当然の雨に
それからは何事もなく。
ただ静かに、僕の日常は過ぎてゆく。
今日もそんな日常が続くと思っていた。
僕の高校の方が妹の小学校より遠いので、少し家を早く出る。
「戸締り頼んだぞ、妹よ」
「ハルちゃん、まかせて」
にっこりと僕の妹は可愛い笑みを見せた。
「ねぇ、ハルちゃん。午後から凄く天気が悪くなるみたいだよ。傘持っていったら?」
「そんなにでもないだろ?」
「駄目だよ、ハルちゃん。風邪ひいたら学校休むことになるでしょ?」
差し出された傘を受けとる。
その日の午後。学校の窓から見る雲行きは怪しかった。
すべての授業が終わる頃には、雨がポツポツと降り始めた。妹の言うように傘を持ってきておいてよかった。
帰り際、担任に用事を頼まれて僕は帰るのが遅くなってしまう。誰もいなくなった教室に戻りって、鞄と折り畳み傘を持って教室を出た。
チラリと神崎冬子の席を見た。
そこにはもう彼女の姿もなかった。
「未練がましいよな」
外に出ると、うっすら霧が広がる。警報はなかったはずなのにな。
「早く帰らないと」
しばらく歩いていると、人影を見つけた。
「神崎さん?」
それは、僕の意中の女性。神崎冬子だった。
意外にも、親衛隊の姿がなかった。それはあの日の帰り道以来の出来事だった。たまたまなのか、親衛隊に何かあったのか、それはわからない。
事実として、彼女は一人で歩いている。こんなに濃い霧だ。取り巻きの人達も、早々に帰りたかったのかもしれないな。
彼女は、透明なビニール傘をさして歩いていた。
数歩遅れて、僕は歩いた。
雨の中、距離を保ちながら歩いた。声をかけるのもためらわれるし、あまり近いとストーカーも間違われるからだ。
「気まずい」
彼女は僕に気が付かない。視界が悪いせいか。
しばらく歩いていると、彼女は何故か立ち止まった。
どうしたのかと様子を伺う。一匹の子猫がヨタヨタと彼女の前に現れたからみたいだ。
神崎さんは立ち止まり何かを思案しているようだった。
優しい彼女のことだ。子猫を抱きだけ、保護でもするではないかと思った。それとも、家では飼えないからと道路の真ん中から移動させて、そのままやり過ごすのかもしれない。
どのような選択をしても口を出す権利はない。僕だって、猫は飼えない。そう、たぶん僕なら見て見ぬふりをする。
彼女はまだ立ったまま、何かを考えている。
雨はますます強くなる。
僕も彼女の姿を見つめたまま動かなかった。
すぐ傍の水路の水かさは増し、ゴウゴウと音と立てている。
冷たい雨は二人を静かに濡らしていく。
どのくらいたっただろう?彼女は動いた。
そして、一瞬。僕は固まった。
子猫は蹴り上げられ、ポチャンと水路に落とされたのだ。
考えるより先に体が動いた。僕は持っていた傘を投げ捨て駆け寄った。そのまま、水路に身を乗り出して、飛び込んだ。
目の前で飛び込んだ僕を見て、彼女は酷く驚いた表情をしていたような気がした。だが、そんなことはどうでもよかった。
手探りで、茶色い水の中で子猫を探す。
急げ、急げ、急げ、まだ沈んでない。手の温かいものを掴んだ。
「ぶっはぁ!」
僕は顔を出した。
服がすごく重い。冷たい。
でも、まだ体力は残っている。まだ大丈夫。水をかき分け、水路のふちに戻る。雨と混じりながら声が聞こえてきた。
「碧くん、碧くん!!!!!何をしているの!!!!!!」
真っ青な顔をしながら、彼女は傘も鞄を投げ出し水路のギリギリのガードレールを掴んでこちらに降りてきた。そして、いっぱいいっぱいに手を伸ばしてくる。
「掴んで、早く!!!!!!!」
猫は助けたが、それから僕と子猫が助かる方法を考えてなかった。思いのほか、深い水路だったことに気が付きパニックになった。
「いいから早く!!!!!!!!」
焦って、その手を掴みかけて、躊躇する。
彼女まで、落ちてしまったらどうする?
「いいから!!!!!!」
彼女に急かされて、僕はその手を掴んだ。
信じられないことだが、彼女は物凄い力で子猫と僕を引きずり上げた。
それから、ビシャビシャの僕と子猫は道路に転がった。
「どうしてこんな危ないことを?」
困惑しながら神崎冬子は尋ねた。
息を整えながら彼女を見る。
「君こそ、なんでこんなことを?」
彼女は困惑して、僕を見る。
「よく意味がわからないわ?」
僕こそ困惑した、彼女を見る。
「猫を水路に落としたろ?」
次の言葉に僕は息を飲んだ。
「それが、どうかしたの?」
勢いよく起き上がり、僕は彼女の頬を軽く叩く。
パンッという乾いた音がした。
「命を大事にしない人は嫌いだ!君は人間じゃないよ!!」
そのまま猫を掴んで、僕は家に走った。
全速力で。
後ろ振り返らずに。