前半
「もう、光にはついていけないわ」
瑠璃子は窓から遠くを眺めながら言った。
ポカポカとした気持ちのよい春の日だった。
そんな日に僕は瑠璃子とさよならした。
さよならなんかより、公園にピクニックにでも行きませんかと言いたくなるような天気の良さだった。
輝くような緑が溢れる公園で、芝生に座り、春の訪れと共に咲き乱れる花々を眺めながら、鮭や昆布の入ったおにぎりなんかを食べる。お茶は香ばしい玄米茶がいい。
優しい太陽の光に包まれ、僕らは自然に笑顔になる。
おにぎりを食べた後は、広場でバトミントンをして汗を流し、穏やかにゆっくりと去っていく太陽と共に、僕らも家へ帰る。
だけど僕と瑠璃子はピクニックには行かなかった。
僕と瑠璃子は、さよならをした。
さよなら、またね。じゃなくて、本物のさよなら。
「・・・」
僕は黙っていた。
うつむいた瑠璃子の顔に柔らかな光があたり、長い睫毛が顔に影をつくっていた。瞼には、淡いすみれ色のアイシャドーが薄く塗られ、キラキラと輝いていた。
僕は、ただぼぉっと、光に照らされたいつも以上に美しい瑠璃子のうつむいた顔を眺めていた。
僕がずっと黙っていると、瑠璃子は言った。
「もう光なんて知らないから」
瑠璃子は不自然に何度も瞬きを繰り返した。瞬きをする度に目元がキラキラと光って綺麗だった。
瑠璃子は挑戦的に、そして脅えながら、僕の目を見つめ、すぐに逸らした。僕から離れた瑠璃子の目は迷子のようにウロウロと空中をさまよっていた。
これは後から気がついた事なのだが、この時、瑠璃子は僕に期待していたのだと思う。この時の僕は、そんな瑠璃子の気持ちに気がつく事が出来なかった。それに僕は、気がついていても、気がつかないふりをして、同じ事を言っただろう。
長い沈黙の後、僕は瑠璃子に言った。
「今までありがとう」
「さよなら」
瑠璃子は一言そう言うと、僕の家を後にした。
「お前さぁ、ほんとに別れちゃったの?」
健二はコーヒーを飲みながら聞いた。
「うん。別れたよ、ほんとに」
僕はミックスジュースをストローですすりながら言った。
瑠璃子とは一年前に出会った。瑠璃子は僕のバイト先であるペットショップに客としてよく来ていたのだ。
すらっとした長身で、柔らかな長い髪の毛、透き通った白い肌、奥二重のきりっとした瞳、すっと鼻筋の通った鼻、蕾のような小さな桃色の唇、少しハスキーな声。少女のような透明感を持ちつつ、成熟した女の色気も持ち合わせていた。まだ青味がかった酸っぱい実のようであり、赤く熟れた甘い汁のしたたる実のようでもあった。
僕は瑠璃子が店に入って来ると、出るまで、ずっと目で追い続けるようになった。
瑠璃子が店にやって来たある日、僕は瑠璃子と親密になるきっかけを考えながら、バイト終わりに店を出た。
すると、そこに、瑠璃子がいて、更に瑠璃子が僕に声をかけてきた。まるで僕の想像の中から瑠璃子が急に飛び出てきたようだった。
その日も、そう晴れだった。
瑠璃子の柔らかな髪が太陽の光を浴びて艶やかに光り、耳元では小さなダイヤのついたピアスがキラキラと揺れていた。
瑠璃子は僕に笑いかけながら、そのハスキーな声で「絵を描かれているのですか?」と聞いた。
僕は、突然の出来事に驚いてしまい「何で知ってるんですか?」と憧れの女性を前にして、気の利かない、ただの返事をしてしまった。
すると瑠璃子は笑って「だって画材道具を持ってるんだもん」と悪戯っぽく言った。
瑠璃子は笑うと、きりっとした目が、くしゃっとなって、コロコロとした笑い声は子犬のようだった。
僕はその日、アトリエに作品の仕上げに向かう予定だったので、画材道具を一式持っていたのだ。しかし、僕はアトリエに行くのをやめ、このチャンスを逃すまいと瑠璃子を食事に誘った。
すると瑠璃子は「とびきり美味しいエチオピア料理が食べたい」と言った。
僕が困った顔をしていると、瑠璃子は笑いながら「あなたの困った顔が好きなの」と言った。僕が眉毛をへの字にして困り果てた顔をしてみせると、瑠璃子は笑いながら僕の手を握った。僕は完全に瑠璃子のペースに巻き込まれていた。僕は口から心臓が飛び出そうになるのを我慢し、平静を装い「本当は何が食べたいの?」と聞いた。
瑠璃子は「ラーメン」と子供のように言った。僕が「本当に?」と聞くと「餃子も」と言った。僕は笑って「チャーハンも?」と聞くと瑠璃子は笑って頷いた。
そして僕らは近くのラーメン屋に入り、ビールを飲みながら、餃子を食べ、その後にラーメンとチャーハンを食べた。
僕らは色々な話をした。瑠璃子は僕の話を嬉しそうに聞いてくれた。だけど、僕は落ち着かなかった。笑顔で頷く瑠璃子が本当は何を考えているのか、全くわからなかった。本当は、つまらない話と思っているのではないか、早く帰りたいのではないか、僕と一緒に食事に来なければ良かったと思っているのではないか。僕はそんな思いと戦いながら、一生懸命、話した。
僕は瑠璃子にたくさんの質問をした。その質問に対して、瑠璃子は真面目に答えたり、冗談っぽく答えたり、または話を逸らしてしまったり、悪戯っぽい笑顔で「秘密」と答えたりした。瑠璃子は、つかまえようとすると、ひらひらとどこかへ飛んでいってしまう蝶々のようだった。
ラーメン屋からの帰り道に「蝶々のようだね」と僕が言うと「つかまってあげてもいいよ」と瑠璃子は言い、ビー玉のような瞳で僕をじっと見つめた。そして瑠璃子は僕に軽いキスをした。次の瞬間には、僕が瑠璃子を抱き寄せ、長いキスをした。灯りのない暗い道で僕らは長い間、抱き合った。僕はやれば出来る男なのだ。
そういう訳で、僕らの関係はこうして始まった。
僕は年上の女性にもてる。一人っ子なので、甘え上手なのかもしれない。どうも僕には母性本能をくすぐるという才能があるようだ。
「で、理由は、やっぱあれ?」
健二は言った。
健二は小学生の頃からの幼馴染だ。僕の事を一番わかっているのは健二だろう。僕らは田舎から、同じ時期に東京に出てきたので、ずっと一緒なのだ。
「まぁね」
僕は煙草の煙を吐き出しながら言った。
「やっぱね」
健二は言った。
「だってさ、俺、まだ結婚する気ないし」
僕は言った。
「でもさ、俺達も、もう二十九だろ。俺はそろそろ結婚してもいいかなって思うけどな」
健二は言った。健二は二年前から四つ下のさやかちゃんという可愛らしい子と付き合っているのだ。
「いやいや、まだ二十九でしょ」
僕は笑いながら言った。
「まぁ、瑠璃子さんも、三十二だもんね。そりゃ結婚、意識するわなぁ」
健二は何度も頷きながら言った。
「でもさ、最初はそんな事なかったんだけどなぁ。自由な感じでさぁ。本当にそんな感じじゃなかったんだよ」
僕は昔を思い出しながら言った。
「まぁさ、瑠璃子さんも複雑だったんじゃないの?でも、いい女だったよなぁ」
健二は言った。
「まぁね、いい女ってのは間違いないよ」
僕はため息をつきながら言った。
瑠璃子は本当にいい女だった。途中までは全てがうまくいっていた。やっと運命の女性に出会えたと本気で思っていた時期もあった。僕らはお互いを強く必要としあい、だけど常に、丁度良い距離感は保っていた。僕にとっては、理想の関係だった。しかし、瑠璃子の親友が結婚した頃から二人はどこかうまくいかなくなった。それからは早かった。小さな罅は、すぐに大きな罅となり、そしてあっけなく割れた。
「お前、何故か年上の女に好かれるよな」
健二は言った。
「ん、まぁ、可愛いからね。俺!」
僕は目を大きくしてぶりっこ風の顔をして見せた。自慢じゃないが(自慢だが)ジャニーズ系の可愛い顔をしているのだ。
「気持ちわりぃ」
健二は笑いながら言った。
「で、どうなのよ。最近の絵の調子は?」
健二は続けて聞いた。
「うん、いい感じよ。コンクールに出す作品。今度こそ、いけると思ってる!」
僕は言った。
今度のコンクールに出す作品は自信があった。瑠璃子を描いた作品だった。大人の女性と少女が混ざり合ったような不思議な魅力を持つ、瑠璃子を描いたのだ。クリスタルの花瓶に活けられた真紅の薔薇のような妖艶な美しさ、そして野原に咲くタンポポのように自由で無邪気な美しさ、共存しないはずの正反対の美しさが瑠璃子の中では共存していた。
「その言葉、もうお前から何回も聞いてるけど・・・」
健二は笑いながら言った。
「いや、まぁね」
僕は笑った。
「瑠璃子さん、描いたんだっけ?」
健二は聞いた。
「うん」
僕は笑顔で頷いた。
「お前、それ出すんだよな?コンクールに?」
健二は聞いた。
「うん。出すよ、もちろん」
「お前、けっこう凄いな」
健二はあきれたような顔で僕を見た。
「何が?」
僕は聞いた。
「いや、別れた女を描いた作品をコンクールに出すっていうのがさ。なんかお前らしいけど」
「いや、作品だしね。それに、俺は去るもの追わず、来るもの拒まずの平和主義だからね」
僕は笑いながら言った。
「あぁ、はいはい、ま、頑張れよ」
健二は笑顔で言った。
「おう。受賞した暁には、盛大にパーティー宜しくね」
僕はふざけた感じで健二にウィンクをしてみせた。
「了解。じゃ、俺、そろそろ約束の時間だから、行くわ」
健二はそう言い、彼女とのデートへ向かっていった。
僕は新しい煙草に火をつけた。
そして、鞄の中から、絵画集を出した。
エドゥアール・マネ。尊敬してやまない画家。
十七歳の時にマネの「笛を吹く少年」を教科書で観たのが、画家を目指すようになったきっかけだ。それは衝撃的な出会いで、何かが僕の心を揺さぶった。その何かというのが、未だに僕はわからない。何かを求め、僕はさまよい歩き続けているが、僕はまだ深い迷路の中にいる。ただ、僕はその何かとの出会いにより、進む道を大きく変えた。そこに、迷いはなかった。それまで高校受験のために、真面目に受験勉強していた僕だったが、受験勉強をあっさりとやめた。まず学習塾を辞め、デッサンの教室に通いだした。そして、ある程度の学力があれば誰でも入れる高校に入学し、美術部に入った。高校でも、勉強せずに絵を描き続けた。そして僕は一浪してそこそこ有名な美大に入り、また絵を描き続けた。
そんな僕を、理解し応援してくれた父には頭があがらない。
僕が「画家を目指す事にした」と言った時、父は深く頷き「最後まで諦めるな」と言った。そして、それから全面的に応援してくれている。
僕は現在、いわゆるフリーターだ。
美大を卒業してから、ずっとアルバイト生活を続けているから、もう六年たつ。中堅フリーターである。世間では男二十九歳・フリーターというのはどうも受けがよくないらしい。風当たりが冷たい。 ただ僕は、夢があるからこそのフリーターであって怠け者のフリーターと一緒にされては困る。
しかし、正月などに、親戚で集まる機会があると、その度に【僕がいまだにフリーターである事について】討論大会が行われる。主催者は、常に菊枝おばさんだ。菊枝おばさんの子供、つまり僕のいとこのツトム君は昔から勉強が出来て、今は弁護士だ。ツトム君と僕は同じ年だから、いつも比べられる。僕の話題から始まって、最終的には息子自慢で終わる。それがいつものパターンだ。
ある正月、いつものように菊枝おばさんがこの話題を持ち出した時に、父は皆に向かって言ったのだった。
「光の人生は、光の道だ。光が歩む道だ」
父があまりに真剣な顔で、そして珍しく大きな声で言うもんだから、皆、黙りこんだ。
そして、この正月は、さすがに菊枝おばさんもこの話題を持ち出す事はなかった。だけど、半年後に法事で集まった時は、当然のように菊枝おばさんはこの話題を持ち出していた。
ただ僕の心は、父の言葉でしっかり包まれているから、菊枝おばさんの嫌味も笑って聞き流す事が出来る。父は偉大なり。
僕は画集のページをめくった。
マネの絵は、何度観ても、惹き込まれる。僕はその魅力の原因について考えた。だが、やはり答えは出ない。人物の表情が良いとか、配色が美しいとか、そんな陳腐な理由ならいくらでも答える事が出来る。だけど、僕の心を揺さぶった何かは、そんなものじゃないのだ。
世の中には、魅力的なものがたくさんある。だけど、その魅力的な原因は何かと聞かれても、なかなか答えは出ない。その反対に、嫌なものの原因は案外あっさりと答えが出るものだ。
僕は、残っていたミックスジュースを飲み干して、店を出た。健二と会うときはいつもこの店だ。健二にはお気に入りのウェイトレスがいて、僕はミックスジュースがお気に入りなのだ。
店を出ると、カラフルな空が広がっていた。
夕暮れのカラフルな空。人々の疲れを癒す優しい色合い。
僕はそんなカラフルな空に少し嫉妬する。僕は絵を描くとき、たくさんの色を使う。けれど、こんな美しさが、僕の手から生み出された事は未だかつてない。
「ただいまぁ、ぴょんたん」
僕は玄関で靴を脱ぎながら言った。
ぴょんたん、即ち、僕のペットであるウサギは、早く小屋から出せとばかりに小屋の中をくるくると回った。
「はいはーい。今、出してあげますからねぇ」
僕はテレビのスイッチをつけながら、ぴょんたんの小屋の鍵を開けた。ぴょんたんに声をかける時は自然と子供に話しかけるような口調になる。僕がぴょんたんに話しかけるのを見て、瑠璃子は大笑いした。チワワみたいな笑い方じゃなく、そうベートーベンのようなビッグな笑いだった。そして、僕に何度もキスをした。
ぴょんたんは、急いで小屋から飛び出して、僕の元によってきた。
「いい子ですねぇ」
僕はぴょんたんを撫でながら言った。ぴょんたんは、そうでしょ、私可愛いでしょという感じで、僕を見た。そして気持ち良さそうにしていた。
僕は動物にももてる。動物の母性本能もくすぐる事が出来るのか。いや、ペットショップでは動物の赤ちゃんがほとんどだから、僕の母性本能に赤ちゃんがやられるのだろう。僕が優しく撫でるとどの子も目をトロンとさせて気持ち良さそうにする。
そんな僕をペットショップの店長の前田さんは、トロンとした目で見つめる。前田店長は三十三歳、いつでも彼氏募集中だ。
僕は、ぴょんたんとの幸せな一時を過ごした後、急いで昨日の残りのカレーを食べた。カレーは熟成されて深い味わいになっていた。
前に瑠璃子と二日目のカレーを一緒に食べた時「女もカレーと一緒で熟成されて美味しくなるのよ」と言った。僕は確か、その瑠璃子の言葉は無視した。瑠璃子はたまに大人の女ぶる所があった。実際に大人の女なのだが、僕はそんな瑠璃子はあまり好きじゃなかった。大人の色気漂う瑠璃子がタンポポのように無邪気に、子犬のようにコロコロと笑う時が好きだった。
カレーを食べ終えた僕は、髪の毛をワックスで整えて、夜のバイトへと向かった。
夜のバイトといってもホストではない。年上の女性にもてる僕だからホストでもけっこういいところまでいけそうだが、あいにく僕は、ホストクラブのような体育会系のノリは苦手なのだ。という訳で、夜はバーテンのバイトをしている。バーテンをやる人っていうのは、こうゆるい感じで、「まぁ、そう焦らずに」が口癖のようなタイプが多い気がする。僕にはぴったりだ。
「おはようございまーす」
僕は唯一のバイト仲間の徹さんに言った。
徹さんは、音楽をやっている。バンドマンだ。もう十年程、活動を続けているようだ。まだ花は開いていない。夢追いかけ仲間。
「あっ光、おはよーさん」
徹さんが言った。
徹さんは、渋くてハードで、リーゼントがバッチリきまるような外見に似合わず、気さくで親しみ易い性格だ。柔らかな関西弁もいい味を出している。このギャップが女性にも受けるようで、徹さんはバーに来る女性客から人気がある。何度か酔った勢いで、いや正確には酔ったふりをして徹さんに甘える女性客を見たことがある。
そういう時、徹さんは「今は酔ってるからこんなおっさんがよく見えるんやで」とか言ってやんわりかわす。
「徹さん、聞いてくださいよ。瑠璃子とついに別れました」
僕は言った。
「ほんまにぃ?でも、光、そろそろあかんかもって言ってたもんなぁ。でも瑠璃ちゃん、だいぶ光にほれこんどったように見えたから、まだ別れんやろなぁって思っとったんやけど」
徹さんは言った。
「いやぁ、やっぱ僕じゃだめみたいですよ」
僕は言った。
「瑠璃ちゃんも、やっぱ早く結婚したかったんやろかぁ」
徹さんはしみじみと言った。
「そうなんだと思いますよ。僕にはついていけないって言われました」
僕は言った。
女性はいつから、付き合い続ける=結婚する、結婚できない=別れるという方程式を頭の中で作り出すのだろうか。その方程式は出来てしまったら最後、男は従うしかないのではないかと思う。恐ろしい方程式だ。
「いやぁ、どうなんやろかぁ。俺も男やから、そのへんよくわからんけど。やっぱ女の人は赤ちゃん産んだりとか、そういうのも考えるんとちゃうかなぁ。うちは一緒に暮らして五年たつけど、あんま何も言ってこうへんわぁ」
徹さんは言った。
「五年ですかぁ・・・」
「まぁ、俺がこんなんやから。何も言えんのんやろうけどなぁ」
徹さんは、額にしわをよせ、煙草の煙を吐き出しながら言った。徹さんから大人の男の色気が漂ってきた。
「いやぁ、やっぱ理解のある彼女さんなんですよぉ」
「まぁ、理解はあるけどなぁ。まぁ、俺の事、一番に応援してくれてるっちゅうんかな。ありがたいことやなぁ」
徹さんは少し照れながら言った。
「そうですよ、理解のある彼女さんですよぉ」
「そやなぁ、俺、二十三からバンドやってるけど、もう今年三十四やで。こんな俺をずっと応援してくれてるんやから、感謝せななぁ」
徹さんはしみじみと言った。
「そうですよぉ、彼女さん、大切にしてあげて下さいね」
僕はそう言いながら、店の掃除を始めた。
徹さんは三十四歳。二十三歳の時にバンドを結成したと言っていたから、もう十一年も続けているという事になる。十一年っていったら産まれたての赤ん坊が小学五年生まで成長する長さだ。僕はまだ、七年だから、小学生一年生か二年生くらいだろう。ピカピカのランドセルが嬉しくて仕方ない頃だろうか。いや、だけど、僕が画家を目指したのは十七歳の時だから、そう考えるともう中学生になっている・・・。
「金曜やし、今日は忙しいやろなぁ」
徹さんがグラスを拭きながら言った。
僕は徹さんの言葉で我にかえった。頭の中ではぐるぐると計算式が繰り出されていた。しかし、その計算の無意味さに気がつき、掃除を始める事にした。
徹さんはグラスを拭く姿も決まっている。心なしか僕が拭くより、グラスはピカピカになっているような気がする。
「そうですねぇ。金曜日ですもんねぇ」
僕は掃除をしながら答えた。
バーという場所が、口説いたり、口説かれたりするのにふさわしいと思っている人はかなり多いようだ。実際、僕も利用させてもらった事があるし。バーテンをやっていると、色々な口説き・口説かれ現場に遭遇する。ほとんどは自分か、もしくは酒に酔っていて、苦笑いしてしまうような言葉ばっかりだけど、たまにこれは使えるなっていう言葉があって、そういうのはしっかり頂く事にしている。バーテンの醍醐味だ。
僕は入口から男女が入ってくると、心の中で賭けをする。成功するか失敗するか。最近では七割くらいの確率で当たるようになった。徹さんに、この話をした所、徹さんは九割くらいの確率でわかると言っていた。さすが、徹さんだ。
徹さんの言葉通り、忙しい夜になった。
次々に客が来て、僕らはカクテルを作り、客と世間話をし、後片付けをした。
金曜日に来る一人客は、長居し、僕らと話をしたがる。カップルはすぐに帰る。他の目的があるのだろう。
閉店後、片付けを終え、疲れ果てた僕らは、明け方、店を出た。そして店の裏で僕達は日の出を見ながら煙草を吸った。
「今度なぁ、ライブするんやけど、見にこうへん?」
徹さんは言った。
「ライブですかぁ。いいですね。いつですか?」
僕は聞いた。
「次の日曜なんやけど。空いとるかなぁ?」
徹さんは優しい声で聞いた。
「夜ですよね?」
「そやで。夜やで」
「夜なら大丈夫だと思いますよぉ」
「ほんまに?ほんじゃ来てくれるかな?」
徹さんは嬉しそうに聞いた。
「はい、もちろん。いいとも!」
僕は笑顔でテレビの真似をして答えた。
「ありがとさん。また連絡するわぁ」
徹さんは笑った。
「了解です。では、お疲れ様でした」
「おつかれさん」
そして僕と徹さんは別れた。
家につくと、ぴょんたんはいつもの調子でくるくる回った。僕はぴょんたんの頭を軽く撫でて、大好物の乾燥イチゴをあげた。
「ぴょんたん、ごめんね。ちょっと寝かせて」
ぴょんたんは乾燥イチゴに夢中で、どうぞ勝手にお眠りなさいという感じであった。
僕は三時間程眠った。寝起きに携帯電話を見て、何で瑠璃子からメールが来てないのだろうと思った。瑠璃子は毎朝、おはようのメールを送ってくれていたのだ。
僕の送ったメールへの返事は気まぐれなのに、何故、毎朝メールを送ってくれるのか不思議で一度、瑠璃子に聞いた事があった。すると瑠璃子は「朝起きて、一番に私を思い浮かべてほしいから」とはにかんだ笑顔で答えた。そんな時の瑠璃子は、少女のように無邪気で愛らしかった。
僕はそんな瑠璃子の顔を思い出しながら、昨日別れた事を思い出し、朝から寂しい気持ちになった。僕は新着メール問い合わせをし「新着メールはありません」という文字を確認すると、携帯電話の電源を切った。
携帯電話は僕らの生活を便利にした。しかし、僕らの心を脅かす危険な機械でもある。僕らは、この小さな機械に依存している。携帯電話がなくなったら、僕らはどうなってしまうのだろうか。
僕は窓を開け、ぴょんたんにラビットフードをあげた。そして、シリアルとオレンジジュースで軽い朝食をとった。シリアルもオレンジジュースも、いつもと同じ味だった。瑠璃子がいても、瑠璃子がいなくても、シリアルはシリアルの味がして、オレンジジュースはオレンジジュースの味だった。
寝起きにメールを確認しなくなる頃には、僕は瑠璃子を忘れているのだろうか。瑠璃子はもう僕の事を忘れたのだろうか。僕は瑠璃子の事を考えながら、アトリエに向かった。
「あっヒカリン。おはよ」
小牧ちゃんが明るい声で言った。
画家の卵仲間の小牧ちゃんは、カフェでアルバイトをしている二十三歳の女の子だ。つるっとしたむきたての卵みたいな顔で、ぽっちゃりさん、目はどんぐりのようで、笑った時の笑窪が可愛い。
「小牧ちゃん、今日は早いねぇ。どう、いい感じ?」
僕は小牧ちゃんに負けないくらいの可愛い笑顔を作り、言った。
「えへへ。どうかな〜。それより、ヒカリンは?今度の作品、自信あるって聞いたよ」
小牧ちゃんは言った。
「まぁね。今度こそ、賞とっちゃうよ」
僕は鼻の頭を撫でながら言った。
「えへへ。ヒカリンの絵、瑠璃子さんでしょ。いいなぁ、瑠璃子さん。ヒカリンに描いてもらえて」
「そう瑠璃子なんだけど・・・この前、別れたんだよね」
「えぇぇぇ。どうして?瑠璃子さんと別れちゃったの?」
小牧ちゃんはどんぐりみたいな目を更に大きくして言った。
「うーん。なんだろ。まぁふられたのよ。簡単に言えばさぁ」
「そうなの?でもさ、ヒカリンあんまり悲しくなさそうだけど」
「いや、悲しいよ。悲しくて、家に帰ったら男の一人泣きよ。毎晩酒のみながらエーンエーンって泣いてるわけだよ」
僕は泣真似をしながら言った。
「うーん。ヒカリン。きもい・・・」
小牧ちゃんの鋭い一言が決まった所で、裕也と綾香姫が手を繋いでやってきた。
「ヒカリン、小牧ちゃん、おはよー」
綾香姫が裕也と繋いだ手と反対の手を振りながら言った。
裕也とは美大で知り合い、ずっと一緒に画家を目指して頑張ってきた。裕也はストレートで入学しているので、僕の一つ下、二十八歳だ。今は美術館で働きながら、絵を描いていて、何度か受賞経験もあり、ネットで自分の絵の販売もしている。裕也の才能は、世の中に認められ始めている。
綾香姫は裕也の彼女で、キャバ嬢をしているため、僕と小牧ちゃんは姫と呼んでいる。裕也の場合、半分程割れかけているが、画家の卵の裕也とキャバ嬢の姫という普通に考えたら上手くいかないのではないかという二人だけど、もう付き合って一年半程たつ。姫はネットで裕也の絵を見て、惚れたと言っている。その惚れた絵というのが「洗濯物」というタイトルの絵で、裕也の得意とする何気ない日常をあたたかく柔らかに表現したシリーズだ。
人が人に惚れる瞬間というのは、不思議だ。
そして姫は裕也のホームページで、裕也が美術館で働いている事を知り、押しかけたという訳である。姫はとにかくガンガン突き進むタイプだ。そこからはさすがキャバ嬢。裕也はいつの間にか姫に夢中になり、二人は付き合う事になった。
二人が付き合いたての頃、僕と小牧ちゃんは、裕也がキャバ嬢に騙されていると思っていた。しかし、実際に姫に会ってみると、姫も裕也に夢中のようで、何のことはない、ただの仲良しカップルだった。
「裕也、姫、おはよ」
僕は言った。姫はまた髪型を変えたようである。さすが、姫。
「ヒカリン、おはよー」
姫は大きく手を振りながら、言った。
「おはよ、光」
裕也も姫に続いて言った。裕也は少し疲れた様子だった。
「おはよー。今日はデート?」
小牧ちゃんが聞いた。
「うん。裕也がちょっと寄りたいっていうから。裕也、どうする?」
姫が小牧ちゃんに答えながら、裕也に聞いた。
「ちょっとだけ、いいかな?」
裕也は言った。
「ちょっとって、どのくらい?」
姫が、目をパチパチしながら言った。本人は仕事以外では意識していないというが、自分を可愛くて、かよわい小動物のように見せる仕草がすっかり身についている。キャバ嬢の鏡といえよう。
「んー。一時間くらいかな?」
裕也は言った。
「OK。じゃ、買い物でもしてくるねぇー」
姫はそう言いながら、皆に手を振り、アトリエを後にした。
「裕也、いいの姫ちゃん一人にしちゃって?」
小牧ちゃんは言った。
「うん」
裕也はそう言うと自分の作品の方へ向かっていった。
小牧ちゃんは裕也の後姿を目でずっと追っていた。
裕也が姫と付き合う前、小牧ちゃんに裕也の事が好きだと告白された事がある。
僕と小牧ちゃんはその日、夜遅くまでアトリエに残り、絵を描いていた。小牧ちゃんが「お腹すいたぁ。何か食べにいこぉ」と僕を誘った。そしてお酒が入り、りんごほっぺになった小牧ちゃんが言った。「私、好きなの」一瞬、僕の事が好きなのかと思った。しかし、その後に続いたのは「裕也の事が」という言葉だった。小牧ちゃんは裕也の魅力を熱く語り、最後に「協力してね」と言った。僕は「協力するよ」と言ってみたものの、結局何もしなかった。
小牧ちゃんには、ずっと彼氏がいないが、まだ裕也の事が好きなのだろうか。僕にはそれを聞く勇気がない。勇気がないというよりも、もし小牧ちゃんがまだ裕也の事を好きだと言ったって、何もできないからだ。
今、この小さなアトリエは僕と裕也と小牧ちゃんの三人でお金を出しあって借りているのだ。まぁ、アトリエといっても古びたビルの一室なのだが・・・。
小牧ちゃんとはデッサン教室で出会った。僕と裕也の中に小牧ちゃんが入ってきて、三人は仲良くなった。平和が一番。
「姫ちゃん、いいのかな?」
小牧ちゃんが僕に向かって、聞いた。
「まぁ、いんじゃないの?買い物するって言ってたし」
僕は適当に答えた。
「うん」
小牧ちゃんは小さく頷いた。そして僕らは、各々の作業にとりかかった。
僕の前には、僕が描いた瑠璃子がいる。
僕の一番好きな瑠璃子。僕が理想の女性だと思っていた頃の瑠璃子。瑠璃子はどうして変わってしまったのだろうか。
瑠璃子は親友の真美さんが結婚した頃から、変わり始めた。何かにつけて、僕との将来の話をするようになった。何気ない会話が、何故か将来の話へと結びつくようになっていた。他にも、一緒にテレビを見ていて、結婚情報誌や、式場などのコマーシャルが流れると、どことなく気まずい雰囲気になるようになっていたし、一緒に電車でどこかへ出かけた際、瑠璃子は転職フェアの車内広告を食い入るように見つめていた。そんな事が多くなっていた。僕の夢を応援すると言いつつも、心の奥では、僕に男として家族を養っていく力、即ち、安定した職につくよう求めていたのだろう。
僕は瑠璃子の気持ちに応える事は出来なかった。出来なかったというよりも、応えようとしなかった。そして、僕との将来に見切りをつけて、瑠璃子は僕の元を去った。
「それ、瑠璃子さんだよね?」
裕也が僕の元にやってきて言った。
「うん」
僕は瑠璃子から目を離し、頷いた。
「ちょっと煙草吸いにいかない?」
裕也が言った。
僕と裕也は、ビルの屋上へ向かった。小牧ちゃんは僕らの事を気にしつつ、絵に集中してて気がついてないというようなふりをしていた。
「どう、最近?」
自分から誘ったくせに、裕也が黙っているから、とりあえず、僕は聞いた。見上げると、雲のない抜けるような青空が広がっていた。大きな鳥が気持ち良さそうに悠々と空を駆け巡っていた。
「瑠璃子さんと別れたでしょ」
裕也は僕の言葉を無視して言った。
「何で知ってんの?」
僕は驚きを隠し、平静を装って、聞いた。
「瑠璃子さんから相談されてた」
裕也は空を眺めながら、当たり前のように言った。
「何を?」
僕はそんな裕也の姿に、小さな怒りを感じながら聞いた。
「光とのこと」
裕也は僕を見ることなく答えた。
「俺とのこと?」
僕は裕也を見て聞いた。
「うん」
裕也は僕を見て小さく頷いた。
「それで?」
僕は聞いた。
「別れた方がいいと思うって言った」
裕也は視線を空に戻し言った。
「・・・そっか」
僕は小さな溜息をついた。
「うん。怒んないの?」
裕也は僕を見て聞いた。
「怒った方がいい?」
僕は裕也を見て聞いた。
「いや、怒るかなって思ったから」
「裕也がそう言わなくても、終わってたと思う」
僕は言った。
「そっか」
裕也は小さく頷きながら言った。
「うん」
「理由は聞かないの?」
裕也は、僕を見て聞いた。
「理由?別れた方がいいって思う理由?」
僕は聞いた。
「うん」
「いいや、もう終わった事だし」
僕は空に向かって言った。
「そっか」
「うん。いいよ。もう終わった事だし」
僕は、もう一度、空に向かって言った。
何で、こんなにも青い空なのだろう。大きな鳥はいつの間にか、どこかに消えていた。まるで僕らが屋上で話をするために、用意されたような青い空だった。
「今度さ、個展やらない?」
裕也は急に話を変え、僕に聞いた。
「個展?」
僕は突然の話に驚き、聞いた。
「うん。僕の作品を見てくれた人から、個展の話が来た」
裕也は言った。
「そうなんだ。でもさ、それって裕也に来た話じゃ?」
「いや、そうだけど。僕の作品だけじゃ無理だよ」
僕は裕也に苛立ちを感じた。
だけど、ここで裕也に苛立ちをぶつける程、僕は子供じゃないし、そんな自分が惨めになるような真似はしたくなかった。
「いつ?」
僕は聞いた。
「来月」
裕也はすぐに答えた。
「来月?」
「実はもう話は通してある」
裕也は僕を見て言った。
「通す?」
僕は聞いた。
「うん。光も参加するって言った」
裕也は笑顔で言った。
「・・・そっか」
「うん。いいチャンスだと思う」
「うん」
僕は小さく頷いた。
そして煙草の煙を空に向かって口から出した。煙草の煙がゆらゆらと揺れ、僕は大気の流れを感じた。
「僕らも、そろそろ芽を出さないと、芽も出せないまま終わっていくよ」
裕也は空を見ながら、呟くように言った。
「うん」
「今度の光の作品、いいね。光の良さが出てる」
「あ、瑠璃子の?」
「うん」
「ありがと。ところでさ、裕也は何で、日常のひとこまみたいな。そういう絵を描くようになったの?」
僕は聞いた。
「これからの時代には、僕の絵みたいなのが必要とされていると思ったから」
裕也は無表情な顔で言った。声にも感情は篭っていなかった。
「そっか」
「うん」
「ありがとね。個展の話。じゃ、俺いくわ」
僕は裕也を置いて、アトリエへ戻った。
アトリエでは小牧ちゃんが自分の絵とにらめっこをしていた。
僕の頭の中では、裕也の「芽も出せないまま終わっていくよ」という言葉が何度も繰り替えされていた。
「あ、ヒカリン。おかえりぃ」
小牧ちゃんが言った。
「ただいま。調子はどう?小牧ちゃん」
「うん。まぁまぁかな」
「そっかそっか。よしっ俺も頑張ろっと」
裕也がアトリエに戻ってきて、僕と小牧ちゃんに向かって言った。
「僕、そろそろ綾香のとこ、行くわ」
「うん。姫ちゃん、きっと寂しがってるよぉ」
小牧ちゃんは言った。
「おつかれ。頑張ってね」
裕也は言った。
「おつかれぇ。バイバイィ」
小牧ちゃんは言った。
僕は裕也に向かって、小さく手をあげた。
今日、裕也は作業をしたかったのではなく、僕に話をしにきたのだろう。僕が気づかないうちに、裕也は変わっていた。僕らはもう、ただ夢に向かって進む時期は終わったのだろうか。裕也の無表情なあの瞳の奥では、何が見えているのだろうか。
「裕也と何を話してたの?」
小牧ちゃんは聞いた。
「瑠璃子のこと」
僕はそっけなく答えた。
「そっか。裕也、何か言ってた?」
「いや、そうなんだって感じだったよ」
僕は、瑠璃子が裕也に相談していた事や、個展の話はわざと話さなかった。僕は、裕也が小牧ちゃんを出展者として個展に誘うことはないとわかっていた。
「そうなんだ」
小牧ちゃんは言った。
僕と裕也は小牧ちゃんと壁を作っている。
その壁は僕らなりの小牧ちゃんへ対する優しさで出来た壁なのだが、小牧ちゃんにしたら、ただの嫌な壁だと思う。 小牧ちゃんは、美術系の専門学校を卒業した後、アルバイトをしながら絵を描いている。まだ卵の僕が言うのも失礼だが、小牧ちゃんの絵はどうしよもない。要は小牧ちゃんには絵のセンスがないのだと思う。しかし、僕らは小牧ちゃんに言わない。だけど心の中ではそう思っている。僕も裕也も残酷だ。
「小牧ちゃん、日曜の夜、空いてる?」
僕は徹さんのライブに小牧ちゃんを誘う事にした。
「日曜日?空いてるよ。何かあるの?」
「うん。ちょっと知り合いのライブに誘われててさ。良かったら一緒に行かない?」
「行くぅ!」
小牧ちゃんは、小さなつやつたした唇をアヒルのように突き出して、僕に笑いかけながら言った。
「ほんと?よかった。ロックな感じだと思うけど大丈夫?」
「うん。私、ロックも好きだよ」
小牧ちゃんは笑顔で言った。
「そっか。よかった」
「ヒカリン、ロック聴くっけ?」
「昔は聴いてたけど、最近はあんまりかな」
「なんか、ヒカリン、ロックのイメージないもん」
小牧ちゃんは言った。
「そう?」
「うん。なんか落ち着いた洋楽って感じ」
「あはは。なんだそれ。ま、いいや。じゃ、また時間とか連絡するからさ」
「うん。楽しみだな」
そう言うと、小牧ちゃんは、ピンクや赤、黄色、オレンジなど色とりどりのキラキラした石のついた手帳を開け、日曜日の欄に【ヒカリンとデート】と書き込んだ。
デートという文字が気になった僕は手帳を眺めている小牧ちゃんのどんぐりのような目を少し長い間、見ていた。
次の日、早速、裕也から個展についての連絡があった。
裕也の作品がメインで、僕の作品は片隅に置いてもらえるという事だった。僕を仲間に入れてくれたのは、裕也なりの優しさなのだと思う。僕と裕也は、共に画家を目指して頑張ってきた。お互いにお互いの才能を認め合っていて、いいライバルとしてやってきた。
美大生の頃、毎日のように、僕らは夢を語り合いながら、安い酒を飲んだ。語り合った夢は、今考えると、笑ってしまうような無茶苦茶な夢だけど、その頃の僕らは希望に満ち溢れていた。僕らは出たりひっこんだり、どんぐりの背比べのような感じだった。そんな僕らだったが、いつの間にか僕と裕也の間に差が出来始めた。
裕也がコンクールで始めて、賞をとったとき、僕は喜ぶ事が出来なかった。裕也は「今回は僕の方が、運が良かっただけだよ」と言ったが、その後も裕也は何度か賞をとっているが、僕は落選続きだ。
僕はコンクールなどで絵を順位づけする事はおかしいと思う。そもそも人が人の作品を評価するなんて間違っている。だけど、僕らが夢を掴むためには大きなコンクールで受賞して、自分に箔をつける必要がある。それに、僕は人に素晴らしいという評価を貰えば素直に嬉しい。つまり、僕は、いじけているのだろう。何度コンクールに出しても僕の作品は落選してかえってくるのだから。
僕は裕也の働いている美術館へと向かった。
個展の打ち合わせをしたいと裕也から呼び出されたのだった。
裕也は暇そうに美術館の横の画集やポストカードなどを販売している売店に座っていた。
「ごめん、呼び出して」
裕也は言った。
「いいよ。いいの仕事中に?」
僕は一応、聞いた。
「いいよ。この通りだから」
売店に客は一人もいなかった。売店だけでなく美術館自体に客が一人もいなかった。
僕はこれじゃ閑古鳥も寄りつかないなと思った。寂しい場所で鳴くのを仕事にしてる閑古鳥だって、ここじゃ寂しすぎるだろう。
「あ、うん。いつもこんな感じ?」
僕は聞いた。
「うん。一日に五人来ればいい方かな」
裕也は当たり前のように言った。
「よく潰れないな」
「芸術を愛する人はお金を持っている」
裕也は悟ったように、言った。
「なんだ、それ?」
僕は聞いた。
「いや、寄付とか、そういうので成り立ってるんじゃないかなってこと」
「なるほどね」
僕は頷いた。
「あ、それで個展の話なんだけどさ」
「うん」
「光、何出す?」
「いや、まだ個展の話、昨日聞いたばっかだし」
僕はそう言いながらも、実は個展に出す作品を決めていた。
「そっか」
裕也はもったいぶるなと言いたげな顔で言った。
「いや、まぁだいたい決めてるけど」
僕は言った。
「だと思ったよ」
裕也は笑顔で言った。
「俺は人物画しかないよ」
「人物画っていうのはわかってるけど・・・」
「そっか」
「うん。どの作品?」
「裕也は?」
僕はどの作品を出すか答える事なく、裕也に聞いた。
「あぁ、あのシリーズでいくよ」
裕也は個展ではない何か他の事を考えている様子だった。
「そっか」
「うん」
「でさ、話って何?個展の話、する気ないでしょ。裕也」
僕は聞いた。
「・・・」
裕也は何も答えなかった。
「で、何?」
僕はもう一度、聞いた。
「あのさ、僕、綾香と別れようと思ってる」
裕也は、少し困ったような顔をして言った。
「え、また、なんで?」
僕は驚いた。
「いや、やっぱいいや」
「何だよ。それ」
僕はきつく言った。
「うん。ごめん」
裕也は下を向き、小さな声で謝った。
「で、なんで?」
「いや、僕の事さ、気にいってくれた人がいて。結婚を前提に付き合ってほしいって言われている」
裕也の顔はさらに困った表情になった。
「うん。それって、気がかわったってこと?」
僕は聞いた。
「いや、結局さ、僕は自分が可愛いんだよ。その人と付き合って、結婚したら、僕は一生、絵を描き続けることができると思う」
裕也は無表情な顔で、淡々と言った。
「一生、絵を描き続けることができる?」
「彼女の父親が絵画を扱う美術商なんだ」
「・・・そっか」
僕は言った。
「軽蔑する?」
裕也は僕の目をしっかりと見つめて言った。裕也は僕の目の一番奥を見ようとした。
「いや・・・」
僕はそれ以上、ふさわしい言葉を見つけることができなかった。そして僕を見つめる裕也の目を、僕は見ることができなかった。
「個展の話も実は彼女からもらった話だよ」
裕也は言った。
「うん。それはもう気づいてるよ」
僕は静かに言った。
「そっか」
裕也も静かに答えた。
「うん」
「僕は絵を描く事しかできないんだ」
裕也は言った。
静かな冷たい空気が僕と裕也を包んだ。
僕らはずっと黙っていた。僕は裕也と昔、語り合った無茶苦茶な夢の話を思い出していた。
「とりあえず個展、頑張ろうよ」
僕は沈黙を破り、明るく言った。
「うん、ありがと。光」
裕也は無理矢理に笑顔を作り、言った。
「いや・・・」
僕はやっぱり、それ以上、ふさわしい言葉を見つけることができなかった。そして、ふと僕は、裕也が瑠璃子に別れた方がいいといった理由は何だったのだろうと思った。だけど、僕はその理由を聞かなかった。
「じゃ、俺行くわ。バイトあるし」
僕は言った。
「うん、ほんとにありがと」
裕也は言った。笑顔だったけれど、目が笑っていない不気味な笑顔だった。
「光ちゃん、これちょっと運ぶの手伝ってもらってもいいかな?」
店長が、鼻にかかった声で僕に言った。
「はい、大丈夫ですか。店長」
僕は言った。
「大丈夫。一緒に運んでもらってもいいかしら」
「はーい。僕一人でも大丈夫ですよ。持って行きましょうか」
「いいの。置く場所とかちゃんと確認したいし、一緒に行くわぁ」
店長は何かと僕と共同作業をやりたがる。職権乱用だ。ただ僕も、店長のお気に入りでいると、何かと便利な事が多いので、つかず離れずの微妙な位置をキープし続けている。
店長は太めでパグのような顔をしている。僕は犬のパグはあの不細工さが可愛くて好きだが、人間のパグは趣味じゃない。
「光ちゃん、今日の夜、空いてたりするぅ?」
店長は二人になったところで、少し甘えた声で聞いた。
「いや、ごめんなさい。今日の夜は、バーテンのバイトがあるんですよ。ほんと、すいません」
僕は残念そうな演技を混ぜて言った。
「そっかぁ・・・」
店長も残念そうに言った。こっちは演技ではない。
「はい。すいません」
僕は眉の筋肉を意識して、残念そうな顔を作った。とどめをさしたつもりだった。
「ねぇ、光ちゃんがバイトしてるバーって、あの駅の本屋さんの地下のとこぉ?」
店長に、とどめはささっていなかったようで、いいこと思いついたというような顔をして店長は言った。
「はい、そうですよ」
僕はもう降参するしかなかった。
「ねぇねぇ、今日行ってもいい?」
今度は店長が僕にとどめをさした。
「あ、はい」
僕には断る理由がなかった。本当はもちろん断りたかったのだが。僕は店長にとどめをさされた。
「わぁ、嬉しい。光ちゃんがバーテンやってる姿、ずっと見たかったんだぁ」
「いや、そんないいもんじゃないですよ」
「嬉しいな。お洒落していこっと」
店長は乙女モードに突入していた。僕はそれから延々と店長に付きまとわれ、ほとんどの仕事は共同作業だった。これじゃ、逆セクハラだ。
「光クン、前田さんにだいぶ気に入られてるねぇ」
バイト仲間の佐藤さんが言った。
「いや、どうなんですかねぇ。まぁ・・・」
「頑張れ」
佐藤さんはニヤニヤしながら僕の背中を叩いた。佐藤さんは完全にこの状況を楽しんでいる。
この日、店に子犬が二匹やってきた。一匹目は、栗色のミニチュアダックスフンド。こぼれおちそうなウルウルした黒い目で僕を見た。僕の心はキューンとなる。二匹目は真っ白なロングコートチワワ。チワワ君もダックス君に負けじと、ウルウルした黒い目で僕を見た。僕の心はキュンキュンキュンッとなる。
僕は、ペットショップで働き始めたばかりの頃、犬にも流行があると知り驚いた。ダックスフントもチワワも今を時めく大人気アイドル犬だ。
それにしても人間っていう生き物は勝手な生き物だ。自分達で勝手にたくさんの犬の品種を作り上げて、更にその中から流行犬を決め、流行だからってたくさん同じ品種の犬を世に送り出し、そして飽きたらまた他の品種の犬を流行犬とし、たくさん世に送り出す。
僕が犬だったら、いい加減にしろよと思い、人間を避けるだろうだけど本物の犬達は、だいたいが人間と仲良しだ。ちなみに僕も犬と仲良しな訳で・・・。
僕はこの矛盾だらけな世の中、そして矛盾だらけな自分と適当に折り合いをつけてやっている訳である。
「ねぇ、光ちゃーん」
店長が僕を呼んだ。まるで彼女が彼氏を呼ぶような感じだった。
「呼ばれてるよ」
佐藤さんは、面白くて仕方ない様子で僕に言った。
「聞こえてますって」
僕は佐藤さんに言った。
僕は小走りで店長の元へ向かった。
「何でしょうか。店長」
僕は言った。
「あぁー光ちゃん。ごめんね。今度ね、このワンちゃん用のおねんね枕、注文しようと思うんだけど。売れるかしら?ねぇ、どう思う?」
「あ、おねんね枕ですか」
僕の中で危険信号が鳴っていた。
【コレイジョウ、テンチョウトカカワルナ】
「うん。ねぇねぇ、どう思う?」
「そうですね。ペット用のヒーリンググッズも売れているみたいですし、ペットの快眠コーナーなんて作って置けば、売れるんじゃないでしょうか」
僕はビジネスライクにいくことにした。
「それ、いいわね。やっぱりワンちゃんにも質のよい眠りが必要よねぇ。さすが、光ちゃん」
「あ、いえ」
「さっそく、今度、快眠コーナー作ろっと。光ちゃんも作るの手伝ってねぇ。なんせ、光ちゃんのアイデアなんだからぁ」
「あ、はい・・・」
僕は自ら地雷を踏んだようであった。それからもずっと店長はこんな調子で僕はたじたじだった。佐藤さんはずっとニヤニヤしていた。
「おはようございまーす」
僕は徹さんに言った。
「あ、光、おはよーさん」
「徹さん、今日、バイト先の店長が来るんですよ」
「そうなん?よかったやん」
徹さんはのん気に煙草を吸いながら、ジントニックを飲んでいた。
「いや、それがですね。まぁ来たらわかると思いますけど」
僕は言った。
「何?もしかして、光の新しい彼女かいな?」
徹さんはニヤニヤした顔で言った。
「いやいやいや、それは絶対違うんですけどね」
僕は超高速スピードで首をふった。
「よぉわからんけど、俺はどうしたらええねん」
「いや、どうもないんですけど」
「まぁ、ええわ。光が困ってたら、助けたるから」
徹さんは、僕の気持ちをわかってくれたようだった。
「ありがとうございます」
僕はペコッと頭を下げると、店の掃除にとりかかった。徹さんは相変わらず、渋くてカッコイイ感じで、グラスをピカピカに拭いていた。
「光ちゃーん」
店長の甘い声がした。胸元が大きく開いた赤いワンピースを着ていた。勝負服なのだろうけど、昭和の香りが漂っている。それにワンピースの上に乗っかってる顔がパグだし。
「お疲れ様です」
僕は、僕らはただの仕事仲間ですよねという意味を込めて言った。
「おつかれさまぁ。やっぱり光ちゃん、カッコイィ」
店長ははしゃいでいた。
「いらっしゃいませ。何、飲まれますか?」
徹さんが助け舟を出してくれた。さすが、徹さんだ。僕の事をわかってくれている。
「あら、こんばんはぁ。そうねぇ、ねぇ光ちゃん、何がオススメなのぉ?光ちゃんのスペシャルカクテル作ってよぉ」
徹さんの出した舟は沈没した。
「あ、じゃあどういう感じがいいですか?さっぱりとか甘めとか?」
僕は仕方なく言った。
「うーん。甘いのがいいかなぁ」
店長は甘い声で甘いカクテルをオーダーした。
僕はもうとびきり甘いカクテルを作った。半ばやけくそで、気持ち悪くなりそうなくらい甘くした。横で僕を見ていた徹さんはつとめて普通の顔をしていたが目が大爆笑していた。
「どうぞ、とびっきりスウィートなカクテルです」
僕は言った。
「わぁ、素敵。ねぇ、これ何ていう名前なのぉ?」
店長は目を輝かせながら、聞いた。
「パッグレッドです」
僕は言った。徹さんはもう顔が歪みかけていた。
「パッグレッド。今日の私にぴったりねぇ」
店長はうっとりとした顔で言った。
「はい、店長にぴったりです」
もう僕と店長のやりとりは、コントだった。徹さんは大うけしていた。結局、店長はその後、三杯も甘い甘いカクテルを飲んで、帰っていった。
「もう、光、おもろすぎるわぁ」
仕事終わりに徹さんが言った。
「いや、もう、勘弁してくださいよ」
僕は笑いながら言った。
「パッグレッドってなんやねん。あれ」
徹さんは爆笑の渦に巻き込まれていた。
僕はあの時、徹さんがパッグレッドの意味をわかってうけていたのかと思ったが、ただ僕らのやりとりにうけていたようだった。
「店長、パグみたいな顔してるじゃないですか。で服が赤だから。ま、後は適当にパグをパッグにしてみただけですよ」
徹さんはもう大爆笑で、涙を流して笑っていた。僕もなんかおかしくて一緒になって笑った。
健二から話したい事があると電話があり、いつもの店で待ち合わせした。いつも通り、僕はミックスジュースを頼み、健二はコーヒーを頼んだ。健二のお気に入りのウェイトレスは休みなのかいなかった。
「で、何、話って?」
僕は聞いた。
「俺、さやかと結婚するわ」
健二は真面目な顔で言った。
「えぇーっっ」
僕は驚いて大きな声で言った。
健二は結婚を考えてるとは言っていたけれど、まさかこんなに早く、健二の口からその言葉を聞くことになるとは思っていなかった。
ウルトラマンごっこをした時、どっちがウルトラマンになるか本気で喧嘩した(結局、僕がスーパーウルトラマン、健二がスペシャルウルトラマンという事で僕らは和解した)探検といって二人で知らない街に出かけ、迷子になり帰れなくなってしまい、一緒に警察に保護された(両方の親から一緒にこっぴどく怒られた)バレンタインチョコが僕より少なかった事に凹んで、髪の毛を染めてピアスを開けた(髪の毛はシマウマみたいにまだらに染まってしまって、ピアスの穴は金属負けしたためすぐ閉じた)一生の頼みだと言って僕に浮気の偽装工作をさせた(これはうまくいった。僕のお手柄)・・・そんな健二が結婚・・・。
「お前、声でかいって」
健二は冷静に言った。
「あ、ごめん。びっくりさせんなよ」
僕は我に返り言った。
「いや、びっくりさせるとかじゃなくて、本当の事だし」
健二は落ち着いていた。
「うん。健二、おめでとう」
僕は言った。
「ありがと」
健二は笑顔で言った。
「でも、急になんで?」
僕は聞いた。
「さやかにさ、子供できた」
健二は照れながら言った。
「えぇーっっ」
僕はもう一度、驚いて大きな声を出してしまった。
「だから、お前声でかいって」
健二か顔を顰めた。
「あ、ごめん。でもさ、びっくりするでしょ。話が急展開すぎるし」
「いや、俺も最初さ、さやかから、子供出来たって聞いた時、目ん玉が飛び出るかと思ったよ」
健二は言った。
「うん」
僕は頷いた。
「でも、まぁ俺ももう二十九だし。そろそろ結婚してもいいなって思ってたし。なんてったって、さやかに俺の子供が出来た訳だし」
「うん。まぁね。授かってるしね」
僕は言った。
「俺、来年にはパパだから。パパだよ、パパ」
「パパかぁ。健二パパ」
僕は目をパチパチさせて健二を見た。
「気持ちわりぃ。お前のパパじゃないし」
健二は笑いながら言った。
「あ、うんうん。ごめんごめん」
「で、さやかの腹がめだたない内に、なるべく早く、結婚式やるから、絶対こいよ」
健二は言った。
「うん。もちろん行くよ」
「はぁー。俺もパパかぁ」
健二は煙草の煙を口から大きく吐き出しながら言った。
僕は健二がパパなんて想像できなかった。スペシャルウルトラマンの健二がパパになるなんて・・・。
「俺、健二がパパって全然、想像できない」
僕は正直に言った。
「お前・・・まぁ、俺も自分がパパって想像できないけど」
「でも、あれだね。真面目に生きなきゃね」
「なんだよ、お前」
「もう健二の浮気の偽装工作、手伝わないからな」
僕は言った。
「お前・・・。まぁそう言わずピンチが訪れたら、よろしくお願いしますよ」
健二はペコッと頭を下げた。
「まぁ、考えとく」
僕は頷いた。
「それにしても、ほんとにお前の言う通り、俺、真面目に頑張んなきゃなぁ」
「うん。さやかちゃんと赤ちゃんいるもんね」
「うん」
健二の結婚の話を聞いて、僕は今更ながら、瑠璃子の気持ちを少し理解する事が出来た。
健二の結婚の話は僕の心の奥の方まで響いた。それに、響くだけじゃなくて、僕の心が変わっていくきっかけになるような気がした。
瑠璃子の心も真美さんの結婚によって変わり始めたのだろう。
その後、僕と健二は普段通り、くだらない話で盛り上がった。
だけど、僕の目には、健二はいつもより少し大人に映ったし、少しだけ遠い存在になってしまった気がした。
店を後にした僕は、その足でアトリエに向かった。裕也も小牧ちゃんもおらず、アトリエはガランとしていた。
僕は裕也の絵の前に立った。
今度の裕也の作品は「キッチン」だ。キッチンといっても、今時のシステムキッチンなんかとはかけ離れた、使い込まれた、お世辞にも綺麗とは言えない、台所の絵だった。 だけど、ここからは、きっとあったかくてほっとする甘辛い煮物なんかが出来るのだろうと思わせるような台所の絵だった。僕は裕也の言葉を思い出した。
「これからの時代には、僕の絵みたいなのが必要とされている」
そして、美術館で僕を見つめて言った「軽蔑する?」という言葉。
裕也は姫と別れて、美術商の娘を選ぶのだろうか。裕也がその決断を下したら、僕は裕也を軽蔑するのだろうか。
僕は僕の絵の前に立った。そこには美しい瑠璃子がいた。僕は僕の絵の中の瑠璃子に見とれていた。
「あ、ヒカリン。いたんだ」
小牧ちゃんがアトリエにやってきた。
「小牧ちゃん。おつかれ」
僕は、瑠璃子から急いで目をそらし、答えた。
「おつかれ。ヒカリン。絵、描いてたの?」
小牧ちゃんは聞いた。
「いや、描こうと思って来たけど、今日は描かないで帰る」
僕は言った。
「そうなの?じゃ、もう帰っちゃうの?」
小牧ちゃんが、寂しそうな表情で言った。
「うん。その予定だけど」
「寂しいから、もうちょっとだけいてよ。ヒカリン」
僕は小牧ちゃんが手帳に書いた文字を思い浮かべた。
「うん。じゃ、ちょっとだけ」
「ありがとぉ。ヒカリン」
小牧ちゃんは嬉しそうに言った。
「小牧ちゃんは絵を描きに来たの?」
僕は聞いた。
「うーん。なんか寂しくて」
小牧ちゃんは甘えたような声で言った。
「そっか。そういう時もあるよね」
「ヒカリンは寂しくなったりするの?」
小牧ちゃんは更に甘えた声で聞いた。
「どうだろ。寂しいってどんな感じ?」
「うーん。心がシュンってなってて、ギュッて抱きしめてもらいたいって思う感じ」
小牧ちゃんはそのどんぐりみたいな大きな目で僕を見つめて言った。
「うーん。俺はどうなんだろう」
僕はそう言いながら、自然を装って、小牧ちゃんから少し離れた。
「ヒカリンは強いもんね」
小牧ちゃんは言った。
小牧ちゃんのどんぐり目に涙がたまっていて、キラキラ光っていた。
「いや、そんな事ないよ」
僕は気がついていないふりをした。
「強いよ。ヒカリンは・・・」
小牧ちゃんのどんぐり目から、涙がポタッと床に落ちた。
「小牧ちゃん、何かあったの?」
僕は言った。もう気がつかないふりはできなかった。
「ヒカリン・・・」
小牧ちゃんは、そう言うと、僕に抱きついてきた。小牧ちゃんの体は柔らかくって、温かかった。小牧ちゃんは、桃とかさくらんぼとか苺とか・・・ピンクや赤い色のフルーツの香りがしそうなイメージだったが、実際には、一人でバーにお酒を飲みに来る色っぽいお姉さんのような香りがした。
僕は小牧ちゃんを抱きしめてあげれば良かったのかもしれないが、僕の手はだらしなく横にぶらさがったままだった。僕は拒む事も受け入れることもしなかった。
あのパッグレッド事件以来(僕と徹さんはあの日の出来事をパッグレッド事件と呼んでいる)店長は、僕を彼氏扱いするようになった。
佐藤さんは相変わらず、その様子を見てニヤニヤしている。
「光ちゃぁん。この前のね。ワンちゃんのおねんね枕、届いたのよぉ。見て見てぇ」
店長は枕をギュッと抱きしめながら言った。
「ほんとですね」
僕は失礼にならない程度の中で出来る限り冷たく言った。
「ねぇねぇ、ふわふわなのぉ。ギュッてしたくなっちゃうぅ」
店長はもう一度、枕をギュッと抱きしめながら言った。
「僕、ちょっとトイレ掃除行ってきますね」
僕はトイレに逃げ込む作戦に出た。
もうあの小さな個室が恋しくてたまらない。トイレ掃除は好きじゃないけど、今日はもう丁寧に隅から隅までピカピカに磨き上げたい。
「待って、光ちゃん。ちょっとぉ、佐藤ちゃん、トイレ掃除お願いしてもいいかしら」
店長が僕から愛しのトイレ掃除を取り上げた。
「はぁい。わかりました。行ってきまーす」
佐藤さんは、嬉しそうにトイレ掃除に向かった。佐藤さんの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「光ちゃんには、ワンちゃんの快眠コーナー一緒に作ってもらわないといけないからねっ」
店長は笑顔で言った。僕には店長がパグからブルドッグに進化を遂げているように見えた。
「あ、はい。手伝います」
僕は言った。ブルドッグには降参・・・。
「ねぇねぇ、こっちのブルーのおねんね枕と、オレンジのおねんね枕ってどっちが人気あると思うぅ?ディスプレイさせようと思うんだけど、どっちがいいと思うぅ?」
「そうですね。ブルーがいんじゃないですか」
僕が犬だったら、おねんね枕はブルーでもオレンジでもどっちでもいいが、僕の今の気持ちは限りなくブルーなので、ブルーを選択した。
「そう?ブルーがいいかしらぁ。うん。光ちゃんがブルーっていうならブルーにしよっとぉ」
店長はブルーよりオレンジの気分だったようだが、ブルーの枕と抱きしめ、店のディスプレイスペースへと向かっていった。
「光ちゃんも来て来てぇ」
「はい」
「ねぇ、ここ高くて届かないから、光ちゃん、お願いぃ」
「はい」
「あぁ、もうちょっとぉ、右かなぁ」
「はい」
「うんうん。あっいい感じぃ。あ、でもぉ、もうちょっとだけ左ぃ」
「はい」
「わぁ、さすが光ちゃん。ディスプレイのセンスあるぅ」
「いえ」
「じゃ、次は快眠コーナーを一緒に作ろぉ」
「はい」
こんな僕と店長のやり取りを見るのが、楽しくて仕方ない様子の佐藤さんは、用事もないくせに僕らの近くまで来て、棚の整理をするふりをしたりしていた。
この日、僕は、今まで好きだったパグが嫌いになった。ちなみにブルドッグは元々、あまり僕の趣味ではなかった。
日曜日の朝、僕はぴょんたんが自分の顔より大きなキャベツの葉をモリモリ食べる姿を眺めながら、コーヒーを飲んでいた。
ぴょんたんのモグモグ動き続ける口を見ながら、キャベツって栄養あるのかなぁと思った。そういえば青虫もキャベツを食べて紋白蝶になるんだったっけな。やっぱりキャベツには栄養があるのかもしれないな。僕は、そんな事を考えながら、平和な日曜日の朝を過ごしていた。
そんなゆったりとした時間の流れを、携帯電話の電子音が止めた。
急かすように鳴り続ける携帯電話のディスプレイには【瑠璃子】と表示されていた。
僕はその表示を見て、驚いた。特に根拠はないが、瑠璃子から、連絡が来ることはないと思っていたからだ。だから、僕はあの日で瑠璃子とは永遠にさよならなんだと思っていた。
「久しぶり。元気にしてる?」
無理矢理に元気を装ったような瑠璃子の声がした。
「うん。久しぶり。俺は元気にやってるよ。瑠璃子はどう?」
僕も驚きを隠し、平然を装った。
「うん、私は元気だよ」
「そっか。それは何より」
「ごめんね。今、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「私、光に謝りたくて・・・」
瑠璃子の声がかすかに震えていた。
「ん?何で?」
「光の事、最後まで応援してあげることできなかったから」
「いや、いいよ。俺の勝手でやってるんだし。俺こそ、ごめん」
「でも、私は周りが何と言っても、光の事、ずっと応援し続けようって思ってたの」
僕はこの電話の真意がわからなかった。何故、瑠璃子は今日、僕に電話をかけてきたのだろうか。
「うん」
よくわからないまま僕は答えた。
「だけど、できなかった。ごめんなさい」
瑠璃子の声の震えが大きくなっていた。
「だからさ、いいよ。瑠璃子の気持ちわかるよ」
僕は精一杯の優しい声で言った。
「私の気持ち?」
瑠璃子は驚いているような様子だった。
「うん。健二がさ、結婚することになったんだ」
「健二くん?えっと、さやかちゃんだっけ?」
「うん。子供ができたんだ」
「え、そうなの?」
「うん。だから結婚するって。健二がパパなんてびっくりなんだけどね」
僕は健二がパパになる姿を思い浮かべた。
「うん。でもおめでたいね。健二くんに会ったらおめでとうって伝えておいてね」
「うん。そう、それでさ、なんか瑠璃子の気持ちわかったんだ」
僕は言った。
「真美が結婚した時の?ってこと?」
「うん。あの時はわかってあげられなくてごめんね」
「いや、いいの。私こそ、勝手でごめんなさい」
「謝るなってぇ」
僕は明るく言った。
しばらくの沈黙の後、瑠璃子は小さな声でぽつんと言った。
「・・・私ね、お見合いする事にしたの」
「・・・」
僕は何も言えなかった。
「お父さんの知り合いの人で、とってもいい人そうなの」
「・・・うん」
「今日なの。お見合い」
「・・・そっか」
「・・・」
「・・・」
長い沈黙の後、瑠璃子は涙声で言った。
「ねぇ・・・光、行くなって言ってよ」
「・・・」
「行くなって言ってよ。私の事、止めてよ」
瑠璃子は涙声で続けた。
「そんな事、言えないよ」
僕は小さな声で呟くように言った。
「・・・」
「・・・」
再び、長い沈黙の後、瑠璃子は小さなかすれて消えてしまうような声で言った。
「ごめん。光」
「お見合い相手、いい人だといいね」
僕は精一杯の明るい声で言った。
「・・・」
瑠璃子は黙っていた。
「気をつけて」
僕は言った。
「うん。ありがと」
「じゃ、瑠璃子。またね」
僕は【またね】なんてない事はわかっていた。だけど、【またね】と言った。
「うん。またね」
瑠璃子も【またね】と言った。瑠璃子だって、もう【またね】なんてない事はわかっているはずだった。
僕は携帯電話を机の上に置いた。ぴょんたんはキャベツを既に食べ終わっていて、もう少し食べたいのですけどというような顔をしていた。
窓からは、柔らかな光が降り注いでいて、ラジオからはゆったりとした優しい音楽が流れていた。僕は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。コーヒーの入ったマグカップは瑠璃子の買ってきたものだった。
瑠璃子とラーメン屋に行った日の事を思い出した。僕らがあの日にもう一度戻れたとしたら、僕らはどうなっていたのだろう。僕らは同じようによく晴れた日に別れ、数週間後に電話でこんな話をしたのだろうか。
瑠璃子は泣いていた。
僕は窓から空を見ながら煙草を吸い、冷めたコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲んだ後、マグカップを二階のベランダから道路に落としてみた。マグカップは割れずにゴロゴロと転がっていった。道路には誰もおらず、マグカップだけがゆっくりと道路を横断した。
なんて頑丈な奴なのだろうと思いながら、僕はマグカップを拾いに行った。そして僕はマグカップを拾いながら、何をやっているのだろうかと思い、急におかしくなってきて、一人で少し笑った。
そのまま僕は近くの公園まで行き、コンビニ弁当の殻や、発泡酒の缶、卑猥な雑誌などが入ったゴミ箱にマグカップを捨てた。
僕はもうすぐ三十歳だった。
その日の夜、僕は徹さんのライブに行くために家を出た。
僕は小牧ちゃんとあの日以来、顔をあわせていなかった。正直な所、ライブも小牧ちゃんには急用ができたから行けなくなったと嘘をついて、他の友達を誘おうかと思ったが、それもそれでどうなのだろうかと思い、僕が考えることを保留にしていたら、土曜日に小牧ちゃんから【明日、どこで待ち合わせする?】とメールが来て、そして結局、僕は小牧ちゃんとライブに行くことにした。
夜になっても、僕は今朝の出来事をずりずりと引きずったままで、体も心も重たかった。
もし僕が、美大を卒業したばかりの頃だったら、瑠璃子に「行くな」って言えたのかもしれない。もし僕が、十代だったら、すぐに瑠璃子の元まで飛んでいって、瑠璃子を抱いたかもしれない。僕はまだ二十九歳だけど、僕の中の小さな僕はもう二十九歳なのだとつぶやいている。僕の中に小さな僕がたくさんいて、小さな僕達は僕の中で戦っていた。
「ヒカリン、お待たせぇ」
オフホワイトのミニワンピースを着た小牧ちゃんが笑顔で僕に言った。小牧ちゃんは普段、Tシャツにデニムというようなカジュアルな服装ばかりだったので、いつもより大人っぽく見えた。その笑顔に、そのワンピースに何か意味があるのか。それとも、ただのいつも通りの笑顔で、ワンピースだって今日は絵の具で汚れる可能性がないから着てきただけかもしれない。僕には小牧ちゃんの気持ちがよくわからなかった。だけど、もし小牧ちゃんの笑顔やワンピースの意味がわかったとしても、僕は気がつかなかった事にしただろう。
「いやいや、俺も今来たとこだよ」
僕はつとめて明るく言った。
「ほんとに?あぁーライブ楽しみだなぁ」
小牧ちゃんは笑顔で言った。
「そうだね」
僕も笑顔で答えた。
「今日は思いっきりはしゃいじゃおっと」
小牧ちゃんは嬉しそうに言った。
「うん」
小牧ちゃんはいつも通りだった。僕だっていつも通りに振舞った。
ライブハウスの前には、色とりどりの頭をした人達がたむろしていた。ここで色鬼ごっこをすれば、永遠に鬼につかまる事はないだろうと思える程、様々な色に溢れていた。
僕は、髪の毛がこんなにも綺麗にショッキングピンクやグリーン、コバルトブルーに染まるのだという事に感心した。ファッションも皆、個性的で、赤とピンクのギンガムチェックのブラウスに、黄色いネクタイ、白いフリルが幾層にも重なったスカートを合わせた女の子。今からどこかに戦いにでも行くのでしょうか?と聞きたくなるような、ハードなビョウのたくさんついた黒いエナメルの衣装に身を包み、顔の半分が隠れるくらいに大きなサングラスをかけた男。
この中にいると、濃紺のカットソーにデニム姿の僕や、オフホワイトのワンピースの小牧ちゃんの方が、逆に個性的に見えるのではないかと思った。逆転の発想。
「ヒカリンの友達ってビジュアル系バンドなの?」
小牧ちゃんが不思議そうな顔で僕に聞いた。
「いや、ロックだって聞いたけど」
僕は言った。
「そうだよね」
小牧ちゃんは不思議そうにカラフルな人々を眺めていた。
「うん。多分さ、色んなバンドが出るんじゃないかな?」
僕もカラフルな人々を眺めながら言った。
「あ、そっか。そうだね」
「うん。多分ね」
僕と小牧ちゃんはチケットを渡し、中に入った。
バーカウンターへ行き、僕はジンロックを小牧ちゃんはカシスオレンジを頼んだ。
カウンターの中には、いちよバーテンのような人がおり、お酒を作っていた。僕はその姿をじっと観察してしまった。つい僕は、自分が少しでも得意な事を、他人が行っていると、観察してしまう。そして僕の方が上手いと満足する。大人気ないと思うが、辞められない。
「乾杯ぃ」
小牧ちゃんが言った。
ライブハウスの暗い照明のせいか、小牧ちゃんが更に大人っぽく見えた。
「乾杯」
僕はそう言い、小牧ちゃんとグラスを合わせた。
ふと見渡すと、徹さんがいた。横には華奢で小さな、ショートカットの女性がいた。
「小牧ちゃん、ちょっと待ってて」
僕は小牧ちゃんに、そう言い、徹さんの方へ向かった。
「徹さん、お疲れ様です」
僕はペコッと頭を下げ、言った。
「おぉ、光。来てくれたんや。ありがとぉ」
徹さんは笑顔で言った。
「もちろんですよ」
僕は大きく頷きながら言った。
「バイトで一緒の光やで」
徹さんが女性に僕を紹介した。
「はじめまして」
女性は小さな声で言った。かすみ草のような雰囲気の女性だった。
「あ、ほんでこっちは千春。俺の相方や」
徹さんは僕に紹介した。
「はじめまして。いつも徹さんにはお世話になってます」
僕は言った。
「いえいえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
千春さんは、少し緊張している様子だった。
徹さんは、そんな千春さんをあたたかく見守っていた。その姿が徹さんと千春さんの良い関係をあらわしていた。僕の勝手な想像の中では、徹さんの彼女は、チャキチャキとした関西人というイメージだったのだが、実際の千春さんは、おっとりと落ち着いていて、一歩下がってついていく控えめな女性という雰囲気であった。
「まぁ、今日は楽しんでいってなぁ。俺、そろそろ準備しなあかんから行くわなぁ」
徹さんはそう言うと、ライブハウスの裏の方へ向かっていった。
「はぁい。楽しみにしてますー」
僕は言った。
千春さんは小さく微笑んで、小さく手を振っていた。
「今日は来てくださって、ありがとうございます。では」
千春さんは小さな声でそう言うと、ちょこんと頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそ、呼んでもらってありがとうございます」
僕も千春さんに小さく頭を下げた。千春さんの場合はちょこんと感じだが、僕の場合はペコッというような感じだった。千春さんはもう一度、ちょこんと頭を下げると、どこかへ向かっていった。僕は千春さんの小さな背中を見送ると、小牧ちゃんの元へ戻った。
「小牧ちゃん、ごめんね。お待たせ」
僕は言った。
「あ、ヒカリン。おかえりぃ」
小牧ちゃんのグラスは既に空になっていた。
「何か飲む?」
僕は小牧ちゃんに聞き、自分のグラスも空にした。ジンの辛さが心地よかった。
「うん。同じのにする」
小牧ちゃんは笑顔で言った。
「OK」
僕はバーカウンターで、カシスオレンジとジンロックを頼み、2つのグラスを持って戻った。
「さっき話してた人が、バイトの人?」
小牧ちゃんが聞いた。
「うん。そうそう」
僕は頷いた。
「横の女の人は?」
「彼女さんだって」
「そうなんだぁ。なんか可愛い人だったねぇ」
「うん」
「そういえば、ヒカリン、瑠璃子さんともう連絡とかとってないの?」
小牧ちゃんが斜め四十五度の角度から、どんぐり目で僕を見つめた。
「うん。何で?」
僕は小牧ちゃんから視線をそらし、答えた。
「なんか、どうなんだろぉって思ったから」
小牧ちゃんは僕を見つめた。
「とってないよ」
僕は小牧ちゃんと目を合わせないようにした。
「別れた日からずっと?」
小牧ちゃんは僕を見つめた。
「うん」
僕は小牧ちゃんに嘘をついた。小牧ちゃんへの僕なりの優しさのつもりでついた嘘だったが、実際は僕の僕への優しさからなる嘘だったと思う。
「そっかぁ」
小牧ちゃんは安堵したような笑顔で言った。
「うん」
僕は頷いた。
「そうだよね。もうヒカリンは大人だもんねっ」
小牧ちゃんはそう言うと、僕を見つめ、嬉しそうに笑った。
僕は無言で小牧ちゃんに微笑んだ。
ライブハウスがざわめきだし、ライブが始まった。
一組目は、三人組の若いナチュラルな雰囲気の男達だった。白シャツとデニムをさらっとかっこよく着こなせるような、洗濯洗剤のコマーシャルなんかに出てきそうな男達だった。「君を守るよ」「君が僕の全てさ」「君を愛してる」と・・・君への愛の言葉をゆっくりしたリズムに合わせて何度も繰り返し歌っていた。何人かの女性客はうっとりと聞き入っていた。よく見ると透き通った声をしたボーカルは中性的で整った顔をしていて、今人気の男性タレントに似ていた。
二組目はパッとしない男六人達がパッとしない歌を歌った。歌詞は英語ばかりで、だけど英語の発音が日本語だったので、かっこよさを狙って英語を多くしたのであれば、逆効果だった。先ほどまでうっとりとしていた女性達は次々にトイレに行ったり、ドリンクの注文に行ったりと席を立った。僕はこの六人の中に、もう少し男前がいれば、席を立つ女性の半分くらいは食い止める事が出来たのではないかと思った。
人はどうしても見た目で人を判断してしまう。孔雀の雄だって、あの豪華絢爛な羽をひろげて雌にアピールする。雌だって、その羽を見て、雄を選ぶのだ。僕だって、もちろん女性を見た目で判断してしまう。性格だってもちろん重要だけど、まずは外見から入ってしまう。僕は「やっぱり性格が合うかが大切だよね。見た目は関係ないよ」などと平気な顔で言う人を信用しない。
僕が二組目のグループが何故、人気がないかという点について、上目線で分析をしていたら、徹さん達が出てきた。
徹さん達のバンドは三組目だったのだ。
徹さん達は長年バンド活動を続けているだけあって、こなれた感があった。ハードに決めて、渋い声で歌う徹さんはかっこよく決まっていたし、声量もあった、低い音も高い音もきっちり出てたし、歌詞だってよかった。
何も悪くなかった。
だけど、徹さんの歌声は僕の心の上の方をすーっと通過していってしまい、心の中に入ってくることはなかった。本当に何も悪い所はなかった。だけど、僕の心には届くものはなかった。
切なそうに徹さんを見つめる千春さんの姿が僕の目に映った。千春さんのその切なそうな表情は、僕とは反対のものであってほしいと思った。
四組目はビジュアル系バンドだった。彼らが登場するとライブハウスが急に熱気に包まれた。ショッキングピンク、グリーン、コバルトブルー、イエロー・・・色とりどりの頭をした人達が音楽に合わせてぴょんぴょん飛んだ。ファンも色とりどりだが、バンドの人達はもっと凄かった。それこそ、まるでミラーボールのようで、もちろんカラフルだし、キラキラと光っていた。それに彼等は、見た目だけじゃなかった。歌詞がいいのか、声がいいのか・・・僕は彼らの世界に圧倒されっぱなしで、何がいいのかという点は結局わからなかったが、彼らは僕の心の中に入ってきた。僕の心の中の奥まで、彼等は入り込んできた。
ライブが終わった後、僕と小牧ちゃんは、近くの居酒屋へ入った。
「乾杯」
小牧ちゃんが嬉しそうに言った。
小牧ちゃんはライブハウスでお酒を飲んだせいか、既にりんごほっぺになっていた。
「乾杯」
僕らはグラスを合わせた。
「あぁ、楽しかったぁ。今日はいっぱい飲んじゃおっとぉ」
小牧ちゃんはそう言うと、梅酒のソーダ割を一気に飲み干した。
「美味しいっ。次は何飲もっかなぁ」
小牧ちゃんは満面に笑みを浮かべながら言った。
「大丈夫?」
僕は小牧ちゃんのただならぬ飲みっぷりに驚いた。
「うんっ。いい気分〜。今日はいっぱい飲むよぉ。ヒカリンも飲もうよぉ〜」
小牧ちゃんはそう言い、はしゃいでみせた。
「う、うん。飲もう飲もう。ただ、小牧ちゃん、あんまり無理はしないようにね」
僕は言った。
「もぉ〜。大丈夫だもん」
小牧ちゃんはそう言いながら、少し潤んだ大きなどんぐりのような瞳で僕を見つめた。
「うん。じゃ、俺も飲んじゃおっかな」
僕はそう言いながら、残っていたビールを飲み干した。
「わぁーい。ヒカリンかっこいぃ。すいませーん。注文いいですかぁ」
小牧ちゃんは僕がビールを飲み干すのを嬉しそうに見届けると、店員を呼んだ。
「お待たせしました」
「すいません。私は、梅酒ロック。ヒカリンは?」
「ビールをお願いします」
「かしこまりました。梅酒ロックとビールですね」
「はぁい。大至急おねがいしまーすぅ」
小牧ちゃんはぴょんぴょん飛び跳ねるような口調で言った。
「ほんとに、大丈夫?小牧ちゃん。そんな酒強かったっけ?」
「えへへ。だって今日は楽しいもーん」
小牧ちゃんは横に首をかしげながら、僕を見つめた。
「それにしてもさ、最後のバンド、なんかすごくなかった?」
僕は聞いた。
「私もそう思ったぁ〜意味よくわかんない感じだったけどねぇ」
小牧ちゃんは大きく頷きながら言った。
「うん、意味わかんないけど、よかったよ」
僕は笑いながら言った。
「あはは、それそれ。意味わかんないけど、よかったぁ〜」
「でさ、徹さん、あ、俺のバイトの先輩ね。三組目だけどさ。どう思った?」
僕は聞いた。
「ん〜。ま、いんじゃなぁ〜い。頑張ってる感じしたし」
小牧ちゃんはどうでもよさそうに言った。
「頑張ってる感じ?」
僕が聞くと、店員が飲み物を持ってやってきた。
「お待たせしました」
「はぁい。どうも〜。ヒカリン、もう一回、乾杯しよぉ」
「うん、乾杯」
「乾杯〜」
そう言いながら、僕らはグラスを合わせた。
「ねぇ、小牧ちゃん、頑張ってる感じってさ、どんなの?」
僕はもう一度、聞いた。
「うーん。なんかぁ、音楽好きで、一生懸命、頑張ってるんだろうなぁっていう感じ」
小牧ちゃんは首をかしげながら言った。
「うーんと。それってさ、小牧ちゃんの感想としては、良い悪いどっち?」
「良い・・・悪い?」
小牧ちゃんは不思議そうに、僕を見つめながら聞いた。その目は酔いがまわってきたのか、さらに潤んでいた。
「うん。頑張ってる感じって?どっちなんだろうと思って」
僕は冷静を装いつつ、小牧ちゃんに聞いたが、心の中では変な汗をかいていた。頑張ってる人・・・。
「うーん。普通かなぁ」
小牧ちゃんは、少し考えて、言った。
「普通?」
僕は聞いた。頑張っている人=普通。普通で、特に感想がないから、頑張っている感じという訳なのか。僕も徹さんと同じように、頑張っている人なのだろうか・・・。
「うん、普通だよぉ。ねぇねぇ、それより飲もうよぉ。はい、もう一回乾杯〜」
小牧ちゃんは嬉しそうに大声で言った。
「うん、乾杯」
僕らはまたグラスを合わせた。そして小牧ちゃんは、梅酒ロックを一気に飲み干した。
「ぷはー。美味しいっ。すいませーん」
「ご注文ですか?」
「梅酒ロック、おねがいしまーす」
「かしこまりました」
「ヒカリンは?」
「あ、俺はまだいいや」
「かしこまりました。では梅酒ロックですね」
「はぁーい。おねがいしまーす」
小牧ちゃんは、すでにかなり酔っ払っている様子だった。
「小牧ちゃん、今日どうしたの?」
「なんでぇ?」
「いや、いつもより、早いスピードで飲みまくってる感じだからさ」
「だってヒカリンと一緒だしぃ」
小牧ちゃんは上目遣いで僕を見つめながら言った。
「俺?」
僕は、あの日のあったかくて柔らかい小牧ちゃんの体を思い出した。そして、僕の理性が崩れ始めた。
「うん。ヒカリンと一緒だからうれしいもんっ」
「あ、ありがと」
「ね、これ飲んだらね。どっか連れてって?」
小猫のように甘くて人懐っこい声で小牧ちゃんが言った。
「ん?」
「ねぇねぇ。どっか連れてってぇ」
小牧ちゃんはさらに甘えた声で言った。
「どっか?」
「んー。そうだっ、夜景みたぁーい」
小牧ちゃんは嬉しそうに僕を見つめ、言った。
「夜景?」
僕は聞いた。
「うんっ。デートしよぉ〜。夜景デート」
「うん。いいけど」
僕は言った。
店員が梅酒ロックを持ってきた。小牧ちゃんはそれを受け取ると、また一気に飲み干した。
そして僕らは店を出て、夜景の見える公園へと向かった。
りんごほっぺで千鳥足の小牧ちゃんは僕の腕をぎゅっとつかみ、そのあたたかい柔らかな体を僕に押し付けるようにしていた。僕は小牧ちゃんの体温を感じながら、瑠璃子の事を考えていた。瑠璃子はお見合いに行ったのだろうか。僕はあの時、瑠璃子を止めるべきだったのだろうか。
公園にはたくさんのカップルがおり、それぞれに一定距離を保ちながら、皆一様に寄り添いあっていた。
「わぁ、きれぇ〜」
小牧ちゃんは夜景を見ながら言った。そして更に強く、その体を僕に押し付けた。
確かに夜景は綺麗だった。暗い中にキラキラと輝く無数の光。だけどこの日の夜景も僕の心には届かなかった。僕の目に映ったのは、ただキラキラと輝く光に過ぎなかった。
「うん。綺麗だね」
僕はそう言いながら、この輝く街の光のどのくらいが幸せな光なのだろうかと思った。そして瑠璃子とラーメン屋に行った帰りに、抱き合い、キスをした事を思い出した。灯りのない真っ暗な道だった。だけど僕は幸せだった。
「ねぇ、ヒカリン、キスして」
小牧ちゃんが小さな声で呟くように言った。
「・・・」
僕が黙っていると、小牧ちゃんが僕に抱きついてきた。僕は小牧ちゃんのおでこにキスをした。すると小牧ちゃんが僕の口にキスをした。
そして、僕らはどちらから誘うでもなく、自然な流れで、そのまま近くのラブホテルへ向かい、一夜を共にした。
僕は小牧ちゃんと交わりながら、瑠璃子を思った。小牧ちゃんは僕と交わりながら、誰を思っていたのだろうか。それが僕であってほしいようで、僕であってほしくないようでもあった。
僕は限りなく、僕を中心にして生きていた。
これは後で気がついた事なのだが、僕らが酒を飲んだ居酒屋の近くで、夜景の見える所というのはあの公園しかなく、またその公園のすぐ近くにはラブホテルが幾つかあった。
次の日から、僕はコンクールに向けて、毎日アトリエに通った。バーテンのバイトはしばらく休みを貰った。元々、オーナーの趣味でやっているような店だったので、僕らは自由に休みをとることを許されていた。ペットショップのバイトはそういう訳にもいかず、相変わらず僕は店長につきまとわれながら働き、相変わらず佐藤さんはその様子をニヤニヤと嬉しそうに見ていた。
今日もアトリエには誰もいなかった。
僕は瑠璃子の前に座った。静まり返った薄暗いアトリエの中で、美しい瑠璃子だけ穏やかな光に包まれているようだった。僕は灯りもつけずに、ずっと瑠璃子と向き合っていた。そして僕は瑠璃子の目に涙を付け加えた。
僕は、今までずっと人物画を描いてきた。デッサンや、モチーフなどが決まっている時以外は、いつも人間と向き合ってきた。
儚くて弱い人間の中にある、強さのかけら。
傲慢で醜い人間の中にある、優しさのかけら。
人間の荒れはれた心の平野に咲く、美しい小さな花。
僕は作品を通して、人間という生き物を伝えたいと思っている。もちろん、僕も人間だけど、僕はまだ人間という生き物の事がよくわからない。答えに通じる道が見えたと思ったら、すぐにその道は封鎖されてしまう。未だに、僕は出口のない迷路の中で迷い続けている。
裕也は、昔、抽象的な絵を描いていた。常識にとらわれることのない自由な発想と抜群の色彩センスで描かれた絵には不思議な魅力があった。しかし、その頃の裕也はコンクールなどで評価される事がなかった。僕と同じように落選続きだった。あの頃の裕也は迷っていたのだろう。明るい雰囲気の絵を描いていたと思うと、次の日にはその絵が描きかえられ、暗い雰囲気の絵になっていたりした。いつも裕也は絵の前で、考え込んでいた。裕也の描いた絵に無数の穴が開けられ、大学の焼却炉の中に捨てられていた事もあった。
一度、アトリエで泣いている裕也を見た事がある。
僕がアトリエに入ろうとすると、中から男の苦しい泣き声が聞こえた。僕は入口で立ち止まり中を覗いた。裕也は泣きながら、自分の絵をナイフで刺していた。
裕也が注目を浴び始めたのは、今の作風に変えてからだった。懐かしくてあたたかい日常の中の風景。昔の裕也の絵からは想像できない作風である。裕也はすでに迷路を脱出したのだろうか。
僕は裕也の絵の前に立った。そして僕の絵の前に立った。僕はそれを繰り返した。
「僕らも、そろそろ芽を出さないと、芽も出せないまま終わっていくよ」裕也の言葉が僕の心の奥で何度もリピートされていた。
ピピピピ。携帯電話が鳴った。
【今日の夜、会えない?ヒカリン、どうして連絡くれないの?】
小牧ちゃんからのメールだった。あの一夜を境に、小牧ちゃんは僕に頻繁に連絡をしてくるようになった。
ただ僕は、小牧ちゃんからの電話もメールも返さずにそのままにしている。あれから、僕は毎日、アトリエに通っているが、小牧ちゃんは一度も来ていない様子だった。
あの日の朝、瑠璃子からの電話がなかったら、僕は小牧ちゃんと一夜を過ごす事はなかっただろう。僕の心に出来た傷を癒すために、僕は小牧ちゃんを抱いた。僕にとって小牧ちゃんは大切な仲間なのに、あの日の僕にとって小牧ちゃんはただの道具に過ぎなかった。
僕が小牧ちゃんからのメールを無視して作業を続けていると、また、携帯電話が鳴った。
【ヒカリン、なんで無視するの?】
僕はしばらく携帯電話のディスプレイに映る文字をぼぉっと眺めていた。ナンデムシスルノ?僕は携帯電話の電源を切った。
しばらく作業を続け、空腹を感じた僕は、定食屋に入り、焼魚定食を食べた。定食屋には、くたびれたスーツを着たサラリーマンがテレビを見ながら、黙って食事をしていた。そんな男が数名いたが、皆、仕事に追われているのか、疲れ果てた様子だった。
テレビでは、愛らしい人形のような顔をした人気の女性タレントがタイプの男性を聞かれ「んー、タイプは好きになった人ですねぇ。私は見た目とか年収とか、そういうのは気にしないタイプなので、やっぱり性格が大切ですよねぇ。あったかい心を持った人がいいですねぇ」と笑顔で答えていた。テレビに映るその女性タレントの姿を見ながら疲れ果てたサラリーマン達は、黙って箸を動かしていた。
僕は食事を終え、煙草を吸いながら、あと五日で三十歳になる事を思い出した。
僕はこれからどこへ向かっていくのだろうか。
「俺さぁ、最近なんか気が重いんだよなぁ」
健二が煙草を吸いながら言った。
今日もいつもの店で、いつも通り僕はミックスジュース、健二はコーヒーを頼んだ。健二のお気に入りのウェイトレスはいなかった。
「あぁ、パパになるから?」
僕は聞いた。
「うん、嬉しかったし、頑張ろうって思ったわけよ。だけど、なんかさ、こう現実と向き合っていると、あぁ俺はこれからずっと家族のために頑張り続けないといけないんだなぁって思うわけよ」
健二は溜息をついた。
「うん」
「さやかがさ、保険に入るようにって言ってきてさ」
「保険?」
僕は聞いた。
「うん」
「健二、入ってなかったっけ?」
「いや、今の保険じゃだめだから、これに入れって持ってきたわけよ」
「うん」
「俺が死んだら、二千万ね」
健二は大きな溜息をついた。
「さやかちゃん、しっかりしてるな」
僕は可愛らしい人形のようなさやかちゃんを思い出しながら、言った。
「お前、そういう問題じゃないんだって。まぁ、さやかはしっかりしてるよ。っていうかさ、しっかりしてきた。妊娠して、結婚することになって、こっちがびっくりするぐらいしっかりしてきたよ」
健二はそう言うと、もう一度、溜息をついた。
「女は強い」
僕は深く頷きながら言った。
「ほんと、強いよなぁ。今、俺はこんなにピンピンしてるのに、俺が死んだ時の事、もう考えてるんだもんなぁ」
「まぁ、子供が出来た訳だしね」
「そうなんだよなぁ。俺、パパになるんだもんなぁ」
「健二パパ」
僕は目をパチパチさせて健二を見つめた。
「だから、お前、気持ちわるいって。お前のパパじゃないし」
健二は顔を顰めながら、言った。
「まぁね」
「お前はどうなんだよ?瑠璃子さんは?」
健二は聞いた。
「あー、瑠璃子、お見合いしたみたい」
僕はミックスジュースをストローで啜りながら言った。
「見合い?」
健二は目を大きく見開き、聞いた。
「うん、なんかさ、電話があってね、お見合いするのってさ」
「それで?」
「それだけだけど」
「は、お前は?」
健二はありえないというような顔で僕を見た。
「もう、別れてるしね」
「いや、そうだけどさ。お前はそれでいいの?」
「去るもの追わずの精神だから」
僕はそう言うと、新しい煙草に火をつけた。
「お前と瑠璃子さん、元に戻ると思ってたよ。なんとなくさ。瑠璃子さんはお前にとって、今までの女と違っただろ。特別っていうかさ。お前、ほんとにそれでいいのかよ?」
健二は言った。僕を見る目は真剣だった。
「電話でさ、お見合いするなって言ってって言われた。そんな事、言えるわけないでしょ。俺は俺の事でいっぱいいっぱいで、まだ進む道も見えてない。瑠璃子を止める事は、俺にはできない・・・」
僕は言った。
「ごめん」
健二が小さな声で言った。
「いやいや。なんで謝るんだよ。健二がさ」
「いや、お前、頑張れよ」
健二は言った。僕を見る目は優しかった。
「え?」
「俺さ、お前の事、すごいと思うよ」
「なんで?」
「お前さ、ずっと絵、描いてるだろ」
「うん」
「お前、コンクール落ちてばっかだし、絵が売れてる訳でもないし」
健二ははっきりと言った。
「う、うん」
僕は頷いた。
「それでも、お前は絵を描き続けてるだろ」
「うん」
「そういうのってすごいと思う。俺なんて、会社で嫌な奴にヘコヘコ頭下げてさ。何やってんのって思うよ。上の奴が言うことに対して、おかしいだろって思っても意見する勇気もなくってさ。いつも多数決をとったら、俺は多数派の中にいる。本当は少数派の方に賛成だったとしてもだよ。だけど俺は、このレールから飛び出す勇気もないんだよ」
健二は真面目な顔で言った。
「レールから飛び出さないのだって大変だよ」
僕は言った。
「レールから飛び出さないのが大変?」
健二は僕の言葉を繰り返した。
「うん、レールから飛び出さないのだって大変だよ。だけど、健二はさやかちゃんや生まれてくる子供のために、レールから飛び出さないように、言いたい事も我慢して踏ん張ってるわけでしょ」
「うん」
健二は小さく頷いた。
「なぁ、今日、この後時間ある?」
僕は聞いた。
「あぁ、なんかあるの?」
健二が不思議そうに僕を見た。
「海でも行こうよ」
僕はコンビニでも行こうよというような軽い口調で言った。
「海?」
健二は聞いた。
「うん」
僕は笑顔で頷いた。
「おう、行こうぜ、海」
健二は嬉しそうに言った。
そして僕らは店を出て、健二の車で海に向かった。
昔、僕らは夏になると、毎週のようにその海水浴場に遊びにいっては、派手な女の子をナンパして遊んでいた。健二は女の子を口説くのが上手くて、僕はまぁ、この可愛いルックスだから・・・。僕らのナンパ成功率は八十五パーセントを超えていたと思う。
「なんか、懐かしいな。お前とこうやって海行くのさ」
健二が言った。
「うん」
「まだ、人いないだろうな」
健二は言った。
「四月だからね」
「早いよな。この前、年明けたばっかって感じがするよ」
「ほんとに。ほんとに早いよなぁ・・・一日ってさ、ほんとに二十四時間もあるのかな?」
僕は言った。
「一日は二十四時間だろ」
健二は即答した。
「じゃあ、一年はほんとに三百六十五日あるのかな?」
「お前、大丈夫か?」
「いや、なんかさ、たまに思うんだけど。俺らが当たり前だと思っていることって、本当にそうなのかなってさ。当たり前な事は、疑われる事なく、当たり前として存在しているからさ。なんか、俺はそういうとこですごく大きな何かを見逃しているような気がする事があるんだよ」
「うん、まぁ・・・。そうかもしれないな。でも今は一日は二十四時間だし、一年は三百六十五日なんじゃないの。閏年は三百六十六日だけどさ」
健二は少しめんどくさそうな顔をしながら、煙草に火をつけた。
「まぁ、そうなんだけどさ」
僕は言った。
僕はこの気持ちを人に上手く伝える事ができない。実際、僕の中でも言葉にすると、僕の本当の気持ちとずれてしまう。僕自身、整理ができていないのだから、人に伝える事が出来ないのは仕方ない事なのだろう。
「そうなんだよ」
健二は言った。
「一年とか一日とか、そういうのって人間が決めたことだろ」
僕は既に着地点を見失っていたが、話を続けた。
「あぁ」
「俺さ、ペットショップで働いてるじゃん」
「あぁ」
「犬は産まれてから一年で、だいたい二十歳くらいになりますとかって俺ら説明するのよ」
僕は言った。僕はまた、迷路に入ろうとしていた。
「あぁ。人間より寿命が短いからだろ」
「なんかさ、変じゃない?」
「まぁ、人間の歳に換算するとってことだろ」
「そうだけどさ。犬は犬で、猫は猫で、人間は人間だろ」
僕は言った。
「あぁ。それに、一分は六十秒で、一時間は六十分で、一日は二十四時間で、一年は三百六十五日だ」
健二は言った。
「人間は人間だろ。そのルールは人間のルールだろ」
「あぁ」
健二はまた始まったよというような顔で僕を見た。
「なんで人間は全ての生物を自分達のルールで支配しようとするのだろうか」
僕は言った。
「支配?」
健二が今日は何を言い出すのだというように、目を丸くして僕を見た。しかし、僕は健二の反応を無視して続けた。
「だってさ、例えばライオンはライオンの中でルールを作り、強いライオンがボスになる」
「あぁ」
「だけどさ、強いライオンは、強いトラに勝負を挑んで、トラまで支配しようとはしないわけ」
「あぁ」
「それに強いライオンは、強いからってむやみやたらにシマウマを殺さない」
「あぁ」
「地球のルールの下に、ライオンのルールがある」
「あぁ」
「人間が人間のルールを他の生物に押し付けるのはおかしいだろ。なんで人間は、地球のルールより人間のルールを上に持ってこようとするのだろうか。人間だって、地球の生物の一つに過ぎないんだ。ライオンは強さを競うためにライオン同士で戦う。同じように人間も人間同士で戦う。ライオンの戦いは地球を壊さない。人間の戦いは地球を壊す。人間は進化と共に何か一番大切な部分をどんどん忘れていっているような気がするんだ」
僕は言った。
「あぁ」
「ほんと、人間は勝手だよな。だけど、大人は当たり前のように、子供に自分勝手はいけませんとかって教えるだろ。テレビでライオンが戦ってる映像なんかが流れたら、平気でライオンは恐いとか言うんだ」
僕は言った。
「まぁ、言いたい事はわかるけどさ。俺は子供が出来たら、自分勝手はだめだって言うだろうな。ライオンが恐いとは言うかわからんけどな。まぁ、俺が言いたいのは、お前も人間だってことだよ。それにお前はもう三十だろ。まぁ、それがお前のいいとこなんだけどなぁ」
健二はそう言うと、ラジオの音量を上げた。
ラジオからは透明感のある歌声で人気の女性歌手の最新曲が流れていた。その歌声で僕は現実に引き戻された。
小さな僕が、僕の心の中にある深い深い闇につつまれた森の中でさまよい歩く。進めば進むほど、深い闇の中に小さな僕は消えていく。そして僕は、また小さな僕を森に送り出す。僕はこうやって人間という生き物の正体を探し続けている。だけど、僕は答えを出すことができない。考えれば考える程、抜け出せない闇に落ちていく。
僕は人間が作った不自然な自然を見て、自然を感じる。そして、部屋に観葉植物などを置き、緑があると落ち着くなどと思う。僕はクーラーのきいた部屋で地球温暖化の事を考える。そして、バイクにのって出かける。僕は犬にまで流行を作る人間をおかしいと思う。だけど、僕は流行の犬を客に勧める。それに僕のペット、ぴょんたんだって流行の耳のたれたウサギだ。僕は人間が醜いと思う。僕は人間の絵を描く。僕は人間の心を惹き付けるような絵を描きたいと思う。人間の絵を人間のために描く。そして、僕は人間に恋をする。
そう、僕はいつも矛盾の中で生きている。
「そうなんだよねぇ。俺、人間だったみたい」
僕は笑いながら言った。
「お前、ほんと意味わからんわ」
健二も笑いながら言った。その笑顔や言葉は、僕に対するあたたかい優しさが感じられた。僕も思いきり笑った。笑う事で、僕は心の中の闇を吹き飛ばそうとした。
この日は、僕の誕生日だった。
人間の歳に換算すると三十歳。
僕が二十歳の時に思い描いていた三十歳と、現実の僕はほど遠い。僕が十歳の時に思い描いていた三十歳と、現実の僕は・・・。僕は十歳の僕に謝りにいくべきかもしれない。
三十歳になった僕は、まだ深い森で迷い続けている。
僕らは近くの駐車場に車を止めると、海へ向かって歩いた。海の匂いが懐かしく感じられた。僕は海辺で育った訳ではないけれど、海の匂いに懐かしさを感じる。僕はやはり生物の原点は海なのだと感じた。
「お前さ、今日、誕生日だろ」
健二が言った。
「おっ覚えていてくれたのかい?さすが健二パパ」
「だから、気持ち悪いって」
健二は顔を顰めながら言った。
「あ、ごめんごめん」
「今日の夜も空いてんの?」
健二は聞いた。
「うん」
僕は頷いた。
「お前、寂しいやつだなぁ」
「ま、独り身ですから」
「晩飯、奢るよ。なんかうまいもの食いに行こうぜ」
健二が明るい声で言った。
「おーっ。健二パパ、ご馳走様です」
僕は大袈裟に頭を下げた。
「お前さ・・・ま、いいや。俺はお前の事、応援してるからさ。お前、頑張れよ」
健二は海を見ながら、僕に言った。
「ありがと」
僕は言った。
僕はこれから、どこに向かって頑張ればいいのだろうか。僕は三十歳を折り返し地点だと考え、今まで走ってきた。だけど、実際に三十歳になった僕は、まだスタート地点のあたりをぐるぐると回っているような状態で、ここで折り返したら、あっという間にスタート地点に戻ってしまいそうだ。
僕は何をやっているのだろうか。僕は何がやりたいのだろうか。
僕は、大きな海を見ながら、十七歳の頃を思い出した。ただひたすらに夢に向かって走っていたあの頃。
「焼肉、行く?」
健二が言った。
「うん」
僕は海を眺めながら、答えた。四月の海は風が吹くと、少し肌寒かった。海の上には薄暗い空が広がっていた。少し悲しげな表情をした空が僕の心を慰める。
「すき焼き、行く?」
「うん」
「ステーキ、行く?」
「うん」
「しゃぶしゃぶ、行く?」
「うん」
「お前、聞いてんの?」
健二が声を大きくして聞いた。
「うん」
「おい」
「健二、肉が食べたいんだろ」
僕は言った。
「あぁ、聞いてたんならいんだけどさ。さやか、妊娠してから肉を一切食べないんだ。気持ち悪いんだってさ」
「うん。焼肉がいいな」
「おう、俺も焼肉がよかったし」
「知ってる」
僕は笑った。健二も笑った。
健二が小さな石を拾い、海に向かって投げた。石はぽんぽんと海の上を飛び跳ね、小さな水しぶきと共に海の中へ沈んでいった。僕も同じように石を投げた。僕の投げた石は健二が投げた石より少し遠くまで飛び、沈んだ。健二はもう一度、石を投げた。今度は僕の投げた石よりだいぶ遠くまで飛んだ。
「なんか、懐かしいな」
僕は言った。
「あぁ、お前さ、覚えてる?俺らさ、小五の時、池で五時間も石投げたの。どっちが遠くまで飛ぶかってさ」
健二は懐かしそうに言った。
「うん」
「懐かしいな」
「うん。あれ、確か最初は三回勝負とか言ってやり始めたんだよ」
僕は言った。
「そうそう、その勝負に負けたお前がさ、もう一回やりたいって言ってきて。それでお前、勝つまでやめなかったんだよな?」
「いやいや、健二がさ、勝つまでねばってたんだって」
「お前だろ」
「いやいや」
僕は笑った。健二も笑っていた。
本当は健二の言う通りで、三回勝負で負けた僕が、もう一度勝負したいと申し出たのだ。僕が勝つと、今度は健二がむきになってさらに遠くに飛ばす。そしてまた僕がむきになって遠くに飛ばす。その繰り返しだった。そのせいで僕らは五時間も石を投げ続けることになった。小学五年生の僕は負けず嫌いだった。今の僕はどうなのだろうか。僕らは五分程、海に向かって石を投げた。
そして焼肉を食べに行った。健二の連れて行ってくれた店は、一人一万円はかかるような高級店で、僕はそんな所で健二の成長を感じた。高級なだけあって、味も抜群だった。肉はとろけるように柔らかく、口にいれるとすぐに溶けるようになくなった。僕らは肉を口に運ぶたびに「美味い、美味い」と言いながら、食べた。
僕は、おそらく僕の体が必要としている以上に肉を食べた。僕は大草原に住むライオンと違って、明日も必ず食事ができる。だけど、僕は必要以上に食べた。やはり僕も自分勝手な人間という生き物だ。健二がどうだったかはわからないが、僕は焼肉を食べた後、胃がもたれて気持ち悪くなった。そんな所で僕は、三十歳になったのだという事を改めて感じた。そして、今後は必要以上に食べるのはよそうと思った。