゆっくり開け、大きく口を開き、ハンバーガーをほうばった。

 僕がコウメさんを見つめると、コウメさんは幸せそうな顔をして言った。

「美味しい」

 そう言うと、コウメさんは僕に小さくピースをした。

「あはは、良かったです」

 僕は笑いながら言い、同じように小さくピースをしてみせた。

「コマーシャル・・・。男の子がね、食べた後にピースをするのですよ。嬉しくって真似してみました」

 コウメさんは嬉しそうに言った。

「あはは、そうだったんですね。喜んでもらえて、僕は嬉しいです」

 コウメさんは、幸せそうに、ハンバーガーを食べ、ウーロン茶を飲んだ。ポテトには手をつけなかった。小さな口でハンバーガーをほおばるコウメさんは、まるで小さな子供のように可愛らしかった。

「ポテトは嫌いですか?」

 僕は聞いた。

「いえ・・・もうお腹がいっぱいで。良かったらどうぞ」

 コウメさんは申し訳なさそうに言った。

「いや、僕ももうだいぶお腹が・・・」

 僕がそう言うと、コウメさんは鞄から小さな紙袋を取り出し、ポテトを袋に入れた。

「勿体無いですから・・・家に帰って、食べますね」

 コウメさんは恥ずかしそうに言った。

「そうですよね」

 僕は言った。

 僕らの横を女子高生達がトレイを持って、横切った。そのトレイの上には食べ残したハンバーガー、ポテトが乗っていた。女子高生達は迷わずゴミ箱へ捨て、何やら楽しそうに笑いながら、店を出て行った。僕だって、女子高生と同じだ。ファーストフード店で食べ残したら、迷うことなくゴミ箱へ捨てる。

この地球上に、食べる事が出来ないで命を亡くしていく人達がたくさんいるのに・・・。その事を僕は知っているのに、僕は当たり前のように、食べ残し、そして捨てる。

 その後、僕らは、映画館へ向かった。風が吹くと、コウメさんの鞄からポテトの匂いがした。 

「映画、楽しみですね」

 僕は言った。

「えぇ、本当に」

「コウメさんは、ラブストーリーが好きなんですか?」

 僕は聞いた。

「・・・・・・デートですから」

 コウメさんは恥ずかしそうに言った。

「そうですね」

 僕は笑顔で言った。

そして、僕らは顔を見合わせて笑った。

ラブストーリーだけあって、ほとんどがカップルだった。僕らは後ろの方の席に座り、映画を鑑賞した。

映画の内容は、ありふれたラブストーリーだった。恋人と別れ、傷ついた女性が旅行に出る。そして、その女性の大切さに気がついた元恋人が、その女性が旅に出たのを知り、その女性を追い求め、旅に出る。すれ違いが多く、なかなか出会う事が出来ない二人・・・。だけど、もちろん二人は出会う。諦めかけた頃に、誰もいない海辺でロマンチックに出会うのだ。正直な所、僕はこの映画が面白いとは思えなかった。ただ、横に座っているコウメさんがあまりにも真剣な眼差しでスクリーンを見つめ、そして主人公の女性が泣く度に、コウメさんもハンカチを取り出し、涙を流していたので、それが気になり、退屈で眠ってしまうという事はなかった。

僕は映画を観ながら、瑠璃子の事を思い出していた。僕は瑠璃子と別の道を歩む事を選んだ。瑠璃子は今、誰と道を歩んでいるのだろうか。お見合いはしたのだろうか。お見合い相手と上手くいっているのだろうか。僕は瑠璃子と別の道を自ら選んだにもかかわらず、瑠璃子が他の誰かと一緒に道を歩んでいるのだと思うと、どんよりと重たい気持ちになった。そして、見たこともない他の誰かに対して、嫉妬した。

僕らは映画を観終わった後、近くの喫茶店に入った。

「今日は、本当にありがとうございました」

 コウメさんは深く頭を下げた。

窓から降り注いでいる太陽の柔らかな光がコウメさんを照らしていた。もう少し光が強くなったら消えてしまうのではないかと思わせる程、コウメさんは華奢で、不思議な透明感があった。

「いえいえ、そんな・・・こちらこそ、ありがとうございました」

 僕は言った。

「本当に夢のように楽しい日だったわ」

 コウメさんは嬉しそうに言った。

「そんな、僕なんかでよければいつでもご一緒しますよ」

「ありがとうございます」

 コウメさんは丁寧に言った。

「いえいえ」

「では、またもしもこんな機会があれば、今度はラブストーリー以外の映画を観ましょうね」

 コウメさんは悪戯っぽい笑顔で言った。

「・・・いやいや」

 僕は恥ずかしくなり俯いた。

「本当に今日は楽しかったです。ありがとうございました」

 コウメさんは何度もありがとうと言った。僕はその度に「いやいや」「いえいえ」と繰り返した。僕がコウメさんを家に送り届けるまでに、コウメさんは何度もありがとうと言った。コウメさんは、一回、一回、心を込めて、何度も何度も、僕にありがとうと言ってくれた。それからしばらくの間、僕は【ありがとう】という言葉を聞く度にコウメさんを思い浮かべていた。


 

雨の日が続いていた。テレビでは毎朝、梅雨入りのニュースが流れていた。例年より早い梅雨入り。

僕は相変わらず、アルバイトに明け暮れていた。僕は絵を描くためのアトリエを失い、考えた結果、絵を描くための部屋がとれる所に引越しをしようという結論に達していた。そして、引越し資金を貯めるために、休みなく働いていた。


雨が降り続く中、健二は結婚式をあげた。僕は友人代表のスピーチを任さたのだが、緊張して声が震えてしまった。そんな僕の頼りないスピーチだったが、健二はとても喜んでくれた。

花嫁のさやかちゃんは、以前会った時より、少しふっくらとしていた。健二は来年には父親になるのだ。

幸せそうな二人を見て、嬉しく思う反面、僕は少しだけ寂しい気持ちになった。


裕也は相変わらずEDの治療のために、病院へ通っていた。会う度に、やつれていっていた。その一方、裕也の絵は、娘さんの父親の経営する店に、立派な額縁に入れられ、立派な値段をつけられ、堂々と並ぶようになっていた。

裕也が「僕が、描きたいのはこんな絵じゃない」と言った絵がたくさん並んでいた。


徹さんは僕の予想通り、お年寄りを集めて商品を売るというような仕事をしているようだった。

商店街で一度、徹さんを見かけた。スーツを着た徹さんは店の前に立ち、笑顔でお年寄りを店の中に案内していた。数時間後、商店街に大きな紙袋を提げたお年寄りが溢れていた。そして、三日後にはその店は抜け殻のように何もなくなっており、空物件というちらしが貼られていた。


雨は止む事なく、毎日降り続けた。空は毎日、泣いていた。

僕はそんな中、同じような日々を繰り返していた。

雨はいつか必ずあがる。そんな事を忘れてしまう程、雨は降り続いていた。


父は順調に回復へと向かっていた。父の病気を期に、僕は三日間に一回程のペースで実家に電話をかけるようになっていた。

まだ店を再開できる程に元気ではないけれども、父はすぐにでも店を再開させたいと言っていると母は嬉しそうに話した。

父は休んでいる間に、新商品の開発をすると言って、毎日、試行錯誤しているようだった。


そんな中、僕に朗報が届いた。瑠璃子の絵がコンクールで入賞したのだ。

封筒を開けると『佳作』という文字が目に入った。僕は国語辞典で意味を調べた。辞書をめくると、そこには、文学作品・芸術作品などで出来栄えのいい作品と書いてあった。  

僕は何度も合格通知のような『佳作』と書いてある一枚の紙と、辞書を見比べた。瑠璃子の絵が入賞した。僕の描いた瑠璃子の絵は他人に評価され、『佳作』となった。

僕はまず実家に電話をかけた。母は電話口で泣いて喜んでくれた。父は「おめでとう」と言った後、厳しい声で「自分を見失うな」と言った。

次に僕は健二に電話をかけた。しかし、留守番電話につながった。

そして、裕也に電話をかけようとして、途中でやめた。

僕は、ベランダに出て、煙草を吸った。そして泣いた。

雨の降り続く、暗い空を見ながら、僕は子供のように嗚咽をもらしながら泣いた。三十歳になってからの僕は、泣いてばかりだ。僕は空と一緒になって泣いた。



長い梅雨が明け、本格的な夏がやってきた。

雨はやはりあがった。

僕は相変わらず、アルバイトに明け暮れていた。ペットショップでは、ワンちゃんの夏バテ防止のコーナーが設けられた。おねんね枕に変わり、ひえひえ枕という商品が積まれ、飛ぶように売れていた。枕と同じように、店長は僕に対して冷たいままだった。

夜のバイトには、新しいバーテンが入ってきた。いつか自分のバーを持ちたいというだけあって、仕事熱心だった。

初日に、朝日を見ながら、一緒に煙草を吸った。

彼は、ポツリポツリと自分の話をした。今、二十九歳であること。昔はカメラマンを夢みて、世界各国に写真をとりにいっていたこと。今はもう、写真に対する気持ちはないということ。酒が好きだから、自分の店を持ちたいということ。

僕は、当然のように昇っていく太陽を見ながら、彼の口から出る言葉に合わせて、相槌をうった。始めは少しずつであったが、結局、彼は僕に自分の事をたくさん話した。彼は誰かに話したかったのだろう。彼は寂しかったのだろう。

僕は、地球上の生物の中で、一番、寂しがり屋なのは人間だろうと思う。

何故、僕らは、こんなにも寂しがり屋なのだろうか。

寂しさを埋めるために、僕らは群れる。群れた結果、固まりとなり、そして、固まり同士はぶつかり合い、その結果、多くの命を殺し、多くの自然を破壊し、歪んだ大きな固まりとなる。そんな大きな固まりの安全な場所で、僕らは、命の大切さや、自然の大切さについて考えたりするのだ。

僕らは、進化と共に、本当に大切なものを見失いかけている。

もし、僕ら人間に、寂しいという感情がなかったら、この世の中はどうなっていたのだろうか。

 神様は何故、僕ら人間を、一人では生きていけないように創ったのだろうか。



うだるような暑さの中、僕はコウメさんの家に向かっていた。コウメさんとは映画に行って以来、会っていなかった。

僕は、絵が入賞した事を伝えるために、コウメさんの家へと向かった。入賞したと告げたら、コウメさんはどんな反応をするだろうかと考えると嬉しくなった。僕は色々なパターンを想像して、楽しんだ。まるで、テストで百点をとった子供が母親に早く自慢したくて、褒めてほしくて仕方ないというようだった。

僕は大量の汗をかきながら、ニタニタとした顔でコウメさんの家に向かっていた。

コウメさんが目を丸くして驚くパターン、涙を流して喜んでくれるパターン・・・。そのパターン毎に、僕は自分の台詞を考えていた。そして僕の顔は更に緩んだ。

コウメさんの家は相変わらず、今にも壊れそうな小さな小屋のようだった。そして、やはり、たくさんの植物に囲まれていた。

 僕はコウメさんの家のチャイムを鳴らした。すると、若い女性が警戒した様子で家から出てきた。

「突然すいません。僕は大森と申しますが、コウメさんはいらっしゃいますか?」

 僕は、一人暮らしであったはずのコウメさんの家から、若い女性が出てきた事に驚きながら言った。

「・・・大森さん?」

 女性はそう聞きながら、不審そうに僕を見た。

「はい、大森と申します」

「失礼ですが、どういうご関係でしょうか?」

「コウメさんから依頼をいただき、コウメさんの絵を描かせていただきました。今日は絵の事でちょっとお話したい事がありまして」

 僕は紳士的にと心がけながら言った。

「あ・・・おばあちゃんの絵・・・」

 女性が小さく頷きながら言った。

「はい」

 僕は頷いた。

「おばあちゃんは十日程前に亡くなりました」

 女性は悲しそうな表情を浮かべ、小さな声で言った。

「・・・」

 僕は何も言えなかった。

今まで背中を流れていた汗が急にすーっとひき、寒気がした。体中から力が抜け、頭は真っ白になり、そして次に色々な思いがまとまらなまま、頭の中をぐるぐると回った。

コウメさんが、亡くなった・・・。あまりの出来事に、ここが現実の世界ではないのではないかと思った。だけど、僕の前にいる若い女性は、間違いなく悲しそうな顔をしているし、少し前に、はっきりと「十日程前に亡くなりました」と言った。

コウメさんが亡くなった・・・コウメさんは亡くなったのだ。

もう僕は、コウメさんに会う事が出来ない。僕は何でもっと早く、コウメさんに会いにこなかったのだろうと思った。雨だ、雨のせいで、僕は出かける事が億劫になっていたのだ。雨なんか、傘をさせば防げるのに・・・雨にぬれたって、シャワーを浴びればいいだけなのに・・・。

僕がずっと黙っていると、女性は言った。

「大森さんが描いてくださった絵、おばあちゃんと一緒に天国へ行きました」

「・・・僕の描いたコウメさんの絵?」

 僕は聞いた。

「はい、おばあちゃんの遺書の中に書いてあったみたいです」

 女性は言った。

「遺書・・・」

 僕の描いた絵の事を書いてあるという事は、最近書かれた遺書なのだろう。僕はコウメさんの言葉を思い出した。

「生きている私の姿を描いてもらうにはあなたしかいないと思いました」

 僕の描いた絵と共に、コウメさんは天国へ行った。僕の絵が完成し、コウメさんに見てもらった時の事を思い出した。

 コウメさんの瞳から流れた美しい涙。正座をして、何度も僕に頭を下げたコウメさん。胸がいっぱいになり、涙をこらえていた僕。コウメさんと同じように、何度も頭を下げた僕。

 僕がまた黙りこんでいると、女性が話し始めた。

「おばあちゃんの絵、とっても素敵でした。それに、おばあちゃんは本当に絵を描いてもらった事が嬉しかったんだと思います。遺書に、他の物は何もいらないから、大森さんの描いてくださった絵だけは一緒に入れてほしいって・・・後は植物の世話だけはお願いしますって書いてあったみたいです。正直な所、私は、最初それを聞いた時、なんか変なのってちょっと思っちゃったんです。だけど、おばあちゃんの絵を見たら、そんな気持ち、なくなっちゃいました。本当に、おばあちゃんの絵、描いてくださって、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ、ありがとうございます。コウメさんのご冥福をお祈りいたします」

 僕は、深く頭を下げた。僕に対して、女性はこくっと頷き、ゆっくりと頭を下げた。

「では、失礼致します」

 僕はそう言い、もう一度、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 女性はそう言うと、少し笑顔を見せ、戸を閉めた。 

 

コウメさんの家の横には、向日葵が、咲いていた。

 僕はコウメさんが、向日葵を見ながら、嬉しそうに話してくれた言葉を思い出した。

 「向日葵はお日様に向かって、真っ直ぐに大きな花を咲かせるの。私は向日葵を見ているとね、元気になれるの。向日葵は、元気をくれるお花なのね」

 コウメさんは今年の夏、向日葵から元気をもらったのだろうか。元気をもらう事なく、力尽きてしまったのではないだろうか。

いや・・・きっと元気をもらっただろう。

きっとこの大きく咲いた向日葵に笑顔で話しかけていただろう。向日葵に向かって「ありがとう」と言っているコウメさんの姿が頭に浮かんだ。コウメさんは向日葵から、たくさん元気をもらったのだ。きっと元気に天国へ昇っていったのだろう。

 僕は向日葵を見つめた。

 コウメさんの言葉通り、向日葵は太陽に向かって、真っ直ぐに大きな大きな花を咲かせていた。






 

 


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